第9話『寡黙な姉とヘルメス04(後)』
滑らかな黒いスーツに袖を通したミケルは水を一杯飲み干すと部屋を出た。
何歩か歩けばそのまま雇い主の部屋にたどり着き、彼はノックをして扉をくぐる。まだ六時を迎える前。部屋の中はカーテンのせいで薄暗い。
会社は休みだと言うのに、へメラは備え付けの小さなキッチンの中でぼんやりと立っていた。
「おい、まさか徹夜か!?」
「進みが良くて……」
「駄目だ駄目だ! 十分でいいから寝ろ!」
ミケルは全自動調理機のスイッチを一時停止にして、パジャマ姿のヘメラをベッドへ押し込む。
「ほら寝る!」
「うー」
「そんな可愛い声出したって駄目……」
言うや否や、ヘメラは眠りの深みに落ちる。
「……ったくよぉ……」
ミケルはまぶたを下ろすと年齢よりも幼く見える乙女の寝顔を見つめ、明るい栗毛をさらりと撫でる。
「俺の世話焼く前に自分のこと大事にしてくれ」
ヘメラがハッとして起き上がると、時刻は午前十時を過ぎたところだった。黒いスーツのミケルはベッドのふちに腰を下ろしていて、ヘメラの顔をじっと見つめていた。
「わぁあああ……予定が……」
「予定つったって人と会うとか会社のなんたらとかは一切ねえだろ」
「か、買い物に行こうと……」
「今から行けばいいだろ。ついでに外でメシ食うか?」
しょんぼりするヘメラを横目にミケルは立ち上がり、全自動調理機の前へ歩いていく。
「寝不足にカフェインは駄目だ。ルイボスにするぞ」
世話を焼いて焼かれて。二週間も経てば二人はお互いがどこをおろそかにしがちなのか理解し始めていた。
「徹夜するんじゃねえぞ」
「そっちこそ、食費が高いからって一食抜くなよ!? あと怪我をしないように!」
新しい生活が始まって以降初めて丸一日別行動を取ることになったミケルとヘメラは、ヘルメスたちが集まるなか互いを叱る。
ヘメラの護衛は
ミケルは一人でも大丈夫なのに、と心の中で舌打ちをしながらマーシーを見下ろす。
「遅く帰ってくるつもりだから。俺が戻るまでにベッドの中にいなかったら怒るぞ」
「こちらのセリフだ! 一回でも食事を抜いたら怒るからな!」
アレッサンドロは目の前で行われる
(もういいからさっさと結婚しろ)
ヘメラはぷりぷりと頬を膨らませたままアレッサンドロたちとレストランへ向かう。その場に残されたミケルは腕を組み、大きく息を吐き出した。
ミケルはマーシーの存在をほぼ無視しながら治安の悪い地下鉄に乗り、いくつかの駅を通り過ぎる。
リンデルほどではないものの大きな駅に降り立ったミケルは、赤ピンクのツインテールを探した。
「あっ! スプラウトさん!」
人混みの中で光る腕輪をつけた右手が上がり、赤ピンク色の髪と目元がチラリとのぞく。
「よう」
ハンドルネームスプラウトことミケルは、ゲームクラブのメンバー、スプリング・ブロッサムや仲間から笑顔で出迎えられる。しかし彼の後ろに見知らぬ美女がついてきていて、ブロッサムは大きくショックを受けた。
「そ、その人は!?」
「あ? ああ、親戚。妹みたいなもん」
「あ、なあんだ!」
ブロッサムはほっとして破顔する。
「で、今日はどこ行くんだったっけか?」
「ええと、キューブパズルの世界選手が通う教室みたいなところがあるの。そこの見学! です!」
「ほほお」
ブロッサムは興奮のせいで勘づいていなかったが、他のメンバーは明らかに身長が変わっているミケルを見上げて頭を突き合わせる。
「ね、ねえなんか前より大きくない? スプラウトさん」
「そう思う? やっぱり?」
「顔は一緒だから同じ人だよね……?」
「だと思うけど……」
「成長期?」
「まさか」
ゲームオタクたちと共に着いたビルはそれ自体がアートのようなたたずまいだった。いま流行りの無重力建築によって上へ上へ高く引き伸ばされた直方体は宇宙へ向かって手を伸ばしているようだ。
オタクたちもこの聖地へ訪れるのは初めてだそうで、緊張した
「す、すっげー……」
ミケルもこれはなかなか、と屋内の装飾を見渡す。その視界にふっとマーシーの姿が入り、彼はあからさまにそっぽを向いた。
(……これは最初の対応を間違えたかもしれません)
マーシーはふっと小さく息をついた。
オタクたちと共にキューブパズル選手の練習風景を見守ったミケルは、その後体験教室という形で世界選手につくコーチたちから直々に解き方の教えを受ける。
カラフルなキューブを手にコツコツと一面を完成させたミケルは、いつの間にかふと視界に現れたアスコのキューブをじっと見つめた。アスコのキューブに色はなく、白から灰色のグラデーションが顔を揃えている。
(これもしかして、手とは別で思考だけで動かせるのか?)
仮想空間上のキューブパズルを見ながら教わった手順を思い出すと、パズルは予想通りの動きをする。
(ほー、じゃあ手は使わなくていいのか。便利だな)
ブロッサムや仲間の手を借りながら手元のキューブと視覚上のキューブが揃って二面完成し、ミケルは
「おっし、揃っ……」
次の瞬間ミケルの視界がぐらりと揺れる。
「えっ」
驚いたのも
「スプラウトさん!?」
「えっ!? どうしたんですか!?」
コーチやオタクたちが取り乱す中、マーシーはミケルが頭を机や床に打ち付けないようかばい、腰に巻きつけていたポーチから注射器を取り出す。
「鎮静剤です」
マーシーは注射器をミケルの腕に突き立てた。
抵抗する暇もなく、彼の意識は闇に落ち沈んでいった。
まぶたが持ち上がり、ぼんやりとした視界の中にマーシーの顔が映る。
「十五分ほど気絶していました。私のことはわかりますか?」
目で追ってください、と彼女はペンを左右に動かすが、ミケルの思考はまだはっきりとしない。
「駄目ですね、もう少し寝ていてください。これからヘメラ様へ連絡をするので……」
ミケルはそれは嫌だ、と首を振る。
「駄目だ、嬢ちゃんには……心配させたくない……」
「……わかりました。様子を見るので寝てください」
ミケルの意識は再び沈み、次に目を開けた時にはブロッサムとマーシーが揃って頭上で話をしていた。
「えっ、じゃあスプラウトさんはリハビリをまともにしないで今まで暮らしてたんですか!?」
「知人から聞いた話ではそのようです。手のリハビリは特に大事なのでして欲しいのですが……あっ」
マーシーが先に気付き、ブロッサムも彼女の視線を追ってミケルを見つめる。
「あっ! スプラウトさん!」
「……どのくらい気絶してた?」
「五時間ほど」
「昼すぎてんのかよ……」
時間を無駄にした、とミケルは肩を落とす。
「悪いなブロッサム。せっかくの遠出だったのによ」
「ううん! それよりスプラウトさんはおうちの人に迎えに来てもらったほうがいいよ……」
マーシーはブロッサムの言葉にうなずいて見せる。
「私が自宅までお送りします」
「あ、そっかご親戚ですもんね」
「はい、なので送迎は大丈夫です。それより、ブロッサムさんもお帰りになられた方がよいかと。予定の時間を大幅にすぎていますし」
「わ、私は大丈夫です。それよりスプライトさんが心配なので……」
ブロッサムに見下ろされ、ミケルはにんまりと笑って見せる。
「ちょっとめまいがしただけだって。平気平気」
「でも……」
「これに
「……うん。次は無理しないで遊ぼうね!」
ベッドから半身を起こし、ブロッサムたちが先に帰る様子を笑顔で見送ったミケルはさて、とマーシーを見やった。
「で、ここは?」
「同じビルの救護室です。
「そうかい、そりゃどうも」
「……パズルはどこまで解きましたか? ああ、脳内のほうです」
何故彼女がそれを知っているのか、と彼が見つめるとマーシーも彼を見つめ返した。
「あんたの立ち位置がわからん」
「私はウェヌス様の秘書、そしてあなたの監視役です」
「ほお、ご大層なこって」
マーシーはふうと溜め息をつくと、ミケルに再び横になるよううながす。
「あなたの敵ではありません。説明が難しく誤解を招きそうなので、私の記憶をご覧ください」
マーシーは目をつむって右手を軽く握り、白い立方体を作り出す。
「準備はいいですか? 額に
白い立方体はミケルの頭の上でとろりととろけた。
次の瞬間、ミケルはマーシーの記憶のなかへ飛んだ。まだ存命のアスコ・オルブライトを前に
「つまり、先行研究で発見されていた星を浮かばせるほどの巨大なエネルギー、かつてダークエネルギーと呼ばれた
「アスコ様はそれに実用性を持たせようと?」
「ああ。私は古来の人々が第六感と呼ぶ現象に着目してきた。結果を言えばその正体こそ
ミケルはいきなり突飛な話だ、とマーシーの記憶を追いながら感じた。
「
「
「親友でもあるが、彼は軍人だ。この技術を軍事転用する可能性がある。私は戦争の道具を作りたい訳ではない」
「なるほど。それで警察官である私と、
「そうだ」
アスコ・オルブライトはその場にいないはずのミケルへ頷いたように見えた。
「
「先ほど、
「その通り、
「彼にはヘメラお嬢様と長く連れ添っていただかねばなりませんからね」
「そうだ。あの子を一人にしてはいけない……」
アスコ・オルブライトはやはりその場にいないはずのミケルへ視線を向ける。マーシーは彼の視線を追いかけ壁しかないはずの後ろへ振り向いた。
「先ほどからどちらを見ていらっしゃるのですか?」
「……詳しくはのちのち説明しよう。今言えるのは、私の義体もヘルメスシリーズと同じ技術で作ったと言うことだ」
マーシーは驚いた顔でアスコへ振り向いた。
「ではアスコ様も、
「もちろん。まずこの身で確かめずにどうする?」
アスコ・オルブライトはマーシーへ視線を戻した。
「この話は私と君の間でだけ。のちに
「……かしこまりました、アスコ様」
ミケルが過去から戻ってくると、マーシーは心配そうに彼をのぞき込んでいた。
「……二分ほど目をつむっていらっしゃいました」
「……おう」
「とにかく、リハビリは必ずして、体を大切になさってください。私から言えるのはそれだけです」
ミケルがオルブライト社の社屋に繋がったプライベートルームへ戻る頃には空はすっかり黒くなっていた。
ヘメラを起こさないようにとそっと部屋に入ったミケルは、ベッドの上で折り曲げた膝に頭を乗せて座り込んでいる彼女を見つけ、目を見張った。
「おい……」
「……寝ようとはした」
ヘメラは眠そうではあるもののしょんぼりとしてミケルを見つめる。
「ここのところ、毎晩必ずあなたが眠るまでいてくれたからいつもと違って……寝付けなくて……」
その言葉を聞いてミケルは溜め息を一つ。
いつものようにベッドのふちに腰掛けると、眠気でうるんだ蒼色の瞳が彼を見上げた。
「そばにいてやるから、横になりな」
「……我ながら成人を過ぎていておかしな要求だとは思う」
「言い訳しなくていいから」
ミケルにうながされ、ヘメラは体を横たえる。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
ミケルがさらりと髪を撫でるとヘメラは安心して目をつむった。数秒も待てば乙女はすうすうと寝息を立てる。
「……本当に、厄介なことに巻き込まれちまった」
ミケルをヘメラのプライベートルームの手前まで送り届けたマーシーは、真っ直ぐに主人ウェヌスの元へと戻った。
「ただいま戻りました」
ウェヌスは日頃のルーティーン通りシャワーを終えたようで、シルクのバスローブ姿でゆったりとソファで論文を読んでいた。
「遅かったわね。彼の様子は?」
「はい、その後意識の
「そう」
ウェヌスは視線を論文へと戻す。
マーシーは自分もシャワーを浴び、部屋着に着替えるとウェヌスのそばへと戻る。
「お隣よろしいでしょうか」
「いらっしゃい」
マーシーはウェヌスに密着して座ると、猫のようにゴロリと甘える。ウェヌスはそれを当然のように受け止め、首にまとわりつくマーシーの頭を片手で撫でた。
「それで
「いいえ、じぇんじぇん駄目でした。やっぱりヘメラさまが本命のようで」
「そうでなくちゃ困るわ。尻の軽い男は
ウェヌスは読みかけの論文をソファに置き、マーシーへ笑顔を向ける。マーシーは老いてもなお美しい面影を残すウェヌスにほうと
「本日もお美しゅうございます、ウェヌス様」
「当然よ。でも当然を褒めてくれるのはあなただけ」
ウェヌスはマーシーの額へ口付けを落とす。マーシーはゆるみきった笑顔を見せると、彼女の膝で寝転がった。
「あなたも疲れているでしょうし、今日はすぐに寝ましょう。明日からまた忙しいわよ」
「はぁい」
異なる形の主人と従者が二組、同じビルの中で眠りにつく。その様子を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます