第8話
エリアスの暮らす塔の周辺は、冷え冷えとした空気の中に清涼な気配が満ちている。善悪問わず渦巻く思惑から隔絶された場所だからだろうか。
塔を見上げ、アルドリックは初日とは意味合いの違う溜息を吐いた。
――なんだかなぁ。
くしゃりと茶色の髪を掻きやり、足元に視線を落とす。ほぼ同じタイミングで響いた扉の開閉音に、アルドリックはあわてて笑顔をつくった。
「あ、時間ぴったりだね。魔術師殿」
長い銀色の髪と臙脂のローブ。魔術兵団に所属する魔術師たちのように大きな杖は所持していないものの――エリアスいわく、あんな大仰なものは有事の際に携帯するだけで十分なのだそうだ――、いかにも天才魔術師という雰囲気がある。
何回見てもロマンがあるなぁ、と。にこにこと眺めるアルドリックに、エリアスは不審そうに眉を寄せた。
「どうした?」
「どうもしないよ。それより、今日もよろしくね」
改めてほほえみかけ、行こうか、と彼を誘う。
「進展があるといいんだけど。きみに、あまりリスクのあることはさせたくはないし――、と。嫌だな」
歩き始めても不承不承の表情を崩さないエリアスに、アルドリックはしかたなく苦笑をこぼした。本当に、変なところばかり目敏くできている。
「ちょっと寝不足なだけだよ。ノイマン家に出向くことももちろん仕事なんだけど、もともとの仕事も残っていてね。昨日は帰りが遅かったんだ」
「そうか」
エリアスはあっさりと相槌を打った。
「なら、さっさとこちらの仕事は終わらせるとするか」
「ちょっと」
額面どおりの気遣いと受け取ると、とんでもない事態を引き起こしかねない。アルドリックはぎょっとして釘を刺した。
「そのほうが話が早いとかなんとか言ってたけど、頼むから尋問みたいな真似はしないでくれるかな」
「なぜだ」
「正論が正しいとは限らないからだよ」
「正しいから正論というのだろう」
「いや、それは、まぁ、そうなんだけど。そうじゃなくて」
本当に、きみはあいかわらずだなぁ、と言い放ちたい衝動を堪え、諭す調子で続ける。自分が口を出すことではないのかもしれないが、言わずにおれなかったのだ。
「正しいことが傷つけることもあるからだよ」
「……」
「きみの言いたいことはわかるし、間違ってるとも思わない。でも、相手も人である以上、伝え方というものがあるんだ。だから、そこは僕に任せてくれないか」
黙りこくったエリアスに、アルドリックは意識して声音を和らげた。
「まぁ、もともと、それが僕の役割ではあるんだけどね。きみの仕事は、お嬢様の解毒薬をつくること。僕の仕事は、きみが専念できるようにサポートすること」
「そうだな」
素直な返事に、ほっとして頷く。ノイマン家のお屋敷は、もうすぐそこだ。
幼い印象の強かったエミリア嬢の寝顔と、蒼白だったミアの横顔。覚えたやるせなさに、アルドリックはそっと手を握りしめた。
――ノイマン家の令嬢のことを詳しく聞こうとしたら、どうにも様子が怪しくてな。死人が出るぞと脅したら、半泣きで吐きやがった。なにがお嬢様学校だ。一部と思いたいが、学内でとんでもないことをしてやがる。
昨日の残業中。アルドリックのもとを訪れたエミールの表情は、いつもの愛想の良さを捨て去った険しいものだった。彼の妹のニナ嬢いわく、「眠り姫の毒」を売っていた流しの魔術師が姿を消したあたりから、女学院内の一部で類似品のやりとりが始まったのだそうだ。
小瓶の中身を粉末に変え、色とりどりの紙で包んだもの。お菓子のような見た目のそれを、彼女たちは「秘密のキャンディ」と呼ぶことにしたのだという。
――「眠り姫の毒」より安全な、お守りみたいなもの、という認識だったらしい。馬鹿としか言いようのない話だが、おおもとの伯爵令嬢いわく「安全」だそうだ。
面白半分で、お抱えの魔術師に作らせたらしい、とエミールが吐き捨てる。彼女たちにとっては遊びの延長でも、国家魔術師の彼からすれば、正しくとんでもないことだったのだろう。
秘密で、ほんの少し刺激的で、でも、危険のない遊び。そのはずだった前提は、ノイマン家の令嬢が目を覚まさなくなったという噂で崩れることになった。彼の妹が真っ青になったことも無理はない。
「眠り姫の毒」に関しても言えることだが、百ある薬のうち九十九が無害でも、残りひとつが劇薬である可能性は捨てきれない。グレーとは、そういうことだ。エミールは言う。
――とは言え、ノイマン家の令嬢は小瓶を飲んだという話だったからな。彼女の薬の出どころは、学外である可能性が高いわけだが。
そうだね、と。アルドリックは静かに相槌を打った。
――とにかく。女学院のほうは、うちから確認を取ることになった。まぁ、父親がこぞって揉み消そうとするだろうが。
諦め半分というふうに嘆息し、彼はニナ嬢から聞いたというもうひとつを明かした。
――ノイマン家の令嬢については、ミアというメイドに話を聞いたほうがいい。彼女がそのメイドにご執心だったことは、親しい人間のあいだでは周知の事実らしい。ノイマン家の奥方は後妻だそうだから、屋敷内のよりどころだったのかもしれないな。
そうだね、とアルドリックはもう一度同意を示した。すべて想像の域を出ない話だ。だが、もし。エミリア嬢が「眠り姫の毒」でなく、「秘密のキャンディ」を所持していたとしたら。ありもしない小瓶をみなが探していたとしたら。薬を包んでいた紙をミアが隠し持つことは容易かっただろう。
この情報をはったりとして使うこともできるのかもしれない。改めて身体を調べる方法もあるのかもしれない。けれど、同じ切り札にするのであれば、もうひとつの情報を使いたい。強硬手段に訴えるのは、そのあとだ。そう決めて、アルドリックはノイマン家の門を叩いた。
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