04 婚前契約

「さて」


 花園の中に配置された小さな東屋の中で、カイルと隣り合って座った。ふとした瞬間に腕が触れてしまいそうなほど近くに座る必要などないだろう。そう思ったが指摘できるような雰囲気でもなかった。


「出来るだけ君の希望は叶えてあげたいと思っているんだ――無理を言って、俺と結婚してもらうわけだからね」

「お心遣い痛み入ります」

「くく、君は本当に……俺のことが気に入らないんだね。そういうところが面白い、新鮮だよ」


 笑わせるつもりはないのに笑われるのはそれなりに不快である。むっとしていることを示すべく唇を引き結んでいると、それをからかうようににこりとカイルはいっそう笑みを深くして言った。


「まず、俺の話をしようか。此間の夜会はどうもありがとう……本当に助かったよ」

「あのときのバルコニーの方が閣下……カイル様だったのですね」


 いきなり倒れ込んで来たから驚いて、顔もよく憶えていなかったのだがこの甘さを孕んだ艶のある声を聞いて確信した。


「うん。実は俺には問題があってね――あの手の発作が頻繁に起こる。ちなみにこれは秘密の話だから誰にも言わないでほしいな」

「それは構わないのですが……」


 ぐったりとしなだれかかってきたカイルの状態は「とある問題」で片づけてしまっていいようなものではなかったように思う。だが深入りを出来るだけ避けた意味としてアンジュは無関心を装った。


「なにも聞かないのか……ほんとうに俺に興味がない? ちっとも?」

「どちらかといえば、そうですね」


 ほぼ初対面の男性について興味津々というのも淑女としてはしたないことのように思うのだが――アンジュの反応は予想外の連続らしく、酷く楽しそうなそぶりを見せていた。


「それは好都合、ではあるけれど少しぐらいは知っていてほしいな。他ならぬ俺の奥さんになるんだから」

「ではひとつだけ、あの傷は――なんなのですか」


 傷――痣と言った方がふさわしいかもしれない、胸に走った黒い裂け目。そこから黒煙が滲み出ていた光景を思い出し、アンジュは顔をしかめた。何か不穏な気配を感じたがそれが何であるのか判断が出来なかった。


「エヴァリスト公爵が代々黒竜公と呼ばれる所以、かな――君も知っていると思うけれど、公爵家は悪獣討伐を強く推進してきた。エヴァリスト領が悪獣の棲み処であるヘルタート山脈に近いというのもあるしね」

「ええ、存じております。当時のエヴァリスト公爵が悪竜レーヴァテインの討伐に成功したことから、その名を戴くことになったと」


 カイルは「実際見てもらった方が早いか」と言うなり、上着を椅子に放りシャツの釦を外し始めた。


「カイル様! お、おやめください、こんな外で……!」

「二度目だからそれほど恥ずかしがる必要はないじゃないか。ほら、目を開けて見てごらん」


 そんなの嫌すぎる、この露出狂。

 そう言って引き下がってくれるような相手であればよかったのだが。くそ、と孤児院時代に口に馴染んだ悪態を吐きたくなったが我慢した。


 薄っすら目を開くと、たくましい胸板の上にすっと切れ目がはいったかのような大きな傷跡のようなものが目に入った。


「触ってみる?」

「ご遠慮申し上げます」

「あの夜は情熱的にまさぐってきたのに」

「まさぐってなんかいません! 卑猥な言い方はおやめくださいっ」


 いちいちアンジュの神経を逆なでするようなことばかり言い出す。やはりカイルとは反りが合わなさそうだ。こんな相手と結婚しなければならないのか、とアンジュはさらに気が重くなった。


 結婚相手の条件としては有望どころか最優良でロージェル伯爵家としては歓迎すべきところなのだろうが、この軽薄さと紙一重の飄々とした雰囲気がどうも好きになれなかった。せっかく穏やかな日々を過ごせているというのに……。ため息も自然と深くなるというものだった。


「これが俺の秘密――いまはただの痕だけれど、夜になるとここから悪竜レーヴァテインの意識が滲み出てきて俺に干渉する。ありとあらゆる衝動を刺激するんだ――レーヴァテインそのものになったかのように、餓えて仕方がなくなってしまう」


 あの夜見た傷口から噴き出した黒い煙を思い出し、アンジュはつぶやいた。


「レーヴァテインが……カイル様の意識を蝕んでいくということでしょうか」

「成程、そういう言い方もあるか――うん。その通りだ」


 アンジュの目を見て、カイルは微笑んだ。


「レーヴァテインに身体を乗っ取られそうになるのに抗って、俺自身を守るためにあの発作が起きる。ただ毎日というわけじゃない――月がない夜に限って、なのだけれど……」

「新月……」

「そう。あの夜会はちょうど運が悪かったな。陛下主催のものだからエヴァリスト公爵家当主として欠席も出来なくてね」


 肩を竦めたカイルの胸に刻まれた痕を眺めながら、アンジュは息を吐いた。この傷跡に手をかざしたときのことを思い出しながら。


「助かったよ。君のおかげで、復調した――アンジュ、君が有する聖女の力でね」

「……力など、私には」

「俺も誰にも言えない秘密を、恩人の君だから話したんだ。腹を割って話そうじゃないか……君は聖女ラヴィエラの能力を引き継いでいるんだろう?」


 カイルは確信しているようだった――目の前で治癒の聖力を使用してしまったのだから当たり前とも言える。


「聖女の力は、王都エリッセで見たことはあるけれど……あれとは少し違う感じがしたな。君のはもっと温かくて優しい力だ」

「ああ、当代の聖女様……フレイヤ・グリーデ様ですね」


 話には聞いたことがある。

 ラヴィエラが力を失った直後、すぐにフレイヤが能力を発現したのだと――それで聖女の後継者と話題になり、いまもずっと聖力を使って国のために尽くしているのだと。


「――つまり、カイル様は私の治癒の力が目当てで結婚を申し込んだ、というわけでしょうか」

「勿論それを含めて、君が魅力的な女性であるからだけれどね。ただ俺が無理を言ってお願いをするのだから、君の希望は出来るだけかなえてあげたいと思っている。後で契約書でも作るとしよう」


 それでは意見交換でもはじめようか。

 楽しげに言い放ったカイルの姿を眺めながら、もう逃れられないだろうことをアンジュは悟ったのだった。

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