09 エヴァリスト公爵夫人

 カイル・エヴァリストの妻としてアンジュは公爵家で忙しく過ごすことになった。 


 ロージェル家からは幸いにもルースがついてきてくれていたので、公爵家――と言っても王都の邸宅だが――の生活自体には思ったよりもすんなり馴染んでいる。ただ、元からいる使用人たちからアンジュに向けられる眼差しは若干冷ややかではあった。

 なんでも手練手管でご当主様を篭絡した悪女と思われているらしい。百戦錬磨の軟派男カイル・エヴァリストを落とした、という噂は社交界にも広がっているようでアンジュの評判はいままでにも増して下降傾向にあった。

 ちょうど折しも社交シーズンであったことから、各領地から王都エリッセへと多くの貴族が集結しており、エヴァリスト公爵夫人は暇を持て余した貴婦人たちの注目の的となっていた。


 そんな悪女へと届けられた手紙の山を眺めながら、アンジュは嘆息した。茶会やらダンスパーティーやらのお誘いの手紙が山ほど来ているが正直どれも参加したくはない。いままで少々の親交があったご婦人からの連絡は一切なく(面倒ごとにかかわるのを避けたかったのだろう)、珍獣鑑賞を目的とした会へ招かれるのは正直うんざりである。

 でも何件かは断りがたいものもあったりするようなので、カイルに相談しながら返事をしたためていた。


「見て、ルース……『ぜひ仲良くしましょう』ですって。この方、結婚前で一緒になった夜会では私を無能聖女ラヴィエラの残滓と嘲笑していたのに」

「おそらく高貴な方々は皆、忘れっぽいのでしょう。ご出席された場合は、舌の根も乾かぬうちに奥様を賛美なさるかと」


 窓辺のテーブルに広げた書簡を片付けながらルースはカップに紅茶を注ぎ入れた。香り立つフレーバーは果実の配合が多めで、湯気までも甘く感じるほどだった。


「お嬢様……いえ、奥様がこうした社交にご興味がないのは存じておりますが」

「ええ、わかっている」


 公爵夫人であれば、本来は自分でこうした社交の場を提供するぐらいでなくてはならない。ただ不慣れだからまずはお誘いいただいた茶会などで研鑽を重ねる必要がある。

 実際、何件か赴いてはみたものの表立って非難されたりすることはなくとも、ちょっとした意地悪をされるのはお決まりだった。

 あえて渋く淹れた紅茶を出されたり、アンジュが入れなさそうな話題ばかりを続けたり、と可愛いものではあるが――公爵夫人として無様なところを見せずに切り抜け続けねばならないため、ストレスが溜まる一方である。


「エヴァリスト公爵はなんだかんだ言われていますがあの美貌ですから。九割がやっかみでしょう」

「残りの一割は?」

「もとから他人を陥れるのが趣味な人間というのはいるものなのです、残念ではありますが」


 早くアンジュに飽きてもらえればいいのに、と思いながらも手にした招待状を眺めていた。興味本位のお誘いが絶えてしまえば毎日のようにやって来るこんな膨大な量の手紙をさばかなくてよくなるだろう。

 お断りのお返事を書いてはいけない、そう言われていた手紙の束の一番上からアンジュは一通手に取った。


 ――フレイヤ・グリーデ。王都エリッセの「聖女」と呼ばれている女性である。

 ちょうどラヴィエラが聖力を失った時期に力に目覚めたために、すぐさま人々の関心は彼女に移った。聖都の聖職者たちが歯噛みしながら語る姿を何度もアンジュは見ていた。


 もともと聖道教会の本拠地であるのは聖都ラウムと、王都エリッセの対立は激しかった。

 ラウムとエリッセのちょうど中間に位置するグウェルの泉に毎年夏至の日に参拝するのが聖道教会の儀式であるのだが、どちらが先に参拝するかという些細な出来事で大いに揉めて以来、教皇ピエール12世とブリューテ国王の不和は誰もが知るところである。


 神の寵愛を受けた聖女ラヴィエラを擁する聖都の権威が一時期上がっていたのだが、ラヴィエラが聖力を失ったことにより勢いは失速。

 その代わり、新たに現れた聖女フレイヤが王都の邸宅に居住している貴族女性であったことから一転、王都こそが聖都であるという論争まで起こり、またもや教皇の怒りを買った。


 当代の聖女として悪獣討伐部隊への加護を与え、人々の安寧を祈る。そんな高貴なお方からのダンスパーティーへのご招待だ。無視をするわけにはいくまい。カイル本人も当然ながら面識があるようで、いちおう結婚のご挨拶はしておかないとね、と話していたのだった。

 フレイヤと面識がないアンジュは彼女のことを噂でしか知らない。慈愛の心にあふれた身も心も美しい御仁であるという賞賛の声以外、まったく聞こえてこないから為人については会ってみないとわからない。


「アンジュ」


 だが――返事を書いていたペンを止め、考え事をしているうちに陽が暮れていたらしい。

 カイルが部屋の中に入ってきていたことにも気づかなかった。

 大きな窓からは夕の燃えるような朱の空が徐々に青闇に侵食されていくのが見える。風に揺れる木々を眺めながらアンジュはぎゅっと口元に力を込めた。


「今日は新月だ――お願いできるかな」


 カイルの表情はいままで見たことのないものだった。不安に揺れながらも、抑えられない期待感に満ち溢れたその顔をまっすぐに見つめてアンジュは応じた。


「はい、旦那様」

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