第10話

「大切な方が倒れる場面を目撃して、取り乱すなというほうが無理な話です」

「では、なぜ、そのあとも口づけを試さなかったのだと思いますか? ご覧のとおり、お嬢様とふたりきりになるタイミングはいくらでもありました」


 それに、と彼女は言う。


「魔術師殿から毒と聞かされても、私は打ち明けませんでした」

「それは……」


 自分が口づけても目を覚まさない事態を恐れたのではないか。浮かんだ安易な想像を、アルドリックは脇に置いた。動機の中心に自分の恐怖を据える女性ではない気がしたからだ。

 打ち明けなかったことについても、あの動揺ぶりを思えば、致し方ない部分もある。アルドリックは慎重に言葉を選んだ。


「あなたは、昨日、目覚めなくてもよいとお嬢様は考えたのではないかと仰いましたよね。望まぬ結婚より、眠ったままのほうが幸せと思われたのでは」

「違います」


 彼女は目を伏せたまま、自嘲した。


「私が、ただ私のためにあのままを望んだのです」

「……え」


 予想外の回答にアルドリックは瞠目した。


「だから、包み紙も隠し持っておりました。ですが、お嬢様の命が失われることを望んだわけではありません。あなたがたが来てくださってよかったのだと思います。どうか、これでお嬢様の眠りを解いていただけませんか」


 お嬢様がお目覚めになったら、すべてはもとに戻ります。顔を上げ、彼女は明言した。

 きれいに結った髪の隙間から、小さく折り畳んだ紙片を取り出す。広げた紙片の中にあったのは、話に聞いたとおりの薄桃色の包み紙であった。

 心得たふうに近寄ったエリアスが包み紙に手を伸ばす。確認するように軽く鼻を寄せると、彼はひとつ頷いた。青い瞳がアルドリックを捉える。


「想起される調合と令嬢の症状に乖離はない。解毒薬を調合するために必要な材料も、宮廷の薬草部で揃うだろう。明日には目を覚ます」


 はっきりとした台詞に、ほっと安堵を覚えたのも束の間。エリアスは、ミアに声をかけた。


「だが、構わないのか? 解毒をすれば、おまえが言ったとおりの元通りだ。この令嬢は豪商に嫁ぐことになる」

「ちょっと、きみ」

「構いません」


 腰を浮かそうとしたアルドリックにかすかな笑みを向け、彼女はエリアスに向き直った。


「もとより過ぎた思いだったのです。婚姻が目前に迫ったお嬢様の激情に煽られ、お嬢様の大切な時間を無駄にしてしまいました。それだけのことです」

「それがおまえの決めた『そのあとどうしたいか』ということか」

「そのとおりです」


 迷いのない力強い返事だった。にこりとミアがほほえむ。


「あたりまえのことと存じますが、旦那様にはどうご報告をいただいても構いません。お嬢様が目を覚ますまで屋敷を離れるつもりもございませんので、ご安心ください。お嬢様を、どうぞよろしくお願いいたします」


 あまりの潔さに、なんだかこちらが躊躇いを覚えそうになってしまった。視線を送れば、エリアスが小さく息を吐く。


「報告の内容を決めるのはおまえではないが、解毒薬の調合については請け負った。――アルドリック?」

「あぁ、そうだね」


 呼びかけに、アルドリックは穏やかな表情を取り繕った。


「彼の言うとおりです。解毒薬の調合もあるので本日はこちらで失礼しますが……。明日でいいのかな。うん、明日、また伺います」


 では、と頭を下げる。部屋を出る直前。最後に見たミアの横顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。椅子に腰かけ、エミリア嬢をじっと見つめている。残された時間を惜しむように。

 彼女のことを報告するのは、エミリア嬢が目を覚ましたあとで構わないはずだ。そう決めて、解毒薬の調合に取りかかるとの事実のみを執事に告げ、屋敷を辞する。見上げた空は、昨日と同じ晴れやかな春の色をしていた。


 ――なんだかなぁ。


 エミリア嬢を思えば、解毒薬完成の目途が立ったことは喜ばしいことだ。報告に手心を加えれば、あのメイドへの罰も少なくなるかもしれない。

 承知していても、アルドリックの心はまったく晴れなかった。


 ――ミアさんが言ったとおり、エミリア嬢が「そのあとをどうしたいのかは、あなたが決めて」と言ったのだとして。彼女が選べる道なんて、結局ひとつしかなかったんだ。


 仮に、彼女の口づけでエミリア嬢が目を覚ましたとしても、エミリア嬢が嫁ぐ未来を変えることは不可能だっただろう。

 当主を間近で見ていた彼女たちはわかっていたはずだ。だから。……だから、エミリア嬢をそばに留める唯一の方法が、目覚めさせないことだったのだろう。

 だが、エミリア嬢の婚姻には家の存続がかかっている。その現実を無視できるほど、彼女たちは子どもでも盲目でもなかった。ほんの数日の悪夢のような幸福を経て、正しく現実に舞い戻る。

 彼女たちが選ぶほかなかった、たったひとつ。身勝手な感傷と理解していても胸が苦しかった。

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