第10話 前略、地獄の底から(その5)
※当エピソードと前エピソードについて、長子で毒親育ちの方は不快感を催す恐れがあります。
小学四年生の時、両親は離婚した。
父の暴力が限界に達したらしい母は、弟だけを連れて出ていった。
その数日前に母が妹――叔母たちと電話で笑って話していたのを偶然聞いた。
「連れて行くのは下の子だけよ。下の子は自分に甘えてくるから可愛いし。環士? 大人びてかわいげがないのよ。欲しいもの聞いても答えないし、なに作ってやっても反応ないし。協調性っていうの? 下の子と違って、それがないから友達もいないみたいだし」
それが、自身の負担を減らすために甘えることを許さずオトナになることを強制してきた母の言葉だった。
父とふたりの生活が始まった。
父が帰ってくるのはいつも夜遅くであり、そして、常に不機嫌で酔っ払っていた。
風呂を沸かし、夕食の支度を終えた環士はテレビを見ながら父の帰宅を待つ。
父より先に食事を済ませることも風呂に入ることも寝ることも許されなかった。
テレビの音量はやっと聞こえるくらいに絞り、父が帰ってきたらすぐに消す。
テレビを見ていることがばれたらただでは済まない。
“親の稼ぎで買ったテレビを勝手に見るな”と殴られたうえ、夕食は抜きになる。
その父が死んだのは去年、環士が中学一年の夏だった。
交通事故だった。
環士の身柄は父の兄――伯父に引き取られた。
法事で何回か顔を合わせているが、話をしたことはなかった。
職人気質の父はいわゆる社交的な人間や雄弁な人間、饒舌な人間を軽蔑していた。技能ではなく口八丁で仕事を得るみっともないクズだとして。
その考え方は当然のように環士についても押しつけられる。
父は環士が人前――特に親戚たちの前ではしゃいだり、長々としゃべることを許さなかった。
そんなことがあった日は“みっともないマネをして親に恥をかかせた”と怒鳴り、殴った。
さらに怒りは“オマエの育て方が悪いからだ”と当時は一緒に暮らしていた母にも向く。
当然のように父を恐れる母からも“父が正しい。人前でへらへらしている環士が悪い”と殴られる。
しかし、ここでも弟はどれだけ親戚の前でふざけていても叱られることはなかった。
むしろ、ひょうきん者として親戚たちのアイドルになり、両親もそれを誇った。
その結果、環士は常に座敷の隅でじっと法事が終わるのを待つこどもになった。はしゃいだり、長々としゃべっている弟を中心に親戚たちが形成する“談笑の輪”を遠目に見ながら。
予定の時刻より早く伯父の家に着いてしまった環士は、ここでも伯母の言葉を偶然耳にする。
「甥がウチに来るって言うから楽しみにしてたのに
伯父が応える。
「それはみんな思ってることだ。でも、しょうがないじゃないか」
そんな伯父に引き取られてすぐに、環士は槌ヶ浦中学校へ転校することになった。
“寮があるから”というのがその理由だった。
「ウチもそれほど広くないんだ。あと、高校生の娘がふたりいるし」
そんな伯父の言葉を聞きながら考える。
“もし引き取られたのが弟の方だとしても、やはり、寮に入れただろうか”と。
転校の手続きを終えた帰り道で伯父が告げる。
「学費と寮費はこっちから払うから心配しなくていい。あと、スマホを契約しよう。持ってないんだろ? お金の心配はしなくていい。それから環士くんの銀行口座を作ろう。そこにお小遣いや日用品代として伯父さんから毎月振り込むよ。五千円でいいかな?」
恐縮する環士に伯父が笑う。
「学費も寮費もスマホ代も小遣いも、まとめて返してくれたらいいよ。環士くんが就職してからね」
その言葉に、環士は自身が中学生にして借金を背負う身になったことを理解した。
だから、そうなろうと決意したわけではなかった。
気が付いたら自然にそうなっていた。
誰も信じない、誰にも期待しない人間に。
ゴールデンウイークに作文の宿題が出た。
テーマは“家族”。
“家族などいないから書けない”という環士に、担任の並河は“幼い頃の思い出でもいいぞ、なんなら今お世話になってる伯父さん伯母さんの話でも”。
書けるわけはなかった。
溶魂沼に身を委ねた環士がつぶやく。
「そんな人生しか知らない――人を信じることができなかったボクにとって、サトさんは天使、いや、女神だったんだよ」
小学校の廊下で一緒になってミートソースまみれの食器を手が汚れることも厭わず拾い集める紗登子を思い出す。
そして、そんな紗登子と敵対し、苦しめてしまったことを思い出す。
しかし、その記憶と感情もすぐに希釈され、はるか昔のできごとのように頭の中から遠ざかる。
改めてフィーマに告げる。
「フィーマに言っておきたいこと……っていうか、言わなきゃいけないことがひとつだけある」
「……言ってみろ」
「そんな家族だったけど、ボクが悪いわけじゃない。ボクが選んだ結果じゃないからな。だから、ボクに後悔するべきところはひとつもない。ただ――」
続ける。
「――後悔していることがあるとしたら、自分に奴隷としての人生しか与えないまま死んだ父親と、自分に都合がいいようにしつけておきながらそれを失敗作のように捨ててどこかで生きている母親に“ざまあみろ”と言えるようなオトナになれなかったこと。ずっと親の前で自分を殺し、親の気に入る自分を演じ続けてきたまま人生が終わること、だな」
言いながら意識がもうろうとしてくるのを感じる。
すでに身体の感覚もない。
いよいよ最期の時がやってきたらしいことを理解する。
「そんなボクの家族とフィーマたちのママが重なって見えたんだ。フィーマ――」
フィーマはじっと環士を見ている。
環士はそんなフィーマへ無理に笑ってみせようとするが、思うような表情が作れないことに気付いて諦める。
「――フィーマはボクみたいな後悔をするなよ」
そして、付け足す。
「じゃあな。ありがと」
それきり環士は動かなくなった、話さなくなった。
「……」
フィーマは無言で環士の死体を見下ろす。
「なるほどね」
その様子を自室のモニタで見ながらマリイは溜息をついた。
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