07 はじめての夜

「それにしても、今日は疲れたよね」

「ええ、まあ……そうですね」


 流れる空気がわずかに変わったことを肌で感じる。アンジュは緊張を隠しながらそっと唇を引き結んだ。


 今日晴れてふたりは正式に夫婦となったわけである――そこに、一般の夫婦には存在するかもしれない愛はないのだとしても。なにしろカイルはアンジュの聖力が目当てなのは明らかであるし、アンジュとしてもいけ好かない男だとカイルをみなしている。


 事前に念のため、取り交わした契約においては――アンジュが望まない限りカイルは彼女に手を出さず、夫婦の営みを強制しない。アンジュはカイルのレーヴァテインによる精神侵食を食い止めるために聖力を用いる、とある。

 誰かに見せはしないが、他にもこまごまとした内容が書面にまとめてあった。


「せっかくだから癒してほしいな」


 君に、と耳元で囁かれぞくっとした。

 ベッドに置いたアンジュの手にカイルの手が重ねられる。耳がそのまま心臓になってしまったかのように、どきっと心音がやけに大きく響いた。


「で、すが……今宵は新月ではありませんよね」

「でも君に触れられると気持ちがいいんだ」


 駄目かな、と甘く誘ってくるがその手はアンジュには通用しない。

 それに、そう……アンジュはいまだって怒っているのだ。そう簡単にこの破廉恥な男の無体を許すわけにはいかない。断る理由を幾つも探して――でも新婚初夜なのに――と身の内で囁く己の声は黙らせようと試みる。そのせいで熱を孕んだ眼差しが己に注がれているということにアンジュは無自覚だった。


「あ」


 直後、とさ、と軽い音が背中で聞こえた。

 アンジュの体重を受け止めたベッドがぎい、と小さく鳴いた。呆気なく倒された身体の上に、カイルが覆いかぶさって来る。

 そのときようやく逃れる余地はないのだ、と悟った。契約違反だ、と叫びたくもなったが――新婚初夜から拒まれるというのも気の毒だ、という甘い考えが頭をよぎってしまった、残念なことに。

 大体、アンジュとしてもこんなにも腹立たしく思っている相手と夜を過ごすことが気が進まない、という程度の抵抗感でしかないのだ。


 それに本当に「嫌」なのか。自分では咄嗟に判断がつかなかった。わからないうちにこの、ふたりのあいだに漂う甘ったるい空気に流されそうになっている。これが新婚効果というものなのかしら、とアンジュは頭を抱えた。

 この夫婦の寝室でふたりきり、などという状況ゆえかなんでも許してしまいそうなほどに――夫に尽くしてあげたいような気分になってしまっている。


 貴族の娘となった以上、政略結婚をして子を成すのは義務のようなものだとわかってはいた。黒竜公の正妻となったからにはそのお役目からは逃れられない。いくらいけ好かない夫相手であろうと。


「……ふふ、不服そうな顔をしているね」

「嫌じゃないとでも思っているとしたらよほど能天気なのですね、黒竜公は」


 アンジュの切り返しに黒竜公――カイル・エヴァリストは余裕たっぷりに唇へと笑みを刻んだ。カイルの黒髪がさらりとカーテンのように頬にかかり、くすぐったさに顔をしかめると何故だか嬉しそうに声を上げて笑う。


「愉しんでいる振り、だけでもいいんだよ。こういうのは」

「楽しくないのに笑うのは難しいです――ふだんからこういう顔ですもの」


 にこにこと笑うのはあまり得意ではない。感情を表に出さないように気を付けることがくせになっている。楽しそうにしていることを嫌って、難癖をつけられることもしばしばあったからだ。

 貴族社会では「笑顔」という仮面が必要になってしまったので取り急ぎ身に付けてはいたが、長年の習慣は抜けなかった。いつだってむっとしている、機嫌が悪そうだと囁かれることも多かった。


「ふーん……腕が鳴るな。君をどれだけ悦ばせることが出来るかが俺の生涯の課題になりそうだ」

「そのような課題は達成していただかなくて結構ですので!」

「残念ながら俺は優等生でね。それに難しい課題ほど燃える、っていう性質の悪い性格をしているから諦めるしかなさそうだよ?」

「……カイル様とお話していると何故か頭痛がしてくるのですが」


 ふい、と背けていた顔を戻し、はだけたシャツから覗く黒い傷痕をアンジュは見上げる。

 黒竜公と呼ばれるエヴァリストの一族が持つ呪いの象徴――悪獣レーヴァテインを討伐したときから延々と子孫に承継されたそれに手を伸ばし、触れた。

 あの晩、目にしたように煙こそ出ていないが痛々しい大きな裂け目はかわらずカイルの胸に巣食っている。


「あれ、どうしたの――やけに積極的じゃないか」

「……いえ、新月でなくとも痛むと聞いたので」

「ふうん優しいんだね。そういうところが君の可愛らしいところだ」


 くつくつと喉を鳴らして笑いながら、カイルはアンジュの身体に手を伸ばした。

 聖女の娘を貪り、喰らうために。


 そしてアンジュ自身もカイルが与えるその熱を孕んだ眼差しと激しい抱擁を、すなおに受け容れることを覚悟したのだった。

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