エピソード2:人魚姫の涙

第1話

「おい、そこの」


 ぞんざいな声に、薬草部の前の廊下で人待ちをしていたアルドリックはぱっと顔を上げた。

 見習いの年はとうに過ぎているのだが、幼く見える容貌が災いし、他部署の年かさの職員によく呼び止められるのだ。

 まぁ、べつに、とんでもない厄介ごとでなければ構わないのだけれど。そう、例えば。偏屈な天才魔術師の面倒を押し付けるような案件だとか。


 ――今となっては、それも構わないんだけどね。


 ノイマン家の一件を終え、特殊案件の解決にあたるチーム――と言っても、ふたり編成だが――に任命され、仲良くやっていこうと決めたばかりである。


「はい。なんでしょうか」

「この書類を庶務に持っていってくれ。適当に下の人間に渡したので構わない」

「承知いたしました」


 内容などは向こうが承知しているということだろう。愛想良く背中を見送って、受け取った書類を整えていると、背後で薬草部のドアが開いた。


「ああ、お疲れ」

「なんだ、おまえは。この一瞬で雑用を押し付けられたのか」


 労わったアルドリックを一瞥し、エリアスは青い瞳を眇めた。彼が立ち去った方向を見やり、嫌そうに吐き捨てる。


「誰だ、あいつは」

「ああ、あの人は財務の方で」

「そんなことはどうでもいい」

「ええ、きみが聞いたんじゃないか」


 横暴だなぁ、とアルドリックは眉を下げた。宮廷になんぞ誰が行くかとごねるのを宥めすかせて連れてきたので、拗ねているのかもしれない。

 それとも、特別チームの辞令の最後。薬草部の上長が「少しふたりで話を」と言うのを止めず、先に部屋を出たことが、腹に据えかねたのだろうか。


「なんで、おまえが引き受けているんだ」

「ええと、まぁ、頼まれたからなんだけど。なんというか、よく頼まれるんだよね、僕。たぶんだけど、そういう顔なんだと思うよ」


 はは、と笑ったアルドリックに、エリアスはひとつ溜息を吐いた。


「お人好しもそこまで来ると病気だな。雑用なら見習いに任せたらいいだろうに」

「いやぁ」


 その見習いと間違われている可能性は、あまり明かしたくはない。


「まぁ、本当に急ぎの用事があったらきちんと断るし。そうじゃなかったら構わないよ。誰かがやる必要のある仕事だからね。でも、きみを付き合わせることは忍びないな。薬草部の中で待たせてもらう?」

「必要ない」


 よかれと思った提案を、エリアスはきっぱりと取り下げた。


「おまえの必要な仕事は俺の世話だろう」

「……まぁ、それはそうなんだけど」


 あいかわらずきみは偉そうだね、という台詞はもごもごと口の中で呟く。一級魔術師だから偉そうというわけでなく、アルドリックの腰ほどの背丈だったころから常に偉そうなのだが。


「じゃあ、ついてくる? 庶務に行くだけなんだけど」

「ああ」

「まぁ、ちょうど良い機会なのかな。きみ、ほとんど宮廷に顔を出さないだろう。これからは来ることも増えるだろうし、内部の地理に明るくなってもいいのかもしれないね」

「おまえが毎度案内をすればいいだろう」


 なにを言っているんだとばかりの澄んだ瞳に、アルドリックは再三の愛想笑いを浮かべた。意味もなく書類を抱え直す。

 それは、まぁ、特別チームの仕事であれば、自分が案内をすればいいと思うが、そうでない場合もあるだろうに。


 ――なんというか、薬草部の上長、この子にもっと宮廷に来てほしそうだったんだよなぁ。


 薬草部に籍を置いてほしいと考えているのかもしれない。この子が頷くとは思えないけどなぁ、と。苦笑いの気分で、アルドリックは話を変えた。同僚の女性からちらりと聞いた世間話である。


「そういえば、今度は惚れ薬が流行ってるらしいよ」

「どいつもこいつも懲りないな」

「まぁ、それは、ほら、ロマンというか。……いや、僕は、グレーのものに手を出すのはよくないと思うけどね」


 話題の転換に失敗した気しかしない。はは、と三度の笑みを刻む。


「ええと、ほら、あそこに書庫のプレートが出てるだろう? 地下には魔術書の蔵書があるんだ。きみが利用することもあるかもしれないね。――と、ああ、クレイさん」

「アルドリックさん」


 廊下で行き会ったクレイに声をかけると、彼女はにこりと立ち止まった。クレイ・アーバン。見目良し、性格良しのアルドリックが所属する文書課のマドンナだ。

 こんにちは、とエリアスにも頭を下げたクレイが、ひとつに結った金色の髪を揺らす。


「薬草部での顔合わせが終わり次第、お休みを取ると言ってたのに。さては、またお仕事頼まれたんでしょう」


 軽く揶揄う調子に、アルドリックも同調した。


「そう、そう。財務のヴァルターさんに庶務に持っていくよう頼まれちゃってね。渡したら帰るつもりだけど」

「代わりますよ。ちょうどそちらのほうに行くところでしたから」

「え、でも」


 悪いよ、と断ったのだが、クレイは笑って書類に手を伸ばした。


「アルドリックさんにはいつも助けてもらってますから。魔術師殿をお待たせするわけにもいきませんでしょう?」

「……じゃあ、お願いしようかな。誰に渡してもいいという話だったので。すみませんが、よろしくお願いします」

「任せてください。では」


 良いお休みを、と。朗らかに手を振ったクレイに、いい子だなぁと頬を緩ませる。恋愛感情の好きではないのだが、なんというか日々の癒しなのだ。

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