第10話 前略、地獄の底から(その3)
紗登子が部室で優里から和鏡を見せられてから一時間が過ぎた頃、環士は光の中にいた。
周囲を行き交うざわざわとした気配に目を凝らす。
光の中にかすかなシルエットが見えた。
それはソフトボールほどの泡だった。
泡の中になにかが入っていることに気付いて顔を寄せ、覗き込む。
入っていたのは一羽のカラスだった。
改めて周囲を見渡す。
カラスの入っている泡を視認したことで視覚が慣れたのか、いくつもの泡が漂っているのが見える。
泡のひとつひとつに収まっているのは、魚だったり、昆虫だったり、獣だったり。さらには恐竜だったり、三葉虫だったり、アンモナイトだったり――。
あらゆる時代の様々な生物を包んだ泡が周囲を浮遊していた。
「環士」
名を呼ばれた気がした。
「環士」
もう一回。
「環士っ!」
いつの間にか閉じていた目を開く。
無数の泡が浮かぶ光の海から一転して、そこはどんよりとした泥の中のような空間だった。
環士は、その中空に仰向けの状態で静止していた。
ここはどこだ。
ここはなんだ。
不明瞭な意識で考えを巡らせながら身体を起こそうとするが――身体が動かない。
いや“動かない”というより“重い”といった方が正確かもしれない。
力を込めればゆっくりとではあるが動かすことができる。まるで高粘度の液体に包まれているかのように。
そこへ――
「起きたか」
――掛けられた声に、荒い息をつきながらじりじりと顔を向ける。
「バカなヤツだ」
ようやく向けた目線の先で、仰向けの環士を見下ろすようにフィーマが立っていた。
「ここって一体……?」
「
「ぬ……ま?」
フィーマがぐるりと周囲を見渡しながら続ける。
「生物が死ねばその身体は他の生物の餌となり、捕食した生物の体細胞やエネルギーとして転生する。捕食した生物の身体やエネルギーになれなかった分は排泄物として土に還り、植物や微生物を育み、食物連鎖を支えるという形で生き続ける。一方で魂は肉体を離れたあと一箇所に集まり、そこで溶けて錬成されて新たな命の源素となる。ここがその魂の集まる所だ」
「……」
環士は反応せず、じっとフィーマを見上げている。
その様子にフィーマが声を掛ける。
「聞いているのか?」
「いや、フィーマって下から見るとすごいカッコウなんだな」
慌てたフィーマがハイレグショーツに覆われた下腹部を押さえて飛び退く。
「見るなっ」
その動きから身体が重いのは環士だけらしい。
しかしフィーマはそれ以上離れようとはせず、じっと環士を見ている。なにか言いたげな目で。
「……」
環士もじっとフィーマの言葉を待つ。
「……」
しかし、静寂だけが続く。
しばらくそうやって互いに黙り込んだあと、静寂を破ったのは環士の方だった。
「……ごめんな」
フィーマが首を傾げる。
「なにがだ」
「ボクが助かるようにママにとりなしてくれたんだろ? 裏切ることになっちゃって。ごめん」
仰向けのままで謝る環士に、フィーマは“ふん”と顔を逸らすと――
「礼には及ばん。環士とは仲間同士だからな」
――どこかで聞いた言葉で返す。
「以前、ママに頼んでくれた借りを返しただけだ」
その言葉に環士は部屋で磔にされていたフィーマを思い出す。
フィーマは顔を逸らせたまま、いつにない早口で続ける。
「ただ、それだけだ。他の感情は一切ない。勘違いするな。たとえ環士がサトコ――」
「は?」
不意に出た思わぬ言葉に耳を疑う環士に、フィーマは一瞬“あ”という表情で口をつぐむがすぐに平静を装う。
「――なんでもない。気にするな、忘れろ」
改めて環士を見下ろす。
「そんなことを気にしている場合じゃないだろ。このまま魂が溶けてなくなるんだぞ。怖くないのか」
「なんか意識がはっきりしないんだ。感情も。“怖い”ってのがどういうものなのかすらわからなくなってきてる。すでにボクの魂――ていうかボク自身は溶けつつあるんだろうな。人類絶滅へのキックオフをサポートした存在としちゃ天罰覿面だろうよ」
力なく笑ってみせる。
そんな環士にフィーマがぽつり。
「なにか言い残したことはないか」
その言葉に、環士は本当に最期の時が近づいたことを感じる。
「言い残したこと……か」
頭に浮かぶのは紗登子のこと、そして、家族のこと。
家族?
そこからの連想で気になったことを訊いてみる。
「フィーマはママが好きか」
よほど予想外だったのだろう、フィーマが一瞬だけ驚いた顔になった。
しかし、すぐに誇らしげな表情と口調で返す。
「なにを言い出すのかと思ったら……。ママは偉大な存在だ。好き嫌いなど超越した、な」
「そうか……。ママはフィーマをどう思ってるんだろうな」
「どういう意味だ?」
「ママはすごくテレインをかわいがってるように見えた。ケガひとつ負わせたら承知しないぞってくらい」
「当然だ。それが愛情だ」
「テレインへの愛情じゃなく、もしかしたら自分の身体にするつもりだったから……てことはないか」
フィーマの表情が一変した。まるで大切なものを汚されたかのように。
「ふ、ふざけるなっ」
激昂するフィーマに、環士は淡々と続ける。
「否定できるのか? 否定できる根拠はあるのか?」
「ならば訊くが。環士がそう考える根拠はあるのか?」
「……」
思わず黙り込む環士だが、根拠がないわけではない。根拠はあるが、口にすることに抵抗を覚えただけで。
しかし、少し考えて“最期だし、言っていいか”という気分になって、正直に答える。
「ボクの親がそうだったからだよ」
そして、語り始める。
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