02 夜会でのこと

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「見ろよ、あれ」


 いくつになっても人間は変わらない。ひそめた声音で語るのは噂話ばかりである。アンジュ・ロージェルという存在そのものが噂話の種と成り得るものであるから致し方なくはあるのだけれど。


 王都で開かれたのは第二連隊が無事に悪獣の討伐に成功したことを記念して開かれた夜会だった。遠征部隊の連隊長であった黒竜公カイル・エヴァリストがあちこちで愛想を振りまいている姿を遠巻きに眺めながら、アンジュはグラスを片手に適当な退避場所を探していた。


「あれがふしだらな聖女の娘か――美人ではあるけど、あの無能のラヴィエラの娘を妻に迎えるのはなあ」

「遊び相手ぐらいがちょうどいい。どうだ、お前ダンスにでも誘って来いよ」


 紳士たちは酒が入っているのか声が大きい。

 標的と定めた本人にも聞こえているということに気付いてもいないようだった。おとなしく壁の花になっていることさえも許してもらえない。それほどにアンジュはどんな場に出ても目立ってしまう。


 シャンデリアの明かりを浴びてきらきらと輝きを放つ金糸の髪に、男女問わず心を乱すと評判のミステリアスな翠眼。

 今日、彼女が身に着けている淡い紫のドレスも伯爵家御用達の仕立屋にお願いして作ったドレスだが、ぴったりと身体にフィットする上身頃がアンジュの細身の身体を強調する。対してたっぷりとしたボリュームで広がる裾は幾重にも重なるチュール状となっていて、歩くたびに妖精の羽根のようにふわふわ揺れた。


 下卑た視線を背中に浴びながらアンジュは息を吐いた。こうした場には頭の螺子がゆるんだ貴族令息も結構多い。あとそれからアルコールの力で気が大きくなっているというのもあるだろう。


 さて成人済の女性としては少々みっともないかもしれないが父母にくっついていて踊る意思は微塵もないと示すか。またはどこかのバルコニーに逃げ込み占領してしまって人目を避けるぐらいしか道はない。

 ロージェル伯爵夫妻の姿がすぐに見つからない以上、残る道は後者しかなかった。

 じくざぐに会場を歩いて目をつけられた男性たちからの視線を避けきると、もっとも目立たない隅のバルコニーに出て背後のカーテンをさっと閉めた。

 はあ、これで一息がつける。

 夜空を見上げながら白葡萄酒の入ったグラスを傾けていたときだった。


「……あれ、先客がいたのか。申し訳ない、ね――っ、う」


 すぐ後ろから声が聞こえてきてびくっと心臓が跳ね上がった。

 振り向いた途端、ぐらりと黒髪の青年の身体が傾いだのを思わず受け止めようとした――が、受け止めきれずアンジュはその場に崩れ落ちた。


「大丈夫ですか、あの……」


 青年は呼吸が荒く、汗をびっしょりと搔いていた。

 どこの誰だか知らないがそのまま放置するわけにもいくまい。ためらいながらもシャツの釦を外し、たくましい胸板をさらしたときだった。


「――何かしら、これ……」


 青年の胸を切り開くように真っ黒な傷痕が縦に走っていた。そこからずずず、と黒い煙のようなものが立ちのぼっている。まるで燃えているようだ、とアンジュは思った。触れないようにそっと上に手をかざそうとしてみても、ぱちっと火花が走る。

 怯んだものの、指先に力を込めた。

 治癒の加護を発動すると集まって来た淡い光の粒子が黒い傷跡に向かって移動していくのが見えた――が、壁のようなものがあってやはりばちりと弾かれてしまう。


「もういっそじかに触れてしまった方がいいわね」


 ぴた、と煙があふれてくる箇所に向かって手を重ねると、ずんと激しい振動が掌に伝わって来た。びりびりと皮膚が破れそうなほどの奔流に耐えながら力を注ぎ込むと徐々に傷跡から放出される黒煙が弱まって来た。


 顔色もよくなってきたようだし、そろそろいいだろう。そう思って傷跡から手を放そうとしたときだった。


「ねえ――もうおしまいかな?」


 濡れた声音が耳朶を打って、ぎくりとした。ぐいと手を掴まれてふたたび強く傷跡に触れさせられたとき「ひぁ」と情けない悲鳴を上げてしまった。


「やめないでよ」

「や、やめるなとおっしゃられましてもっ……手をお離しください」

「やーだねー、だって君の手、ひんやりしていて気持ちがいいんだ――ねえ、いいだろう?」


 駄々っ子が甘えるように、くつろいだ胸元に触れさせられる。掌の下でびくびくと脈打つ鼓動にアンジュは怯んだ。

 気を失っていると思っていたのに、彼は意識があったようだ。それにしてもいまの状況と来たら、勝手に服を脱がしてべたべたと異性の胸に触るという――破廉恥な真似をしでかしてしまったことにアンジュはいまさらながら思い至った。


「も、申し訳ありません、失礼な真似を!」

「あ」


 思いっきり引き抜いて距離を取ると、きょとんとしたようすで青年は首を傾げた。


「ご気分がすぐれないようすだったので、釦を少し外して呼吸を楽にしただけであって他意は、そのまったくもってございませんので!」

「そう? 君となら楽しめそうだと思ったのにな」


 何をだ何を、と内心ツッコミを入れながらアンジュは黒髪の青年から距離を取る。見慣れない顔だ――付き合いだから、と仕方なく何度か夜会に参加したことはあるが、彼の顔は見覚えがなかった。

 長い黒髪を紅のリボンでひとつに結わえた彼は漆黒の軍服を纏い、黒銀の竜を象ったブローチでマントを留めている。


 何者だろうか。警戒心をあらわにしていると、アンジュ、と自分を呼ぶロージェル伯爵の声が聞こえた。


 広間で姿が見えないのが気になったのだろう。まずい、こんなところをサイアスに目撃などされたら言い訳しようがないだろう。いやらしいことをしていたと思われるのも勘弁願いたいが、聖力を使ったとバレるのもよろしくない。


「そうだな――介抱してくれたお礼をしようか」


 釦を留め終わった青年は、ぐいとアンジュの身体を抱き込むとホールの方から姿が見えないように隠してくれた。そのおかげですぐ近くを通り、そっと外を覗いたサイアスもアンジュがこのバルコニーにいるとは気が付かなかったようだ。

 心臓が破れそうなほどに高鳴っていながらも、なんとかやり過ごせたことに安堵する。


「……いまのはロージェル伯爵か。聖都近くを領地としていたはず」


 なるほどね、と何やらつぶやいた彼の声をアンジュはうっかり聞き逃した。拘束が緩んだ瞬間に彼の腕から抜け出すと、アンジュは慌ててホールに戻ろうとした。これからの時間は何食わぬ顔で伯爵に合流して過ごそう。

 バルコニーで座り込んだままの青年に「匿ってくれてありがとう、それとお大事に」とだけ告げて、逃げるようにその場からアンジュは立ち去った。

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