第10話 前略、地獄の底から(その4)

※当エピソードと次エピソードについては、長子で毒親育ちの方は不快感を催す恐れがあります。


 環士の父は職人だった。

 腕は確かで人柄もよく、周囲から慕われていた。

 しかし、それは“外の顔”だった。

 家族に対しては常に不機嫌な顔しか見せず、ささいなことで環士、環士の母、そして、環士の弟を怒鳴り散らし、殴った。

 まるでそうすることが家長のつとめであるかのように。

 そうすることでしか自分の威厳を示すことができないかのように。

 母はそんな父を支える専業主婦だった。

 正確には“支える”ではなく“隷属している”と言った方がいいかもしれない。

 じっと耐えていた。


 母にとって、けして裕福ではない家でふたりの子を育てることは大変だっただろう。

 そこで母は長子である環士に言い聞かせる。

「オマエは“お兄ちゃん”なんだから、親を助けねばならない。親の手を煩わせてはならない。甘えてはならない」

 精神的にも肉体的にも家の中だけで手一杯だった母は、また、近所づきあいに煩わされることを極端に嫌がった。

 近所に住む下級生が捨てネコを水攻めにして遊んでいたのを、環士が注意したことがあった。

 注意されて面白くない下級生は家に帰り、自分の親に“大内の上の子に虐められた”と泣いて見せた。

 その親が怒鳴り込んできた時、母は事情も訊かず環士を叱り飛ばして親子の前で土下座させた。

 怒鳴り込んできた親子の前で環士に反論の隙を与えてはならない、そんなことをすれば相手が逆上して余計にめんどくさいことになる――そんな考えからか環士を庇って反論するどころか事情を訊くことも釈明の機会を与えることすらもせず“生け贄”にすることを選択したのだ。

 そんな母だから、逆に幼い環士が上級生に虐められても教師から理不尽な叱責を受けても、けして先方に抗議することもなかった。

 環士にさえ我慢させればめんどくさい近所とのもめ事を回避できるのだから。


 土下座の一件以来、味を占めた下級生から環士はつきまとわれるようになった。

 下級生は環士に罵声を浴びせて石を投げる。

 それに対して環士が怒れば、下級生は自分の親に“なにもしてないのに虐められた”と泣いてみせる。

 その親が怒鳴り込んでくると環士の母は事情も訊かず環士に土下座させる。

 それを見て下級生が嘲笑する――それが近所のこどもたちにとって定番の“おたのしみ”になったのだ。

 そんな風に近所とのトラブルに煩わされるのを避けたい一心から一度も環士をかばったことのない母は、テレビのニュース番組で“裁判を控えた凶悪犯罪者の減刑を訴える母親の姿”を見て言った。

「どんな凶悪犯でも母親にとっては可愛い我が子だ。母親だけは世界中を敵に回しても我が子をかばうものだ」

 そして、横で一緒にテレビを見ている環士に言い聞かせる。

「だから親への感謝は忘れちゃいけないんだよ。子は親だけは裏切っちゃいけないんだよ。子には親を幸せにする義務があるんだよ。特に長男のオマエにはね」

 それが、一度も環士をかばったことのない母親の言葉だった。


 近所の下級生ばかりでなく、弟との関係についても同様だった。

 兄弟ゲンカになる、悪いのは弟だ、それをいくら言っても母は環士だけを叱りつける。

 弟が部屋を散らかしても“一緒にいるオマエが掃除してやったらいいじゃないか、それがイヤならちゃんと掃除するように教え諭すのがお兄ちゃんの役目だ”と環士だけを叱りつける――説教する母の後ろで、声を押し殺しながらにやにやと嘲笑う弟の前で。

 だから、ある日、いつものように散らかし続ける弟に言った。

「片付けろ。片付けないからボクが叱られる」

 弟は言った。

「叱られたらいいじゃないか。ぼくが叱られるわけじゃないし――」

 思わず殴った。

 弟は母に告げる――兄に暴力をふるわれた、と。

 母は環士を怒鳴りつける――なぜ弟を虐めるのか、と。

 環士がいくら経緯を説明しても、母は聞く耳を持たない。

「言うことを聞かないからと殴るのはいけない。イヌやネコじゃないんだ。ちゃんと言葉で教え諭してやるのが年長者というものだ」

 その母の言葉を環士は“母から叩かれたばかりの頬の痛み”の中で聞く。

 もちろん、そんな兄を弟は母の後ろから舌を出してにやにやと見ている。


 最も身近で最後まで自分をかばってくれるはずの母親から、正しいことをしているのに事情も訊かず一方的に叱り飛ばされて育った兄。

 悪いことをしても優しくかばってくれる母に育てられた弟。

 そんな兄弟が正反対の性格に育つのは当然のことだった。

 母親ですら信じられないのだから他人など信じられるはずはないと心を開かない兄と、誰とでも打ち解ける弟に。

 自ら壁を築いて誰からも相手にされない兄と、誰からも好かれる弟に。

 コミュニケーション能力を持たない人見知り気質の兄と、みんなに慕われる社交的な弟に。


 それでも、母は言う。

「オマエに厳しいのはオマエのためだ。オマエがかわいいからだ。かわいくなければ誰がしつけなどするものか。そうでしょう?」

 確かに母は厳しかった。

 特に行儀作法や学校のルールを遵守することを徹底して叩き込んだ。

 同級生たちが教師やそれぞれの親からの言いつけを守らず奔放に遊んでいる時にも、環士がそんな同級生たちのマネをすることを許さなかった。

 みんなと一緒に言いつけを破るくらいなら、言いつけを守って仲間外れになれ――それが母の教えだった。

 それもやはり環士に対してだけで、弟が言いつけを破っても叱ることはなかった。

 その結果、環士とは違って弟が学校から注意を受けることもままあった。

 その時も母は“弟が言いつけに背こうとしたらお兄ちゃんのオマエが注意するのが当たり前だ。なぜそれをしない? どうせ自分さえ叱られなければいいと思っているんだろう、そんな子はウチの子じゃない、そんな子はウチにはいらない”と環士だけを叱り続けた。

 一方で母自身は社会のルールに疎かった。

 ゴミの分別は適当で、公共の施設を使ったあとも“後始末は職員がやるものだ”と散らかしたまま帰ってくるような性格だった。

 だから、環士は気付いていた。

 厳しく言い聞かせるのは環士のためではない。

 “こどものしつけがきちんとできている素晴らしい母親である”と、自分が周囲の母親や小学校の担任教師から一目置かれたいだけだということを。

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