02 天使じゃなくて聖女でした

 アンジュ・ロージェル。

 新月の夜の苦痛からカイルを救った天使の名前は思っていたよりも簡単に判明した。彼女が見つからないように、と苦心していた紳士が誰なのかはわかっていたし、そこからたどればその存在に行き当たるまでは難しいことではない。


「成程ね……聖女の関係者か」


 そういう情報収集が得意な侍従に調べさせた結果、アンジュ・ロージェルの素性も明らかになった。

 無能聖女やくたたずと呼ばれたラヴィエラと、ロージェル伯爵との間の娘。

 いまでこそロージェル伯爵家で貴族令嬢として受け入れられているが、もとは聖都ラウムの孤児院で長く過ごしていたようだった。


「ジャン、他に俺が知っておくべき情報はないか」

「いえ、これといって。アンジュ嬢はデビューは済ませておいでですが、あまり社交に熱心ではいらっしゃらないようですので」

「表舞台に出てきてはいない、ということか」


 あれほどの美人がダンスパーティーなどに来ていればいやでも目立つ。気づかなかったということは、カイルが参加するような大きな会などには参加していなかった――呼ばれてはいなかったということだろう。


 女友達にも話を聞いてはみたが、小馬鹿にしたように「ああ、無能聖女の」と笑った。


「あの子、暗いっていうか。ずっと壁にくっついてて離れようとしないし、気の毒がって声かけてやってる男にも愛想がないからさあ……何しに夜会に来たのかしら、って話してたのよね」

「ふうん」

「そんなことより、ねーえ、次のデートでは仕立屋に行きましょうよ。私新しくドレスが欲しくて……!」


 今度ね、と叶える気もない約束を交わした後で、ジリリリと開幕のベルが鳴り響いた。今日は近頃王都で人気の歌劇を見に来たのだ。二階の桟敷ボックス席で、身体を寄せ合いながら舞台の方へ何気なく視線を向ける。

 こうした場で歌劇の内容に集中するのは不可能に近い。いまだって彼女の豊満な胸がカイルの腕にこれ見よがしに押し当てられており、細い腰を抱きよせてそのまま――なんて誘惑に頭を悩ませてしまう。

 飽きてきたら同伴者のご令嬢と遊ぶに限る、そう思っていたのに、カイルは思いの外、舞台に集中してしまった。


『ああ、神に愛された子よ――この聖なる力で以て悪獣を打ち滅ぼせ』


 主人公の青年に命じるのは美しき聖女だった。照明を用いて、神々しさをわざとらしく演出している。

 聖女より守りの加護を受け、勇者となった男は討伐遠征の先陣を切ってヘルタート山脈へ向かい、生息する悪獣たちを果敢にも駆逐していくのだった。

 そして一頭の巨大な黒竜に出会うのだ――って、これうちのエヴァリスト公爵家の話じゃないか。


 そもそも悪獣とはなんであるのか――カイルはしばしば考えることがある。人々の暮らしを脅かす危険な存在であることは間違いないのかもしれないが、あちらにはあちらの言い分があるのではないか、と。

 どうやって生まれ、成長したものなのかすらわからない。ただの獣にも見えるそれが、どうして膨大な魔力を秘めた凶暴な生物になるのか。


 それにしてもこの胸に刻まれたレーヴァテインの傷だけはどうにかしたいものだが……などと考えているうちに歌劇は終盤に差し掛かっていた。いつになくカイルが手出ししてこなかったせいで腹を立てたのか、幕間に令嬢はさっさと桟敷席を出て行ってしまったらしい。それさえも気づかずにカイルは思考に沈んでいた。

 


『ああ、聖女よ我が力となりて悪竜を滅したまえ――』


 掲げた剣から迸る聖なる力により、大きな竜(を模した着ぐるみを着た数人の俳優)がのたうちまわり、舞台の上に伏した。おそまつな演出にしか見えないが、キャストが総出で勝利と歓喜の歌を披露すると劇場内の空気は一気に盛り上がった。

 周囲に倣って起立して大きな拍手を送りながら、カイルは無能と呼ばれた聖女の娘、アンジュ・ロージェルのことを考えていた。



*.˚‧º‧┈┈┈┈┈┈┈┈┈‧º·˚.*



 夜会の晩から半月たっても彼女のことが頭から離れなかった。

 書斎で書類仕事を進めながらも、あの夜に彼女が触れた優しい手を思い出してしまう。


 彼女はおそらく、秘められた「能力」を有しているのだ。

 どんなに優秀な医療魔術師でも、この胸の傷から滲み出る苦痛を癒すことは出来なかった。当代の聖女とされるフレイヤの聖力による加護をもってしてもこの傷は消えやしなかった。

 ただ、カイルが「ありがとうございます、もうすっかり元気になりました」とへらへら笑いながら話すので、この呪いについて詳細を知る者は誰もいない。自分のおかげで黒竜公の苦しみが完治したと鼻高々になっている。


 カイルを救ったのは、ただひとりだけ――あのアンジュという娘だけだった。


「欲しいな」


 頭に浮かんだ言葉をそのまま呟いた。

 まるで子供が玩具屋の棚のぬいぐるみを指して言う程度の気軽さだったが、それを超えるほどの執着が自らの内側で芽生えようとしていることに、カイルは自覚的だった。


「君を俺だけの聖女にしたい――アンジュ」


 彼女をそばに置くために出来ることを考えながら、夕暮れに沈む書斎の中でカイルは唇に笑みを刻んだ。

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