05 ロージェル伯爵邸にて

 馬車の振動に揺られながらうつらうつらしていたときに「すまない」という声が聞こえた気がした。


 瞼を開けると、ロージェルの肩に寄りかかっていた。

 申し訳ありません、と慌ててアンジュが姿勢を正すとはっとしたように穏やかな紳士の顔で首を横に振った。


「いいんだ。楽にしていなさい――もたれかかってくれていい」

「いえ、大丈夫です」


 すこしでも礼儀正しくしなくては、とぴしっと定規を入れたかのようにアンジュが背筋を伸ばすとロージェルは申し訳なさそうに眉を下げた。


 院長から渡された鞄に最低限の荷物を詰め込んで、アンジュは孤児院を出た。仲良くしていたニナたちに挨拶する時間さえなかったのが心残りだったが――シスター・ヴェガは「どうせあんたはまた送り返されてくるわ」と耳元で囁いた。


 いずれあの場所に戻ることになるのだ、としてもロージェル伯爵に失望されるのは不本意だった。

 どういう理由でロージェルがアンジュを連れ帰るなんて気の迷いを起こしたのかは知らないが、せっかく聖都の外に出られたのだから……すこしばかり背伸びしてでも長く過ごせたらいいなとは思う。


 聖都ラウムを離れ、西のカタル平野を含む広大な領地がロージェル家のものだという。街中を通り過ぎて伯爵邸の門を馬車がくぐると、正面に大きな屋敷が見えてきた。

 南北に建てられた煉瓦積みの居館は左右対称となっていて、中心となる棟の左翼と右翼に取り付けられたふたつのせり出した棟で構成されている。屋根いくつもの部屋の窓には硝子がはめ込まれ夕陽を浴びてきらきらと照り映えていた。


 馬車を降りたアンジュは荘厳な屋敷を前に圧倒されていた。ぽかんと口を開けていたアンジュの手を取り、ロージェル伯爵はホールへと入って行った。


「おかえりなさいませ、旦那様」

「ただいま。アンネはいるかな」


 帽子を執事に預けたロージェルが視線を階段の上に向けた。


「おかえりなさい、サイアス」


 ホールの正面階段を手すりを掴みながらひとりの淑女が下りてきた。落ち着いた柿色のドレスを纏ってはいても美しい女性であることは一目でわかる。アンジュはぼうっとしたようすで、アンネと呼ばれた夫人を見つめていた。


「こちらの淑女レディはどなた?」

「ああ、そのことで君と少し話がしたいんだ――ルース」


 近寄って来たメイド、ルースにいくつか指示をしてアンジュを預けるとロージェルは二階の部屋に入っていってしまった。

 こちらへ、とルースに連れて行かれた部屋で風呂に入れられた。自分で出来ます、と主張したのだが髪も身体もすべてルースの手でぴかぴかに洗い上げられた。自分の身体が石鹸で出来ているのではないかと思うぐらい、甘い香りがする。


「……終わりました。おなかは空いていますか?」


 いいえ、と答えようとしたところできゅう、と切なそうに勝手に身体が応えていた。ルースが着替え終えたアンジュを残して部屋を出て行くと、しばらくしてからお茶と茶菓子の準備をして戻って来た。

 

「大丈夫です、おなかはへっていません」

「いいえ。子供はいつもおなかが空いているものなのです」


 勝手な理屈だったが、食べ物を前にしてしきりに胃がはやくはやくと訴えかけていた。注がれた茶を口に含んだだけでは収まらない飢えがよだれとなって、唇の端から伝い落ちそうになる。


 スポンジケーキのあいだにイチゴジャムを挟んだケーキを取り分けられ、もう我慢が出来なかった。フォークで切り分け、ひとくちぶんを口元へと運んだ。

 ほろりと口のなかで崩れるスポンジは甘く、ジャムのわずかな酸味が舌の上で混ざり合う。


「美味しい、です」

「そうですか」


 淡々とルースは答えたが、かすかにその唇は緩んでいた。

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