第7話 折檻娘(その4)

 次の瞬間、環士の体は寮の自室にいた。

「戻った?」

 周囲を見渡して自分の部屋に突っ立っていることを確かめた環士は、緊張から解放されたゆえか全身から力が抜けるのを感じた。

 そのまま床にへたりこみそうになるところを慌ててデスクの椅子を引き寄せ、倒れ込むように腰を下ろす。

 そして、背もたれに身体をあずけ、だらりと両腕を下ろして天井を見上げる。

 フィーマは解放されたのだろうか? もし解放されたのなら明日は学校へ来るのだろう。

 いや、明日まで待つ必要はない。

 フィーマが解放されればドルド丸捕獲作戦が再開されることから、今夜にも環士自身が新たな混成体として学校へ召喚されるはずなのだから。

 がくりと机に伏せて、ママとの最後のやりとりを思い出す。


「必ずドルド丸を連れ戻すことを約束できるか」

「もちろんです。フィーマさえ解放してもらえれば」

「もし、できなければオマエにもフィーマと同じ責め苦を受けてもらう。その覚悟はあるか」

「受けましょう」


 考えもなく答えたとはいえ、よくもあんな約束をしたものだと少し震える。

 その根源にあったのはマリイの性格制御による“フィーマを助けたい”という仲間意識からの気持ちなのだろうが、環士自身の感情を源とするもうひとつの大きな動機があった。

 それは、自分を騙したドルド丸への報復を果たすため、である。

 ドルド丸あいつを放置したら、この先も紗登子を利用するに違いない。そして、その関係を三人が知ったら紗登子に危害が及ぶ可能性が高い。

 それを避けるためにはドルド丸捕獲作戦を早急に終わらせねばならない――紗登子が本格的に巻き込まれる前に。

 その時、不意に聞こえたドアをノックする音に思案が止まる。

 誰だ?

 フィーマやマリイなら室内のロッカーから現れるはずでドアをノックすることはない。

 思えばそのふたり以前にこの部屋を訪れた者は存在しない。離れて暮らす身内ですらも。

「身内……か」

 そこまで考えて、自虐的な笑みが漏れる。

 しかし、まだ続いているノックの音に我に帰る。

 席を立ち、扉の向こうにいる“謎の相手”に緊張しながら答える。

「はい?」

「帰ってるかい?」

 環士は、ほっと息をつく。

 聞き覚えのある声の主は寮の管理人だった。

「夕食を済ませてもらえんかね。あとひとりだけなんだがね」

 ポケットから取り出したスマホの表示時刻はそろそろ二十一時になろうとしていた。

 食堂は最大延長が二十二時だが、そこは学校の寮ということで十九時までには――遅くても二十時までにはすべての寮生が夕食を終えるのが常だった。

「は、はい。すいません。すぐ行きます」


 深夜――。

 期待と不安と緊張で待ち構えていた環士の視界が揺らいで肉体の変容を感じる中で、その身体は夜の生徒玄関に召喚された。

 目の前にはマリイ、テレイン、そして、どういう気まぐれか夜の校舎では初めて髪をアップにしたフィーマがいる。

 マリイはいつも通り不敵な笑みを浮かべて、テレインもいつも通りキラキラと環士を迎える。

 ただ、フィーマだけは髪型のせいもあるのだろうがいつもとは違う雰囲気で、なにか言いたそうに環士を見ている。

 一方で無事にそろった三人の様子に自分でも意外なくらい安心した環士は、フィーマに声を掛けようとするがどう掛けたらいいかわからない。

 とりあえず見たまま、感じたままの言葉を投げかける。

「少しやせたんじゃないか?」

 フィーマが憮然と答える。

「うるさい……大丈夫だ」

 その様子に、環士はいつものフィーマであることを知り、改めて安心する。

 そこへマリイがフィーマにささやく。

「他に言うべきことがあるんじゃねえの」

 フィーマは、しかし、じっと環士を見つめたまま動かない。

 次第に紅潮していく頬にテレインが笑う。

「フィーマが真っ赤だー」

 そして、マリイを見上げる。

「ねえねえ。フィーマって環士が好きなの?」

 マリイが答える。

「さあな。手術室以来、たまに様子がおかしい時があるけどな」

「手術室って? ねえ、教えてよー」

 環士はといえば、いつまでも見つめ合っていてもしょうがないと声を掛ける。

「礼には及ばないよ。フィーマとボクは仲間同士だからな」

「それだけかあ?」とマリイが笑う。

「そーだよ。せっかく今夜のフィーマは環士がときめいた“髪上げバージョン”にしてきたってのにー」とテレインが不満げに口をとがらせる。

 その言葉に環士は部室で一度だけ髪を上げてきた風羽子を思い出す。

 そして、テレインへ返す。

「ときめいてないってのに」

 同時にマリイが首を傾げてつぶやいた。

「妙だな」

 その目線はずっと奥の廊下を見ている。

 そこには職員玄関があり、セキュリティシステムの操作盤がある。そして、その操作盤から緑の光が漏れているのがかすかにわかる。

「なにか……おかしいのか?」

 問い掛ける環士に、マリイは答えずマウントディスプレイを装着する。

「やっぱりか」

 つぶやいてディスプレイを下ろす。

「学校のセキュリティシステムが“休止”になってる」

 環士は改めて奥の廊下へ目を凝らす。

 今、漏れているのは緑の光だが、昨日までは赤い光が漏れていた気がする。

 昼間の記憶をたどれば緑の光が“休止”を、赤の光が“稼動”を表していた。つまり、本来なら今は“稼動”になっていなければならないはずのセキュリティシステムが“休止”になっていることを表している。

 環士が呆れ口調でつぶやく。

「最後に帰った教職員ヒトが忘れたのか。テキトーだな」

 マリイは納得しない。

「つい先日、不審者騒動があったのにか」

 環士が返す。

「田舎なんてそんなもんだろ。それより、今日のボクはなんなんだ」

 言いながら、さっきからちらちらと視界を横切るノイズに眉をひそめる。

「ああ、まだ見てなかったな」

 マリイがいつものスタンドミラーを取り出して環士の前に立て掛ける。

 映っているのはこれまでのイカやウツボやカニとは明らかに違う、ヒト型ではあるもののぼんやりとした幽霊のような姿だった。

 改めて自身の手に目を落とす。

 その手は鏡の中の姿と同じくぼやけているが、目を凝らすと細かいボウフラのようなものがまとわりついて実体を覆っているせいだとわかる。

 これまでのパターンからするとこれも海の生き物なのだろうが、環士にはまったく思い当たる生物がいない。

「こんな生き物いたか?」

 怪訝な表情でつぶやく環士に、マリイが不敵な笑みで答える。

「今夜の混成体は最弱にして最強――赤潮男だ」

「赤潮?」

 訊き返す環士の頭に教科書で見た“汚れた海の写真”が浮かぶ。

 マリイがミラーをバッグに収めながら答える。

「要するにプランクトンの集まりだ。さっきから全身を包んで周囲を漂ってるのはプランクトンだよ」

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