第22話

「悲しくて、恥ずかしくて。この学院ではじめて優しくしてくれたのがあなただったから。それなのに、そのあなたも私を騙してたんだって」

「ごめん」


 アルドリックの謝罪に無言で頭を振り、彼女は十数分前の事実を明かした。


「そう思ったら、私の影から出てきたんです」

「そこまで深化していたか」


 エリスの声音の深刻さに、思わず彼を仰ぎ見る。エリアスはゾフィアを見据え、神妙に言葉を継いだ。


「国家魔術師として、この学院の卒業生として、忠告する。宮廷で正しい対処を受けろ。自分の感情をコントロールする術を学べ。化け物を野放しにするな。力ある人間の義務だ」

「力ある人間の……」


 聞こえの良い言葉尻を繰り返したゾフィアに、彼が畳みかける。


「悲しくて恥ずかしかったと言ったが、それだけじゃないだろう。騙したと思ったアルドリックにも、アルドリックと近しい俺にも、嫉妬して、腹を立てたんじゃないのか」

「そんな、私」

「いなくなればいいと一瞬でも思わなかったと誓えるか」

「クララさんたちはいなくなったらいいとたしかに思ったけど、でも」


 でも、と縋る調子で否定を紡いだ最後。だって、とゾフィアは言った。消えそうな声だった。


「だって、……優しくしてくれたんだもの」


 誰彼構わず良い顔をするからだと言いたげなエリアスの視線に、たまらず床に目を落とす。必死にうごめく黒い靄は、千々に乱れた彼女の心そのものに見えた。


「……ごめんなさい」


 小さな小さな声が、部屋の空気を震わせる。その声が満ちるにあわせ、「黒狼」が崩れていくのがわかった。

 粉塵のように消え、もうかたちづくることはない。タン、という涼やかな音で、エリアスが杖の先で床を叩いたことも知った。どういった意味があったのか。ただ、もうこの空間に「黒狼」はいなかった。

 顔を上げ、ゾフィアを見る。彼女は再び下を向いてしまっていた。身体の横でぎゅっと固く拳が作られている。長いようで短い沈黙のあと、彼女の声が響いた。


「私の弱さだったんですね」

「まったく気づいていなかったとは言わせたくないが」

「だって」


 うつむくゾフィアの表情は見えない。高ぶる感情を必死に抑えるように、彼女は繰り返した。


「……だって」


 はぁ、と泣きそうな吐息を吐いて、とうとうゾフィアが座り込む。両手で顔を覆い、彼女が振り絞った。


「あなたくらい強かったらよかった」


 エリアスはなにも言わなかった。ただ静かにゾフィアを見下ろしている。


「あなたくらい強くて、もっと才能があったら、そうしたら、私だって」

「違うよ」


 迷った末、彼女に近づいて、アルドリックは声をかけた。しゃがみこんだ彼女に合わせて膝を折り、細い肩に手を伸ばす。


「彼はたしかに強いし、天才でいろいろなものも持っているけど、それだけじゃない。彼は彼として精いっぱい努力しているんだ。この学院での理不尽も呑み込んだ」


 そこまで告げてから、もちろん、と言い添える。


「呑み込まれたきみが弱かったとは思わないけど、でも、彼が生まれたときから強かったわけでもないよ、きっと」

「え……」


 両手が外れ、瞠目した瞳と目が合った。膜が破れ、涙が一筋、幼さの残る頬を伝う。


「そのことを、僕は昔から知っている」

「……アルドリックさん」

「誰が否定しても、彼自身が否定しても、僕は絶対に肯定する」


 自分自身にも言い聞かせるように、アルドリックは言い切った。本当は、昔の自分が、そう言うべきだったのだろう。この子が全幅の信頼を寄せていたころの、自分が。


「彼はそういう人で、僕たちと同じ人間だ」


 だから、きみも大丈夫。やり直すことはできる。根拠のない励ましを胸に秘め、アルドリックは子どものように泣く彼女を見守った。

 そっと立ち上がり、突き刺さるもうひとつの視線を正面から迎えれば。すっかりと大人になった彼が、呆れたような、なんとも言い難い顔を自分に向けていた。

 彼の表情をどう解釈すべきか、わからないまま。労わるように彼の背中に手を伸ばす。彼女たちのこれからに、少しでも救いがあるように。自分たちがその手助けを少しでもできるように。

 彼らの母校に、アルドリックは祈りたい気持ちだった。

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