10 新月の夜
「アンジュ……」
苦しそうな吐息交じりの声で呼ばれ、ここにおります、と返事をする。
アンジュは黒竜公カイル・エヴァリストと結婚して初めての新月の夜を迎えた。
夫婦の寝室には誰も近づかないように人払いをしている。新月の夜はいつも、自分のそばには誰も近寄らせないように注意しているのだとカイルは言っていた。アンジュと出会ったあの夜会は例外だったのだろう。
ベッドの背に枕を置いてもたれ、起き上がった状態のカイルの足の上にアンジュは馬乗りになった。色々考えたのだがこれが一番都合が良いのでは、ということになったのである。
「脱がせて」
「――わかりました」
白いシャツの釦に指をかけ、ぷつりと抵抗をしめすかのように指に伝わって来る手ごたえにどきりとしてしまう。こうして彼の服を脱がすのは初めてではないにしろ、あの晩は緊急事態だった。一方で今日は、アンジュの行動をじっと見つめていられるぐらいにはカイルにも余裕があるようだった。
「ふふ、手が震えているじゃないか。君でも緊張することがあるんだね」
「当たり前です!」
ようやく釦を外し終わると、しなやかな筋肉のついた上半身があらわになり思わず目を逸らしそうになったが「俺の奥さんは恥ずかしがり屋だなあ」というカイルの煽りを受け、ぎぎぎ、と動きかけた首を正面に戻した。
比較対象など知らないが、ごつごつとしているというかは美しいという言葉が似合う身体つきだった。野生の獣のように必要なところだけ鍛えられているという印象だ。
ただその美しい身体を縦に切り裂く大きな黒い傷痕だけが異様であった。
すると、ず、とその痕から黒い煙が立ちのぼって来る――まるで天に昇る竜のように。あのときとおなじである。傷跡に手を伸ばすとカイルが苦しそうに呻いた。
「カイル様、あの」
「気にしないでやって、俺は大丈夫……」
それらしい癒しの呪文などろくに知らないから、手をかざしてアンジュはただひたすらに祈った。
「痛いの痛いの飛んでいけ……」
「ふっ」
「……なんでしょうか?」
「い、いや……ずいぶん可愛らしい、なと。乳母が昔言ってくれたのを思い出して、くくく……痛、いたた……笑いすぎて傷に響く」
ひどいよ、と責められたがアンジュは何もしていない。もう契約事項などは無視してしまって寝室から出て行こうか、と一瞬考えたのだが突如としてカイルが苦しみ始めたのでその気は失せた。
「カイル様!」
「っう、ぐあぁあああああああああ――!」
まるで獣の咆哮のような叫びが部屋の中に響き渡る。アンジュの下でもがいて暴れ回ろうとするカイルを止めようと思い切り抱きしめた。
とはいえ、アンジュの腕力などたかが知れている。すぐに拘束は解かれ、あっというまに景色が反転していた。
カイルの顔の向こうに天井が見える。黒い霧のようなものが部屋に満ちており、その発生源はあきらかにカイルの胸の傷だった。
「落ち着いて、どうか……気をしっかり持ってください!」
『おまえは、誰だ……?』
「っ……な」
声が歪み、ひび割れている。確かにカイルの声なのに別人の気配が確かに存在していた。す、と伸びてきた右手がアンジュの首を掴んだ。
『ああ……感じるぞ、おまえは聖女だな? よくも、我ら悪獣を苦しめてくれたものよ』
「っ、かは……」
『犯してやろう、狂うまでよがらせてやろう――その清らかな聖力をかき乱して使い物にならぬようにしてくれる……!』
カイルの手がアンジュの夜着を乱し、あらわになった素肌に手を這わせたとき感じた。これは――カイルのものではない。なにか邪悪なものである、と。
勇気を振り絞って、カイルの身の内に巣食う悪獣の名をアンジュは呟いた。
「レーヴァテイン……」
『何――』
「鎮まりなさいっ、悪竜レーヴァテイン!」
声を張り上げ、カイルの傷に向かって手をかざすと眼が眩むほどに激しい光が迸った。ぐあああ、とこの世のものとは思えないほどの濁った悲鳴が室内に響き渡る。その直後、ぐったりとしたカイルがアンジュの上に倒れ掛かって来た。
成功、したのだろうか。室内に満ちていた黒い霧が徐々に晴れていくのが見えた。安堵の息を吐くと、アンジュの身体を現在進行形でつぶしている夫の肩を強く揺さぶった。
「カイル様起きてください」
「ん……」
「重たいんです、早く退いて!」
叫んでいるのに一向に退いてくれる気配はなかった。それどころか、顔をアンジュの胸に埋めてくる始末だ。これは本当に意識がないのか、それともわざとなのか。怒る一歩手前でカイルの声が聞こえた。
「ありがとう、俺の奥さん」
「やっぱり起きてるんじゃないですか! 早く、一刻も早く私の上から退いてください!」
「やだよ、せっかく可愛い奥さんに甘えられるのに、その機会を失くすなんてよほどの愚か者だと思うんだよね。妻のことが可愛くてしかたがない夫の行動として間違っているよ」
「何を言っているのかさっぱりわかりません……」
いったいどんな理屈であるのか、アンジュには理解が及ばない。
結果としてぎゅうっと抱きしめられたまま、眠る羽目になったので翌朝、アンジュは身体の節々が痛んだのだった。
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