第二幕 前半

第8話『寡黙な姉とヘルメス04(前)』

 滑らかな黒いスーツに袖を通したミケルは水を一杯飲み干すと部屋を出た。

 何歩か歩けばそのまま雇い主の部屋にたどり着き、彼はノックをして扉をくぐる。まだ六時を迎える前。部屋の中はカーテンのせいで薄暗いが、ミケルは迷うことなく備え付けの小さなキッチンにたどり着く。

 料理もカフィーも何でもござれの全自動調理機を動かし、二人分のカフィーを用意しながら彼は冷蔵庫の中をのぞき込んだ。

「ほお、今日はブドウか。豪勢だなほんとによ」

 ミケルはソーサーにブドウを一粒、チョコレートをひとかけら載せ、窓辺のカーテンを少しだけよける。朝日がうっすら差し込むと部屋の主は眠気と闘いながら頭を持ち上げた。

「ほら」

カップとソーサーを差し出すと、ヘメラはかすれた声でありがとうと返す。

「また遅くまで起きてたんだろ」

「学会へ出す論文を書いていた……」

「熱心なのはいいが程々にしとけ」

 ミケルは何気なくヘメラの乱れた髪を手ぐしで直し、今日も我こそが一番だと背伸びをするビル群をながめた。




 ヘルメス01ゼロワンかたる生活が始まったヘルメス06ゼロシックスことアレッサンドロは、01ゼロワンが正式にヘメラの護衛として雇われたと聞き胸を撫で下ろした。と同時に「護衛?」と疑問を視界に映るガブリエルへ飛ばす。

「そう。傭兵として契約書を交わして、ヘメラちゃんの用途不明の出費に理由をつけたってところ」

「律儀だなぁオイ。んなもん02ゼロツーのあんたが適当にでっち上げられたんじゃないの?」

「そのつもりだったんだけどね。どうも当人同士、至って誠実に付き合う気らしい」

「誠実に付き合うならさっさと結婚しろ」

 アレッサンドロはホテルに備え付けの高級ワインを瓶のままあおり、空いた手でいじっていた小型端末をソファへ放り投げた。

「まあ俺としては恋人役を演じて生活が保障されるってんなら楽なことこの上ないんだけどさ? 高い食い物くえるし?」

「刑務所の不味い食事には飽きただろう」

「まあね」

 ガブリエルはふっと微笑むと赤い顔をしているアレッサンドロへ真剣な表情を向ける。

「前回の集まりで触れられなかったけど、君はヘルメス01ゼロワンの機能についてアスコ氏から聞いていることはある?」

「ああ、あるよ。何だっけ……そう、01ゼロワンが使えるらしいよ」

「ふむ、魔法?」

「俺も詳しいことは知らない。けど、あのじいさんはそんなことを言ってた。だから01ゼロワンかた06おれは手品ができなきゃいけないんだと」

「ほう、さすがにそれは初耳だな……。そうか、ありがとう。あとは好きに過ごしていていいよ。今後の定例会への出席と、恋人役だけ真面目に演じてくれたらプライベートは問わない。ああ、でも危ない薬は使わないように。商人との接触もなし」

「へーいへい、わかりましたよ」

「くれぐれもよろしく頼むよ。ではまた」

 通信が終わるとアレッサンドロはフンと鼻を鳴らして壁にめ込まれた液晶画面をにらんだ。

「プライベートは問わない? 監視カメラのついたホテルに軟禁なんきんしておいてよく言うよ」




 ヘーベーシリーズのプロトタイプを公表して以降、オルブライト社二代目社長ヘメラの周囲にはプラチナブロンドの美男美女が増えた。

特に目立つのはカメラの前で堂々と彼女の肩を抱いた最初のプロトタイプを名乗る男……ではなく、ヘメラの後ろを当然と守る背の高い男だ。

 オルブライト社の朝礼に顔を出したウェヌス・オルブライトは、横目でチラリと歳の離れ過ぎた妹ヘメラと、その背後に立つ例のヘルメスを見やった。

「では本日もよろしくお願いいたします」

 藍色のスーツを着たウェヌスは、社員たちにしっかり頭を下げた妹ヘメラが護衛と共に研究室へ戻ろうとしたところを片手で制する。

「今いいかしら」

 新しい護衛はヘメラに近付いてきたウェヌスに向かって目を光らせる。

(ふむ)

ウェヌスは斜め後ろに立つ秘書を片手で示した。

「私の秘書にあなたの護衛を紹介して」

「はい、お姉さま」


 ヘメラに見上げられたミケルは彼女のとなりへ並び、長姉ちょうしウェヌスの秘書だという若い女性の顔を見た。

茶金髪に緑色の瞳。あまり特徴のない色合いだが、彼女の顔は人形のように整っていた。

「マーシー・エイデンです。以後お見知り置きを」

マーシーが差し出した右手には角砂糖のような白い立方体が置かれていて、ミケルはまさかと思いながら握手に応じる。

 立方体を受け取ると視界にパパパパーンと花火が舞い、ミケルは歓迎! と書かれた文字をぽかんと見つめた。

(んじゃこりゃ)

ミケルが呆気に取られているとヘメラが彼を肘で小突く。

「っと、ミケル・エイトケンです。どうも」

「どうぞよろしくお願いします」

 マーシーはとなりに立つ四、五十代の女性ウェヌスへ目配せをし、うなずいた。

「必要であれば当人同士で話をして。仕事に支障のない範囲で」

「かしこまりました」

 ウェヌスとマーシーはヘメラたちへ会釈えしゃくをして自分たちのオフィスへ戻っていく。

 ミケルが去っていく背中を見つめながら意味深な挨拶あいさつをいぶかしんでいると、ヘメラは「私たちも行こう」とミケルを背中で誘った。

「彼女については歩きながら話そう」


 マーシー・エイデンは一番最初に義体換装を終えたヘルメス04ゼロフォー。そしてヘルメスシリーズは当初、アスコの子供たちそれぞれに一人か二人割り当てられる予定であったと説明され、ミケルは眉間にしわを寄せた。

「長兄レッドレイクと父アスコの間に一悶着ひともんちゃくなければ、ヘルメスたちは兄弟全員のそばで活躍するはずだった」

「ほー。で、04ゼロフォーは嬢ちゃんの姉さんのところにいるままなのか」

「姉とは揉めたことはないが、仲がいいと言う訳でもない。マーシーも姉の秘書として有能だし、役職を動く理由もないのでそのままになっている」

「ふうん」

 会話をしながらもヘメラは昨日の研究結果をリストアップし、電脳と連動させていく。研究室に到着するとヘメラは電脳から液晶へデータを移し、今日使いたいデータをピックアップして計測機器へコピーしていく。

「嬢ちゃんが何してるのかさっぱりわからん」

「本来は自動で選別ができるが、データ量が膨大でな。AI任せにしていると時間がかかる」

「結局人間のほうが手が早いってことか」

「人間という生き物はよく出来ているよ。仕事をするたびにそう思う」


 己のオフィスへ帰ったウェヌスは「それで?」と秘書マーシーに振り向いた。整然とした机。藍色と白を基調とした上品で高級なオフィス。マーシーが隅々まで手入れをしてくれている、お気に入りの部屋だ。

「あの男は何番?」

「マーキング信号では番号も名前も一切分かりませんでした」

「なるほど、ではあの男がヘルメス01ゼロワンなのね」

「はい。脳殻のうかくへ強い暗号化とガードがかかっている個体は01ゼロワンのみです」

「たとえ兄弟とされる義体だとしても、頭の中を勝手にのぞかれては困ると。信用されているようでされていないのね、あなたたちも」

 ウェヌスは諦めたように目を伏せ、己のデスクへ腰を下ろす。

「休憩を多めに取って、01ゼロワンに探りを入れてきなさい。怪しまれない程度に。協力的な姿勢を示してね」

「かしこまりました、ウェヌス様」




「あのふざけたメッセージは何だ?」

 昼休みに声をかけに行こうとしたらヘルメス01ゼロワンのほうからやってきて好都合、とマーシーは心の中でほくそ笑んだ。

「ふざけてはいません。文字通り、兄弟が増えたことを歓迎しております」

「その冗談が通じなさそうな顔でよく言うわ」

オルブライト社の最新鋭の社屋しゃおくに設置された社員食堂には、警備員から義体技師、バイオ技術の研究者まで幅広く集まり、各々の食事を楽しんでいる。

 01ゼロワンことミケル・エイトケンは言うだけ言って去ろうとしたので、マーシーは彼の腕に手を伸ばした。手は避けられてしまったが、ミケルは振り向いた。

「なんだ」

「ミケル様の今後のスケジュールをお聞きしたく。あなたが休みの日に私も休みを取ります。共に出かけましょう」

「はぁ?」

「これはリハビリを終えた兄弟全員に対し行っています。半日から丸一日行動を共にし、新しい兄弟の人となりを知る。私にとって非常に重要なイベントです」

「……あんたAIよりよっぽどAIみたいな喋り方するな。クセか?」

「秘書の仕事を長くしてきたもので、その影響かと思われます」

「へえ、そうですかい。悪いがまだ働き始めたばっかりなんでね。休みなんてしばらくねえよ」

「ん? オルブライト社の規定では警備員は週休二日と決まっていますが……」

ミケルは警戒心たっぷりの視線で腕を組みその場にたたずむ。マーシーはああと声を出した。

「引越しの片付けなどが休日に発生するのですね。失礼いたしました。では半月ほど先に、日にちを決めずあくまで予定として検討いただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

「てめえに割く時間はねえっつったんだよ」

マーシーはきょとんとしてミケルを見上げた。これまで02ゼロツー03ゼロスリー05ゼロファイブへ声をかけ、時期は前後したものの全員了承はしてくれた。

「……断られたのは初めてです」

「ほお、兄弟みんなお優しいこって。じゃあな」

 ミケルは食事を摂らずに食堂を出て行ってしまう。マーシーは初めての状況に出くわし、どうしよう、と小さな声でつぶやいた。




 身分相応の安い男性服に袖を通したミケルは水を一杯飲み干すと部屋を出た。

 何歩か歩けばそのまま雇い主の部屋にたどり着き、彼はノックをして扉をくぐる。まだ六時を迎える前。部屋の中はカーテンのせいで薄暗いが、ミケルは迷うことなく備え付けの小さなキッチンにたどり着く。

 料理もカフィーも何でもござれの全自動調理機を動かし、二人分のカフィーを用意しながら彼は冷蔵庫の中をのぞき込んだ。

「今日はーっと……オレンジか、ほお」

 ミケルはソーサーにオレンジの甘煮の輪切りを一つ、チョコレートをひとかけら載せ、窓辺のカーテンを少しだけよける。朝日がうっすら差し込むと部屋の主は眠気と闘いながら頭を持ち上げた。

「おはようさん」

「おはよう……」

カップとソーサーを差し出すと、ヘメラはかすれた声でありがとうと返した。

「会社は休みだろ。今日は何すんだ?」

「論文の続きをしようかと……。あと己の研究を……」

「あんたほんと根っから研究者だよな。なんで社長してるんだ? 経営なんて兄弟に任せちまえば……。いや、それが出来たら苦労してねえか」

 ミケルはベッドのふちに腰を下ろす。差し込んだ朝日でヘメラの栗毛がオレンジ色に透けると、彼はまぶしそうに目を細めた。

「綺麗だ」

「ああ、ビルの上だからな」

そう言う意味じゃない。と口には出さず、ミケルはふっと口の端を上げた。


「なにそのダッサイ服! 信じらんない!」

 と、早朝からヘルメス03ゼロスリーことラファエルは声を上げた。

「何を着ようが俺の勝手だろうが」

「そのだらしない服でヘメラちゃんのそばを歩くなっつってんのよ! ちょっと来なさい! まともにしてあげるから!」

ラファエルはミケルの襟首えりくびを掴んでずんずんとオルブライト社の入り口へ向かっていく。

「ああっ、おい。ちょっ……」

「ちょっと借りるわね! 三十分で返すから!」

ヘメラは親友の突飛な行動に驚きつつも、笑顔で二人を見送った。


 四十分後、ミケルはオフィスカジュアルな上下にゆったりしたフード付きの上着を着て戻ってきた。ラファエルは「合格ラインギリギリだけどまあいいでしょう」と鼻を鳴らす。

 二人がオルブライト社の食堂へ向かうと、ヘメラはヘルメス02ゼロツーガブリエルとヘルメス06ゼロシックスアレッサンドロに挟まれてお茶を飲んでいた。

「はーあ、お待たせ」

「おはようミケルくん」

「おはようさん。アレッサンドロもどうも」

「どうもー。朝から大騒ぎだね」

「いや、大騒ぎしたのは俺じゃねえよ。こいつが……」

と、ミケルがラファエルを指さすと、彼女は笑顔のまま怒りのオーラを出す。

「……何でもないっす」

適宜てきぎファッション指導は入れていくわ」

 ミケルとラファエルがヘメラの前に腰を下ろすと、測ったようにヘルメス04ゼロフォーマーシーが姿を見せる。マーシーも休日のようで、手首が隠れる長さの婦人用セーターに足捌あしさばきのよさそうな細身のパンツスタイルだった。

「おはようございます、皆さま」

「あらおはよう。久しぶりじゃない?」

「はい、ここしばらくはウェヌス様がご多忙で……。本日は兄弟と話ができるようにと計らっていただきました」

マーシーはミケルを見たが、ミケルは彼女の視線をわかっていて無視をする。

02ゼロツー03ゼロスリー06ゼロシックスもマーシーの視線を追ったが、01ゼロワンがあくまで素知らぬ振りをするので肩をすくめた。

「それで用件は?」

「はい、リハビリを終えた新しい兄弟と共に休日を過ごすべく参上いたしました」

「って、え? 俺のこと?」

06ゼロシックスアレッサンドロが己の鼻を指すと、マーシーはうなずきを返す。

「可能であれば。兄弟の人となりを知りたいので」

「へーえ? それ全員にやってる?」

「はい。ガブリエル様、ラファエル様、ペルセウス様にもご協力いただきました」

「ペルセウス……?」

アレッサンドロは誰だ? という顔をしてから仏頂面の若い男05ゼロファイブを思い出す。

「彼そんな名前なの」

「二つ名がついてる凄腕のスナイパーだな、有名だ。聞いたことがある」

「へー、そうなの」

「俺が知ってるペルセウスはだいぶ爺さんだけどな。本人なのか後継者なのか……」

よその傭兵団の事情ゆえ詳細はわからないものの、オルブライト家が傭兵を雇うこと自体初めてではないと知り、ミケルは一人でうなずいた。

「ま、嬢ちゃんの味方ってはっきりしてるならいいさ」

独り言のように呟き、ミケルは残りのカフィーをあおると席を立った。

「七時半だぞ嬢ちゃん」

「ん、ああ」

ヘメラが席を立つとヘルメスたちは揃って腰を上げた。

「今日は研究室にこもりきりなので、ミケルが同伴をしてくれる。アレッサンドロは昼ごろにまたお会いしよう」

「あ、じゃあレストラン予約しておくね♡」

「ええ」

「私は一度家へ戻るよ。夕食は共にしよう。レストランはこちらで決めていいかな?」

「はい、お願いします。ラファエルはどうする?」

「私もディナーご一緒したいなー?」

「では夕方に。マーシーは己の用事を優先してくれ」

「かしこまりました、ヘメラ様」

「では」

 ヘメラはミケルにエスコートをされその場を立ち去る。マーシーは二人が消えていった廊下の角をいつまでも見つめていた。




 昼までの自由時間を得、マーシーと言う同伴者を獲得したアレッサンドロはご機嫌で大通りを歩く。

「嬉しそうですね」

「嬉しいとも! ホテルに閉じ込め、ああいや大人しくしていないといけないところを外へ出られたからね!」

「ああそうだ、忘れていました。マーシー・エイデンです」

マーシーは握手を、と白い立方体を手のひらに載せて差し出す。

「あ、どうもどうも」

視界に花火と歓迎の文字が浮かび、アレッサンドロは声を出して笑う。

「何これ? これもみんなにやってる?」

「はい、同シリーズが増えることは喜ばしいことですから」

「へーえ。そんなお堅そうな顔して、わからないもんだね。ミケルにもやったの?」

「はい。ですが、デートの誘いは断られてしまいました」

「ふーん? どうして?」

「どうしてでしょうか……? わかりません」

のんびりした表情をしながらもマーシーはマーキング信号から返ってきたヘルメス06ゼロシックスの搭乗者情報に目を通す。

(アレッサンドロ・ジャンマリア・バルサモ? 本名ではなさそう。出身地秘匿、経歴秘匿。こう言うたぐいは裏社会の人間でしょう。あとで署へ戻って詳しく調べますか)

アレッサンドロがにこにことしてこちらを見ていたため、マーシーも微笑みを返す。

「笑うと可愛いじゃない」

「ありがとうございます。では、どこへ向かいましょうか?」

「あ、俺ねーえ、コンビニ行きたい。雑誌っていうか最新情報欲しくて」

「かしこまりました。お供いたします」

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