第三章 聖女の秘密

01 ダンスパーティー

 荘厳な管弦の音色と人々のざわめきが混じるグリーデ侯爵邸のダンスホール。

 その中央で一組の男女が手と手を取り合い、見つめ合っていた。


 黒竜公カイル・エヴァリストとその妻アンジュのダンスが始まろうとしているこの瞬間に注目が集まっているのである。他にも踊っている人たちはいるのにその一点にだけスポットライトが当てられているかのように、ひりついた空気が漂い、当の二人は視線に串刺しにされていた。


 カイルは漆黒のシャツに同じような暗色のジャケットを重ねており、彼の黒髪と相まってまさに黒竜公の名にふさわしい色彩を纏っている。

 対するアンジュはカイルの瞳の色と同じ、鮮やかな海色のドレスを身に纏っている。背中の編み上げのリボンが腰にかけての美しいラインを強調し、ふわりと裾にかけてボリュームのあるスカート部分に繋がる。胸元部分に縫い付けられた真珠の飾りがことさらアンジュを上品に見せていた。


「カイル様……」


 そう呼びかけると、よほど神妙な顔をしていたのかカイルが首を傾げた。


「もしかしてダンスが下手だったりする?」

「いえ。そういうわけではありませんが……踊ったのが随分昔過ぎて、ステップを思い出すのに時間がかかりそうで」


 すっとぼけた返事をしてきたカイルに少し力が抜けた。こう、注目されると肌がざわっとする。いてもたってもいられず、すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたくなるのだが――カイルに手を握られていると、そんな気持ちが薄れるのが少し不思議だった。


 曲が変わり、新しい曲が始まる瞬間に滑らかな動きでステップが踏まれた。

 まるで身体がどう動けばわかっていたかのように、ごく自然に優雅なターンへと導かれる。必要最低限の教養レベルでしか技能がなく、どちらかといえば運動が不得手なアンジュが、淑女のお手本のようなダンスをこなしていた。

 歓談しながらの余興だとばかりに眺めていた者たちから、波のようにざわめきと感嘆のため息が入り混じった声が広がっていく。


 いままで数回は義務的なダンスをこなしたことはあったのだが、相手のリードの上手さでどれほど見栄えよく、またやりやすくなるのかアンジュは今晩初めて知った。


「閣下は……ダンスの教師よりダンスがお上手ですね」

「『カイル』、だろう? ふふ、君と踊るためにいままでたくさん練習を重ねて来た甲斐があったかな」

「遊んで来た、の間違いでは?」

「相変わらず手厳しいな――そこが可愛らしいところでもある」


 聖女フレイヤ・グリーデが開催したダンスパーティーには王国の貴族たちの中でも選び抜かれたものしか参加できないらしい。アンジュはエヴァリスト公爵夫人になって初めてこの会の存在を知ったぐらいだ。


 招待状にはぜひご夫婦二人でいらしてください、と書かれていたが――そのとき背中に突き刺すような視線を感じて足を踏み外した。


「あ」


 爪先でカイルの爪先をぐに、と踏んでいたが平然としたようすでカイルは周囲には気づかれないように体勢を動かした。


「も、申し訳……ありません」

「大丈夫、気にしないで? 踏まれるのは慣れているから」

「それもちょっと嫌ですけど」


 踏まれるのが慣れている、ということの意味を考えてしまいそうになったが思考を止めた。舞踏曲が終わりに近づき、ヴァイオリンが手が痛くなりそうなトリルを繰り広げている。

 そのとき、ふわ、と身体が宙に浮かんだ。


「わっ!」

「うん、やっぱり背中に羽が生えているみたいだ――とっても軽いよ。明日から君の食事の量を増やしてもらうことにしよう、もっと食べなさい」

「〰〰っ、危ないじゃないですか、下ろしてください!」

「君なら一日じゅう抱えていられそうなんだけどな。それに堂々とくっついていられるという利点もある」


 見せつけるように抱えたままくるりとターンをした直後に、舞踏曲が終了した。割れんばかりの拍手がふたりに降り注ぐ。


「余興としては十分だったようだね」

「ええ、そうですね……」


 先程の視線の主を観衆の中から探したがそれらしき人物は見つけられなかった。そのとき「素晴らしいダンスでしたわ」と背後から声がかけられた。

 振り返るとそこには、今回のダンスパーティーの主催者であるフレイヤ・グリーデが立っていた。


「お招きいただきありがとうございます、聖女フレイヤ。素敵な会ですね」


 笑みを浮かべたカイルにフレイヤが「黒竜公にそう言っていただけるなんて嬉しいわ」と儀礼的な挨拶を返した。そしてフレイヤの視線がアンジュに向けられる。


「こちらが噂のエヴァリスト公爵夫人ね、ご紹介いただけますかカイル?」

「勿論」


 そう言ってカイルはフレイヤに対して「妻のアンジュです」と紹介した。


「お目にかかれて光栄ですわ、聖女様」

「まあ、愛らしい方ですこと」


 淑女の礼で応えたアンジュを見て、フレイヤがにこりと口元を緩めた。ただアンジュを見つめる視線は冷ややかだったことに気付いたのは向けられていた本人ぐらいだろう。表面上は穏やかな会話ではあった。


 値踏みされているようなまなざしに悪意とも嫌悪とも言い切れない不快の感情が載せられていることに無自覚でいられるほど鈍くもない。


「今後ともよろしくお願いいたしますね」


 そう言った彼女の言葉を鵜呑みにはしない程度には、アンジュの胸には警戒心が芽生えていた。

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