04 伯爵との出会い

 殴られるのは慣れている。

 痛みにも慣れている。


 ただひたすら心を鎖して叱責の声や、身体の悲鳴を無視し続ければいいのだ。

 それが、物心ついてすぐにアンジュがおぼえた処世術だった。


 元聖女の娘――そんな肩書のおかげで、聖力があるのではないかと期待されたそうだけれど母親とおなじで「無能」だったらしい。

 王都を本拠とする聖女フレイヤ・グリーデに代わる存在であれ、と願った聖都の聖職者の落胆は大きく、力を持たないアンジュにその悲しみはぶつけられた。


 ――ラヴィエラは子を宿したしたせいで力を失った。

 ――この子供、アンジュに聖力があれば聖都に覇権が戻って来るはずだったのに……とんだ期待外れだ。


 大人の薄汚い思惑と行き場のない悲しみを最終的に背負わされるのは子供だった。ぶつけて、ぶつけて、増えていく他人の傷には見て見ぬふりをする。


 ただアンジュは自分が殴られることで他の子たちは殴られない、その事実に気付いていた。それならいいか、と思っていた。

 なんで私だけ、ではなく私でよかったのだ、と。


 ただそんなアンジュのことを聖道教会の大人たちは薄気味悪く感じていたらしい。大人だけではなく子供たちも。

 まだ幼いニナと、心優しいエルマだけがアンジュのことを気にかけていた。


「――何をしているんですか!」


 男の声が響いた。

 聖道教会第六支部――アンジュがいる孤児院を管理している教会には男の聖職者はいない。すべて修道女だけで管理、運営を行っている。だから男の声はアンジュにとって耳慣れないものだった。


「い、いえ……この子に躾をしていただけですわ、ロージェルさま」


 たじろぎながら言い訳をするシスターを押しのけてアンジュの身体を持ち上げると、男はアンジュのあまりの軽さにぎょっとしているようだった。

 瞑っていた瞼を持ち上げ、アンジュはロージェルと呼ばれた男の顔を見た。

 そこにいたのは細身の優男である。眼鏡をかけているが、その向こうの眸は穏やかで温かみがあった。 

 アンジュと目が合った瞬間に、ロージェルは息を呑んだようだった。


「……ラヴィエラ?」

「も、申し訳ございません。この娘を見てあの元聖女を思い出してしまわれましたよね? この子はあのふしだらな女の子なのです」


 シスターの言葉にアンジュを見るが険しくなった。またおなじである。この帝国の者はラヴィエラのことを皆、心の底から嫌っているらしい。


「名前は」

「……え?」


 ところが予想外にもまっすぐに目を合わせたまま、ロージェルはアンジュに問いかけてきた。


「小さなお嬢さん、私に名前を教えてくれないか」

「あ、あのロージェルさま。この娘は……」

「あなたには聞いていない。少しだまっていてくれないか」


 ぴしゃりとロージェルが撥ねつけると、シスターは唇をぎゅっと噛み押し黙った。


「アンジュ……です、旦那様」

「いくつ?」

「13歳です」


 小さく、神よ、とロージェルがつぶやいたのがわかった。


「急ですまないが支度をしてくれ。今日、この子を引き取らせてもらう」

「は――いえ、お待ちくださいロージェル伯爵さま!」


 伯爵、ということは貴族だったのかこの男は。

 アンジュは抱きかかえられたまま男の身なりを改めて眺めた。仕立ての好さそうなジャケットは、アンジュがいま着ているごわごわの黒のワンピースドレスとはくらべものにならないなめらかさだ。いかにも貴族らしいクラヴァットといい、とりあえずあまり見たことのない人間だった。


「こんな子を養女にするおつもりですか? もし子供をお探しでしたら他にも……」

「何度も言わせないでくれないか」


 柔和な表情のままではあったが、ぴしゃりとロージェルは言い切った。


「私は彼女を引き取ると言っているんだ」

「……い、院長に話してみないとなんとも――」

「では、そうしてくれ。そのあいだ、私はこの子といることとしよう」


 もう誰にも奪われまいとするかのように、ぎゅっとロージェルはアンジュを腕に抱いていた。

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