03 襲来
噴水の縁に腰かけると、声をひそめてふたりは話しあった。
「私が気になったのは、水盆の話です」
アンジュが切り出すと、カイルは記憶の糸を手繰るように先ほどの会話を思い出していた。
「水盆……? ああ、フレイヤがなにか言っていたな。聖力の制御を学ぶために水の色を変える特訓をするとか。それがどうかした?」
「出来ません」
ただの引っかかり程度の話ではあるがフレイヤの「聖女」の力が自分と同じものを指すのだとしたら考えは変わって来る。
「――私には、水盆の水の色を変えるようなことは出来ない、のです」
「ふうん……成程。君とフレイヤの能力の質は異なる、とそういうわけだ」
または、といっそう声を低めてカイルは言った。
「フレイヤには聖力なんてなくて、それらしいことを言っていただけということもあり得るな」
「……ですが、フレイヤ様の加護を貴方は受けたのでしょう?」
「……っ、ふふ」
急にカイルが笑いだしたのでアンジュはぎょっとした。何か妙なことを言ってしまったのか、と数拍考えたがそれらしいことはまるで思い浮かばなかった。
「な、なんですか」
「『貴方』っていいな、と思ってね。夫婦っぽい」
「夫婦でしょう……いちおう」
夫の笑いのツボがわからずアンジュが困惑していたとき、絹を裂くような悲鳴が響き渡った。
庭の奥の方から人が此方に向かって駆けてくる。その背後には夜闇に紛れるようにしてけぶる黒い影が見えた。
ずず、と重たげに煙を纏いながら何かが大きく羽搏いていた。
「これは……」
「下がって、アンジュ!」
ぎいいい、と金属が擦れ合うような耳障りな鳴き声が宙に響いた。鋭い羽音が夜の静寂を切り裂く。
鳥を思わせる姿をしているが黒い煙のようなものを纏っている――アンジュはカイルの胸の傷跡をハッと思い出した。
「悪獣だ! 何故王都にまで……」
「聖女フレイヤ様、どうか我らをお助けください!」
室内で庭のようすを見ていたパーティーの参加者たちがフレイヤのもとに集まっていた。皆怯えた表情でフレイヤの足下に座り込み、すがりついている。
「早く皆さま避難をなさって! 屋外におられる方は中に早く、皆さま、地下室がございます。そちらでやり過ごすしかございませんわ」
「お、お義母さま……」
「エリュシア、あなたも地下室へ行きなさい――皆さま、ご案内いたします。どうぞ此方へ……」
フレイヤは参加者たちを引き連れて屋敷の奥へと消えていく。がらんとした広間の中にアンジュとカイルだけが残されていた。
「これ借りますね――って誰もいないけど」
壁に掛けられていた剣を手に取ると、カイルは再び庭に出ていこうとする。その後を追って、アンジュも外へと飛び出した。
「カイル様!」
「……っ、何で来たアンジュ! 君もフレイヤたちについて避難していなさい」
いつになく強い口調で言われ、怯みながらもまっすぐに見つめ返した。ふう、と息を吐きいまにも悪獣に飛び掛かろうとしているカイルに向かって言った。
「私にも、何か――出来ることがあると思うのです」
たったひとりで悪獣に向かっていこうとするカイルを前にしたら、自分の身の内に小さな火が灯った。自分の力がカイルの役に立つのなら、いや立たせてみせる。すると諦めたようにカイルが笑ったのがわかった。
「俺に加護を――アンジュ」
「はい」
カイルの背中に両掌を押し当てて、祈った。
治癒はしたことがあるが加護、どうやればいいのかわからないけれど――すると、カイルの身体を包む光の球体が生まれた。
「おお……?」
「ど、どうしましょう、何か変なことに……⁉」
なんだろう、これ。
指で突くとぷに、と柔らかな手ごたえが返って来る。巨大なシャボン玉の中にカイルを閉じ込めたようなかたちになっていた。
「ああ――俺も初めてだな、こんな加護を受けるのは……いつもフレイヤのはなんかそれらしい呪文を唱えられるだけで、目に見えて何かが起きるわけでもなかったし。よし、とりあえずやってみよう」
「お気をつけて……」
一、二度手に馴染ませるように剣を振ってから、カイルは鳥の形をした悪獣を正面に見据えた。キエエエ、と耳障りな鳴き声を発しながらカイルに向かって悪獣がとびかかって来た。
が、先ほどアンジュが与えた球体の加護に弾かれてしまう。
「ふむ、効果があるみたいだ。さすが俺の奥さん」
「ふざけたことを言っていないで早く!」
後方からのアンジュの叱咤に対してカイルは余裕そうにひらひらと手を振った。鳥の悪獣は怒っているのか、さらに勢いよく羽搏いている。
「よーっし、可愛い奥さんのご期待に副えるように頑張りますか、っと!」
カイルは剣を構え、再度突進してきた悪獣に向かって大きく振りかぶって斬り込んだ。しゅ、と軽い音ともに悪獣が両断される。
飛び散る血しぶきと共にまき散らされていた黒煙がくすぶりながら闇の中へと紛れていった。
「ふう、どーお? 恰好よかった?」
カイルがぱっと剣を振って血を払うとアンジュのもとへ歩いてきた。ばしゅ、と光の球体もシャボン玉が弾けるようにして消えてしまう。
目の前に立ったカイルに背伸びをして――取り出した手巾で頬の返り血を拭った。
「……なんですか?」
「いや」
怪訝そうな顔をしていたので、アンジュが尋ねるとカイルはふは、と息を吐いた。
「キスされるかと思って、ちょっと期待しちゃった」
「す、するわけがないでしょう!」
「ほら、背伸びしたからてっきり」
そんな夫婦のやりとりは、地下室から避難していたパーティーの参加者たちが恐る恐る出てくるまで続いた。
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