第12話
塔の窓から見える空は、もうすっかりと深い夜になっていた。室内に漂う、混ざり合った薬草の香り。においだけで種類を判別することは、もちろんアルドリックには叶わない。ノイマン家の一件を聞いたエミールは、「天才は格別に鼻も良いらしい」と笑っていたけれど。
少し離れた椅子から作業する横顔を眺め、ぽつりと問いかける。
「それを飲めば、エミリア嬢は目覚めるの?」
「おそらくは。――なんだ? おまえは、俺に失敗をさせたいのか」
「そういうわけではないけど」
誤魔化すように笑い、アルドリックは口触りの良い言葉を選んだ。
「それに、きみは失敗なんてしないだろう?」
十年に一人の天才。この国の誇る最年少一級魔術師。多少変わり者でも許されるだけの魔力を有した、祝福されし子ども。
その、かつての子どもが、考えるように黙り込んだ。
「魔術師殿?」
「俺たちの仕事は依頼人の令嬢を目覚めさせることだろう。そのあとのことは、俺たちが関与することじゃない」
「それは、本当にそうなんだけど」
「それに」
乳鉢で角を擂り潰しながら、エリアスは淡々と言葉を紡いでいく。
「目を覚まさなければ、真意を伝え合うこともできないままになると思うが」
「……そうだね」
噛み締めるように、アルドリックは頷いた。彼から目を逸らし、膝の上で組んだ手を見つめる。ミアがそうしていたように。
「たしかにそうだ」
そのとおりだと思ったのだ。あのままだと、誰も彼もが立ち止まったままになっていたはずで、そんなことは、誰も望んでいなかったはずだ。
そっと息を吐いて、顔を上げる。
「ありがとう、魔術師殿」
エリアスはなにも言わなかった。変わり者だ、子どもだ、人に関わる事案はすべて自分が引き受けよう。そんなふうに思っていたはずが、なんだ。この子のほうが、よほどしっかりとしているじゃないか。
……本当に、なにもかも敵わないな。
国家魔術師の臙脂のローブ。魔術師が使う特別な器具と、数え切れないほどの書物。乾燥ハーブに、なにかの粉末。さまざまな不思議が詰まったガラス瓶。
幼い時分のアルドリックの憧れが凝縮されたような空間の中心に、彼はいる。アルドリックに許されているのは、境界の近くで眺めることだけだ。
――あたりまえだろう。おまえが俺になれるわけがない。
隣の家に住むふたつ年下の幼馴染みは、なにごとにも動じない、強固な自我を持つ子どもだった。
だから、魔力がなかったと打ち明けたアルドリックに。きみみたいにはなれそうにないよ、と卑下の混じった羨望を向けたアルドリックに。幼いエリアスが返した答えはなにひとつ間違っておらず、正しかった。でも。静かな横顔を見つめたまま、アルドリックは苦笑をこぼした。
エリアス・ヴォルフは天才だ。だが、天才ゆえに、凡人を傷つけることがある。良くも悪くも、悪意はないのだろうけれど。
メルブルク王国は、十になる年に魔力を測定する検査がある。魔力を持つ子どもは十人にひとり。その中のさらにごく少数の天才が、魔術学院に進学する資格を得る。
魔術師に憧れていたアルドリックは、ほんの少しでも魔力があれば、夢を叶える努力を続けようと決めていた。けれど、ほんのひとかけらの魔力も自分にはなかったのだ。
――十年以上前に割り切ったはずだったのになぁ。
エリアスが悪いわけではないし、宮廷の文官として働く今に十分に満足しているつもりだ。
そのはずでいるのに、彼の顔を見ると、幼い劣等感が擽られてしまう。だから、何年も会おうとしなかった。連絡を取ることもしなかった。連絡が来ることもなかったから、彼にとっての自分はその程度なのだと思っていた。
――それなのに、なんで僕の名前なんて出すかな、きみは。
おかげで、みっともない感情を思い出してしまったではないか。
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