05 いとしの婚約者様

 手回しが良かったのか、とんとん拍子でアンジュのカイル・エヴァリストとの結婚はまとまっていった。


 端から準備していたのではと疑わしく思うぐらいに日取りや式場の手配、お披露目パーティーの計画、式で着る花嫁衣裳の仕立屋まで。悩む余地さえ与えられず、ただアンジュは決まったことを粛々とこなしていくばかりだった。


「お嬢様は華奢ですから、シンプルで上品なデザインもお似合いですわね」

「ああ、確かに小柄な方がリボンやフリルの洪水で溺れそうになっているのをよく見るわ」


 きゃっきゃとはしゃぎながら仕立屋とアンネが話しているのを聞きながら、アンジュはそっと息を吐いた。正直ドレスなんてなんだっていい。手持ちのものでそれらしいものを着て臨んでもいいくらいだと思っているのだが、公爵様との結婚ではそれも許されないだろう。


 次第に自分が本当に結婚するのか疑わしく思えてくるほどだったが、定期的に婚約者であるカイルがアンジュのもとを訪ねてきては自分が売約済みの家畜のようなものだということを思い起こさせるのだった。


「家畜とはひどい言いようじゃないか――俺はアンジュのことを大切に想っているのに」


 アンジュの部屋のサンルームで紅茶を啜りながら、カイルは言った。給仕のためにルースがすぐそばに控えてはいるが婚約者とふたりきり、甘ったるい空気になってもおかしくない状況ではある。それなのにひとつまみの砂糖ほどの糖度も感じられない時間が流れていた。


「どの口が」

「ん?」

「いえ……もったいないお言葉でございます」


 エヴァリスト公爵の婚約は新聞に大きく書かれたが、ゴシップ専門誌では「婚約しても止まらない女遊び!」、「遊び相手の令嬢Aの証言『黒竜公はしつこくねちっこい』」など話題に事欠かない状態であった。

 やはり徹底的にいけ好かない男である――その認識は深まるばかりだった。


「ああ、もしかしてヤキモチかな?」

「……はぁ?」

「あんな三流紙に書いてある内容なんて中身がない薄っぺらな虚言だよ。信じる方が馬鹿を見る」


 カイルはアンジュの手を取り、甲にキスを落とした。


「愛しているよ、俺の婚約者さん」

「あなたの『愛』は羽根よりも軽そうですね。吹けば南オースティン大陸まで飛んでいくでしょう」

「君は俺の愛をちっとも理解してくれていないんだね。悲しいよ」


 凛々しい眉を下げ悲しそうに表情を曇らせてみせるのだが、その仕草さえすべて芝居がかっていて信用ならない。その口で何人の淑女を騙してきたのだろうか、と冷静に考えてしまう。


「あーあ、アンジュには俺の甘い言葉が通用しないからどうやって落としたらいいのか悩むよ。悪獣よりも攻略し甲斐がある聖女さんだ」

「悪獣と聖女を同列で語るのもどうかと」


 あとアンジュは聖女ではない、とあれほど……怒りを顔に出さないように必死で表情筋をぷるぷる震わせていると、ぶは、とカイルが噴き出した。


「くくく、本当にアンジュはからかいがある。これが毎日できるようになると思うと君との結婚が俄然楽しみになって来たよ」

「私は憂鬱そのものでしかないのですけれど」

「あはは、そういうのはっきり言っちゃうんだ……アンジュが心を開いてきてくれた証だと思うと嬉しいな」


 どれだけ前向きなのだ、この男は。

 何も考えていないわけではないだろうに――知り合ううちにアンジュはカイル・エヴァリストの頭の回転の速さに驚かされてばかりだった。


 黒竜公の仕事は当然ながら結婚式の手配だけではない――その間も議会に参加したり、次回の悪獣討伐遠征のため準備を進めていると、ロージェル伯爵経由で話をきいている。さらにはこの結婚に反対している親類縁者たち――いずれ娘を彼に嫁がせようと考えていたのだろう――にも頭を下げて回っているらしい。

 その合間を縫って、わざわざロージェル領にいる不愛想な婚約者のもとを訪ねる時間を捻出しているのだからアンジュもさすがに彼が有能であると認めざるを得なかった。


「本当はいますぐにでも君の唇を奪いたいけれど、初めての喜びは式の当日に取っておくよ――その方が記憶に残るだろうから」

「たかだか誓いのキスがそんなに重要なものでしょうか」


 甚だ疑問だ、とつぶやけば「まったく君は」と呆れたようにカイルが肩を竦めた。


「アンジュは夢見たことはないのかい? いつか白馬に乗った王子様が迎えに来て、唇に永遠の愛を誓ってくれるなんていう乙女の憧れを」

「……私の王子様はもう、とっくの昔に私を迎えに来ましたから」


 いま振り返れば孤児院での生活がいかにひどいものであったかがよくわかる。理不尽な言いつけを守らなかったと食事を抜かれるのはしょっちゅうで、真冬の聖都で建物の外に締め出されて一晩過ごしたこともある。

 子供たちは大人の憂さ晴らしの道具にすぎず、それは孤児たちがやがて大人シスターになってもおなじように継承されていく終わりのない連鎖だった。


「ロージェル伯爵が私を引き取り――孤児院での実態を王都エリッセに報告してくださったおかげで、聖都の孤児たちの状況は大幅に改善されました。私にとっては伯爵ちちが『王子様』でしたから」


 淡々とアンジュが語ると、面白くなさそうにカイルはむすっと唇を引き結んだ。


「ふーん……妬けるな。いくら義父上とはいえ君をそんな顔にさせるなんて」

「は……?」


 どんな顔だと問いたかったが、カイルはそのまま先を続けた。


「ふふ、アンジュが誰の花嫁なのかみんなに知らしめないといけないね」

「あの……何か良からぬことを考えていませんか?」


 満面の笑みを浮かべて「いや、べつに」と言われれば疑いは深まるばかりである。嫌な予感を抱いたまま、結婚式までの日々は飛ぶように過ぎていった。

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