第二章 黒竜公の花嫁
01 縁談
父であるサイアスが待つ書斎を訪れたアンジュは、ロージェル夫妻がそろって待っていたことを意外に思った。アンネまでもがわざわざ同席するということは猫が壺を破壊した程度の話で収まらないだろう。
どきまぎしながら二人の前に立つと、サイアスは眼鏡の奥の眸をわずかに緩めて「アンジュ」と柔らかく呼んだ。
「君に大事な話があるんだ」
「大事な……話、ですか」
大事な話の心当たりをいくつか見繕ってはみたのだが、どれもぴんとは来なかった。戸惑っている間にサイアスは「縁談の話が来ているんだ」と切り出してきた。
「縁……談」
一瞬、トビアスが婚約でもするのだろうかと思ったのだが――それならアンジュにあえていま聞かせる必要もない。ということは……無意識のうちに可能性から除外していた結論をアンジュはようやく認めた。
「私に、求婚するような方が存在したのですか……?」
アンジュが元聖女であるラヴィエラの娘であることは醜聞として、社交界では噂になっている。遊び相手として声をかけてくるような輩はたまにいたのだが、あえて妻に迎えようなどという紳士などどこを探してもいない、というのがアンジュのいままでの感覚だった。
トビアスには申し訳ないが、裁縫でもしながら伯爵家の隅で余生を送ろうと考えていたのだが――これからの様々な人生設計が頭を駆け巡っていた。
動揺のあまりこれ以上何も言えずにいたアンジュのために、アンネが代わって「気が進まなければ、先方にはお断りできるのよね?」と夫に尋ねてくれた。
「それが……実は難しいんだ」
「えっ」
これ以上は何を聞かされようと動じまい、そう気を張っていたアンジュだったが思わず声を洩らしてしまった。難しいというのは婉曲であって、無理だという意味であることぐらいわかる。
いきなり結婚することが決まってしまった――がらがらと音を立てて崩れ去った人生設計を新たに組み立て直さなければならない。
「あの……そのお相手というのは、どなたなのでしょうか」
既に社交界デビューは済ませてはいても心当たりがまるでない。親しいと呼べるような相手はひとりもいないのだ。うーんうーんと唸りながら考えていると、サイアスが深く息を吐きだした。
「実は……この縁談を申し込んできたのは黒竜公ご本人なんだ」
「――え、黒竜公って、あのエヴァリスト公爵のことですか?」
黒竜公――カイル・エヴァリストはブリューテ王国の公爵閣下である。
いまだ未婚であることは知っていたが、そのような大物と知り合う機会などアンジュには存在しなかった。姿ぐらいは見たことがあるような気がするが、いつも女性に囲まれている華やかな方だという印象しかない。
「なんでも、先月開催された王都での夜会でアンジュを見初めたということなのだけれど、何か心当たりはあるかい?」
「エヴァリスト公爵――と、お話したような記憶は……」
思い至らない、そう言おうとした瞬間に記憶がばちっと稲妻のようにアンジュを貫いた。まさか――あのときの男性が、黒竜公だったなんてことは。背中を冷や汗が伝う。
「ございました、ね……」
そして、深いため息が書斎の中に満ちたのだった。
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