第5話
「おや、アルドリック。きみ、今日は早帰りだったのでは?」
「バナードさん」
この角を曲がれば文書課というところで行き合った相手に、アルドリックは笑顔をつくった。自分と同じこげ茶の髪に、怜悧な印象を放つ銀縁の眼鏡。ひょろりと背の高い相手を見上げ、戻った理由を釈明する。
「そのつもりだったのですが、クレイさんに渡したいものがあって。クレイさん、席に戻っていらっしゃいますか」
「彼女なら席を外していましたが。代わりに渡しておきましょうか」
「ありがとうございます。でも、落とし物なので。違っていたら申し訳ないですし、僕のほうで確認してみます」
「そうですか」
思案するように顎に手を当てたバナードが、腕時計に目を落とした。ちらりと見えた文字盤は十四時五十五分を指している。
「この時間なら、彼女は給湯室にいるかもしれません」
「え?」
「構わないと言っているのに、私の仕事の補佐をしているからと、いつも紅茶を用意してくれるんですよ。本当に構わないんですけどね」
「そうなんですね」
二回も「構わない」と言ったことが、無駄を嫌う彼らしくなく、照れているようで新鮮だ。彼のような人でも、彼女の親切はこそばゆいのだろうか。
意外な一面にほっこりとした気分で、にこりとほほえむ。なんとか三度目の正直にもなりそうだ。
「顔を出してみます。教えていただいてありがとうございました」
では、と見慣れた鉄仮面で片手を上げたバナードと別れ、気を取り直してエリアスに声をかける。
「じゃあ、最後。給湯室に行ってみようか。もし会えなかったら、明日の朝、聞いてみることにするよ」
「……はじめからそうすればよかったのではないか?」
「いや、だって、なくなったことに気づいたらびっくりするだろ? できる限り早めに返してあげないと」
付き合わせたことは悪かったと思っているものの、それはそれだ。言い切って、アルドリックは足を速めた。
辿り着いた給湯室の入り口のカーテンを、ひょいとかき分ける。人影はひとつ。背中で揺れる金色のポニーテルは、間違いなくクレイのものだった。
「あ、いた、いた。クレイさ――」
「ア、アルドリックさん!?」
呼びかけに、スカートのポケットを漁っていた彼女の肩が大きく跳ねる。振り向いた真っ赤な顔に、アルドリックは「えっと……」と戸惑った笑みを刻んだ。
「すみません、驚かせてしまったみたいで」
「あ、いえ、こちらこそ。過剰に反応してしまって。まだお帰りになってなかったんですね」
「えっと、これ」
眉を下げたまま、小さな瓶を取り出す。丸くなった瞳は、彼女の持ち物であることをアルドリックに告げていた。よかった、と頬を緩める。
「やっぱり、クレイさんのだったんだね。書類をお願いしたあとに、足もとに落ちていることに気がついて」
「あ、……ありがとうございます」
スカートのポケットを漁っていたのは、小瓶を探してのことだったのかもしれない。差し出した小瓶を、彼女は両手で握りしめた。
「気に入っていた香水だったんです」
「そうなんだ」
彼女の背後の台には、トレイに乗ったティーカップがある。香水じゃないよね、と指摘すべきだろうか。悩んだものの、アルドリックは「よかった」と笑うことを選んだ。忍びなかったのである。
――褒められたことではないけど、でも、もう使わないかもしれないし。
こういうものは、一度「待った」が入ると、冷静に返るものだ。
それに、「眠り姫の毒」の騒動以降。流しの魔術師に対する抜き打ち検査が増えたとエミールから聞いている。
おそらくは、気の持ちよう程度の効果しかない薬だろう。無論、エリアスが言うように、粗悪品を引く可能性はあるだろうが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます