第22話 「Segno(セーニョ) 2」
「弦華〜? 何してんの〜?」
いつだったかカメラに追われながら何度も何度も歩いた道、そこに視線を奪われていた私——
「ごめ〜ん! すぐ行く〜!」
私はすぐにそう返事をして彼女達のもとへ向かう。
笑顔になるのは難しいことじゃない。むしろ、その方が簡単かもしれない。深刻な顔をしていたら、深刻なことを考えてしまうから。ここにいる皆はそういう私を求めていないから。そのことを実感した時、きっと私は傷つくから。
だから私は、明るく笑う。私の中のわたしを、皆の思うわたしと一緒にしないために。
「——どうしたの? さっき急に立ち止まって」
少しボーイッシュな格好をした女の子——リョウが、そっと私に尋ねてくる。
——ああ、やっぱりこの女の子は、人のことをよく見てるんだなと思う。
「……なんでもないよ!」
けれどそれでも、私はやっぱり笑ってた。
*
「——ヤバい既読がつかない!」
日曜日の十六半時。俺——
およそ五ヶ月ぶりとなる『秀叶』としての演奏、しかも初のライブ配信ということもあって、配信開始の二時間前である十六時に、『秀叶』のツイッターアカウントで配信の予告ツイートをした。それと同時に、この配信を一番見てほしい人である弦華に『絶対見てくれ!』という旨のラインを送ったのだが、三十分経っても既読がつかないことに、俺はかなり焦りを感じていた。
「——まずいよ秀叶くん、いま弦華ちゃん、友達と一緒に
「マジか、よりにもよって友達と……。出来れば一人の時に見てもらいたいのに……」
「弦華ちゃんの家、町田からだと四十分くらいかかるはず……。配信開始まであと一時間半くらいだから、あと一時間以内に弦華ちゃん達が解散しないと、ちゃんと静かな場所では見てもらえないかも……」
「くっ……! ……こうなったら、多少迷惑かもしれないがもう電話して——」
——ポポポ ポロポ ポポポ ポロポン。ポポポ……
弦華とのトーク画面を開こうとした瞬間、隣から通話の発信音が聞こえてきた。
「……絵梨歌?」
「私がかけるよ。歌で伝えるより前に電話で会話なんかしちゃだめ。これは私の役割」
絵梨歌ははっきりとそう言って俺とスマホを手で制した。
「——あ、出た。もしもし、弦華ちゃん?」
『絵梨歌……? どうしたの急に、珍しいね』
スピーカーモードになったスマホから、少し控えめな弦華の声と賑やかな向こうの店内の音が聞こえる。
「弦華ちゃん、今どこにいるの?」
『え、今? 今は……、リョウとかカレンとかと町田にいるけど……』
「今すぐ解散して、家に帰って」
『——え?』
「え、ちょ絵梨歌⁈」
突然のはっきりとした物言いに、俺もつい口を挟んでしまう。そんな俺に、絵梨歌はすかさず視線で訴えてくる。それで俺はそれ以上何も言えなくなってしまった。
——その顔には、何か強い決意みたいなものがあるように感じたから。
『え? 絵梨歌、それってどういう……』
「——秀叶くんがライブ配信をするの。シンガーソングライターの、『秀叶』として。一時間半後、十八時から」
『——っ‼︎』
電話越しに、弦華が息をのむ音が聞こえてくる。
「……こんな役割、本当は不本意だけど。——でも私は、自分の小さな葛藤よりも秀叶くんの願いを大事にしたいから……。だから絶対、見なよ弦華ちゃん‼︎ 一分でも遅れたら許さないから‼︎」
『——っ、うん! ありがとう絵梨歌‼︎』
「絵梨歌……」
通話が終わり、俺は絵梨歌に声をかける。
絵梨歌はパッとこちらに顔を向けて、フッと笑った。
「……さ、あとはやるだけだよ、秀叶くん」
それはとても晴れやかな、すっきりとした笑顔だった。
*
「——ごめんみんな! 私帰るね!」
「え⁈ 弦華⁈」
詳しい事情も話さず、戸惑う友達とケーキ代だけテーブルに残して、私はお店から駆け出した。その足で最寄駅までの電車に乗り込み、窓の外を眺めていた。席が空いても、私はそこに座らなかった。しばらくして、私はふと自分の大胆な行動を振り返り始めた。
——みんな、びっくりしただろうな……。
心配させないように、彼女達から送られてきたメッセージに返事をする。ごまかしのための適当な嘘だ。
スマホを閉じ、私は再び外の景色を眺める。
——秀叶がもう一度、『秀叶』として歌う。
そのことを思うと、やっぱり座ってなんかいられなかった。
家に着いたのは十七時半頃、配信開始の三十分前だった。
私は荷物を置き、過ごしやすい部屋着へと着替え、配信を見るためのタブレットを準備し、態勢を整えた。それでもまだ少し時間があることに困った私は、なぜか普段はやらない全身のストレッチをして時間が過ぎるのを待った。
十八時まであと数分となり、私は『秀叶』のチャンネルを開いた。
——一体何を語るんだろう? なぜ急に、戻ることにしたのだろう——投げ出したくなるほど大嫌いだったこの場所に、なぜ……。
『秀叶』をもう一度見れることに感激しつつも、私は胸の中に不安があるのを感じていた。ながらく活動休止していた『秀叶』が人々にどんな声をかけられるのか、それを見るのが少し怖くて、それでもやっぱり楽しみだった。
——そして十八時。
チャンネルページにライブ配信中の動画が表示される。私は迷わずそれをタップした。
「——えっ!」
驚きのあまり、私は声をあげた。
そこには、ギターが映し出されていた。一人の男の子に抱き抱えられた、ギターが映し出されていた。画面には、肩から上の範囲は全て見切れる形で一人の人間が映っていて、それが『秀叶』本人であると、ライブを見にきた全ての人間がわかった。
『え、本人?』『やばっ』『初めてみた』
『イメージが破壊される……』『突然どうしたw』『説明はよ』
——などといった、否定的ともとれるコメントもあった。
そんな中、秀叶が動いた。画面の中に映る手によって、ギターが奏でられる。
『——え〜、こんばんは。お久しぶりです、『秀叶』です』
その瞬間、私はとても不思議な気分になった。
今ここにいるのはあの『秀叶』なはずなのに、遠く憧れの存在だったあの『秀叶』のはずなのに——
——なぜか今、彼をとても近くに感じる。今どういうことを考えているのか、なんとなく感じ取れる。きっと、野中秀叶としての彼と時間を共にしたからだと思う。
だからこそ、そんな彼が——私と会話をして、笑い合って、一緒に色んなことをした彼が、今こうして遠くにいることがとても不思議だった。あの、遠く憧れの存在だった『秀叶』が、私と時間を共にしてきた野中秀叶と同じ人間だと思うと、なんだかとても不思議で、
——だからきっと、私はこの配信を見ている二百人の誰よりも早く、この異変に気づいた。
『え〜、突然の配信なのに、こんなに多くの人に集まってもらえて嬉しいです』
秀叶はとぎれとぎれに挨拶を続ける。
——その声が、震えていた。手が、震えていた。再び立った視線の前で、秀叶は確かに動揺していた。緊張していた。恐怖していた。
『秀叶』の挨拶に、コメント欄が再び流れる。
『おかえり〜!』『ほんとに待ってた』『歌うの?』
わざわざ数時間前に告知された配信を見に来るような人たちだ、その多くは『秀叶』が大好きな人たちで、コメント欄も温かい言葉が多かった。
——けれど一方で、それが秀叶の呪いになっていると、今の私にはわかった。
『「夕暮れ」歌って〜』『弾き語りしてほしい〜』『なんで活動休止してたの?』
もともと、非難されていたわけではない。否定されてたわけでもない。秀叶がここから逃げ出したのは、きっと、怖くなったからだ。人に見られるということが。
——『嫌になったからだ! 人に否定されるのが! 人に意見されるのが!』
秀叶はかつて私にそう言った。秀叶が逃げ出したのは、人々による——本人達には気づけない無言の否定に苦しんだから。「人々から見られている自分」と「自分自身が思う自分」とのギャップが、秀叶にはきっと耐え難かったんだ。
だから彼は今、震えてる。再び人々の目に晒され、それをリアルタイムで感じている。
——私が心配した通り、『秀叶』はやがて画面の中で固まってしまった。
*
——俺は何をしてるんだ?
ライブ配信がスタートして、
そして静寂が訪れた。
——本当にいいのか? 俺の大切なこの新曲を、この場所に
俺の脳裏には、過去の記憶が巡っていた。過去の、傷ついた記憶が巡っていた。
自分の大事にしているものが、理解されないという感覚。訴えても訴えても、届かない痛み。それがやがて、心だけではなく身体にまで宿る。
俺は、自分の息が上がっていることに気づき始めた。
——まずい、これじゃ歌えない。
息が上手く吸えない。ピックを持つ手も震えている。これでは、せっかくの初公開がめちゃめちゃな演奏になってしまう。
……なんでライブ配信にしたんだろう。今からでも遅くない。配信は適当に終わりにして、新曲の公開についてはまた後で考えようか……?
俺はそう思って、右手から力を抜いた。
——その時、コメント確認用に置いておいたスマホに表示された、あるコメントに目を奪われた。
『歌って』
瞬間、俺のなかにあの元気な女の子の声が響いた。
——ああ、そうだった。俺は今、戦っているんだったな——彼女にもう一度、立ち上がってほしいから。
——これは、俺が自分自身を守りながら歌う配信じゃなかった。俺がこの苦しみを、壁を乗り越える姿を弦華に見せる——そんな配信だ。俺はここで、俺と——そして弦華をも苦しめている「人の視線」という掴めない敵と戦い、打ち勝ってみせる。
——そうすることによって示したいんだ。歩み続けていいんだって。ここに仲間がいるんだって。
——あの時伝えられなかったメッセージを、今、君に届けるから。
ふと顔を上げると、奥にいる絵梨歌の顔が目に入った。絵梨歌はとても心配そうに、紙を使って俺に配信を続行するかどうかを尋ねている。
俺はそんな絵梨歌に笑いかけてから、再び右手を持ち上げて、大きく息を吸い込んだ。
「……え〜、大変失礼しました! 久しぶりに皆さんの前で歌うというのと、初めての生配信ということもあって、ちょっと緊張しちゃってました。見てくれてる皆さん、ごめんなさい! もう大丈夫です!」
俺は思いっきり笑顔で、誰かさんの明るさを真似するようにそう言う。
「今日は、どうしても歌いたい歌があって配信しました。……え〜と、いいかな? 曲についての解説とかはしたくないし、他に喋ることもないので、もう歌います!」
俺はギターをかき鳴らす。
「聞いてください。タイトルは——『アノヒコノヒ』」
*
『タイトルは、「アノヒコノヒ」』
その言葉で、秀叶はギターを鳴らし、最初の和音を奏でた。
固まっていたところから突然、秀叶は持ち直した。そして今、新曲を演奏するという。
秀叶の新曲など、予想だにしていなかった。いつ書いたのだろう? なぜ書いたのだろう? それは一体、どんな意味があるんだろう……?
胸の高鳴りを感じる私の前で、秀叶は静かに歌い始めた。
——「歌って不思議だね」僕思うの
——「歌って、好きだから」君が言うの
ギターのわずかな余韻に乗せて、伴奏のない優しい声だけのメロディーによって、曲が始まった。そして伴奏が奏でられる。
——真っ黒な空、僕と君のさ 二つの嘘、一つの部屋
——臆病な僕、不安な君 それでも笑って、くれたから
あれ? これってひょっとして、なにかモチーフがある?
ううん、言葉にならないけど、私はもう直感してる。
これはきっと、私と秀叶の歌だ。
——二人が始まり、僕は駆ける
——世界にまたひとつ、忘れたくないもの
——君が叫ぶから、僕も叫ぶ
——笑ってよ君、今、さあ! この歌うたうから
これはきっと、秀叶が私を忘れないようにするための歌。秀叶のなかに、私を残してくれる歌。
私はあの日々の中で、秀叶の中に残るナニカになれたのかな。忘れたくないって思ってもらえるだけの、誰かになれたのかな……。
そう思うとなんだか嬉しくて、胸がいっぱいで、私は自分のしてきたことを誇らしく思えるような気がした。
そしてサビがくる。
——炎がゆらいだ 君がつないだ聖火
——消えることなき火よ
——僕は歌う 君の叫びのせいかな
——僕も捧ぐ君に
ああ。ありがとう秀叶。
秀叶が私の『聖火』を永遠にしてくれた。私の『聖火』が、あなたの歌になった。
私の小さな叫びが、今こうしてキラキラと輝く秀叶の助けになった。他ならない秀叶がそれを伝えてくれた。
そんな嬉しいことって、ないよ……!
ああ、ダメだって。もう泣いちゃいそうだよ。
私が胸をいっぱいにしている間に短い間奏が終わり、曲は二番に入る。
——夕暮れの空、真実の
——君の涙で、僕は気づく 変わるべきとき、今なんだ
懐かしいな……。
あの
あの時、秀叶にひどいこと言っちゃったな……。
ごめんね、嬉しかったよ。秀叶との会話一つ一つが、そのすべての時間が、私にとっての宝物なんだ。
私も秀叶の、そういう存在になれてたらいいな。
——「またね」の言葉に、僕は踊る
——世界にまたひとつ、忘れられぬ音が
——「君を連れ出す」と、君が歌う
——ならば今度はと今、さあ! この歌を聴きなよ
アハハ……、なにそれ。そんなの私もだよ。
秀叶に「またね」って言えることが、どんなに嬉しかったか。
秀叶もそう思ってくれてたの? 私の言葉が、そんなに大切なものになっていたの?
ああほんと、こんなの泣いちゃう、泣きそうだよ。
——炎が揺らいだ 君が宿した聖火
——受け継がれる炎
——声よ届け 君の勇気のせいかな
——歌うよ今ここで
ありがとう……。
私はあなたの聖火になれた、あなたを動かす光になれた——そう思えるだけで、私の心は救われたよ。
秀叶はこの歌で、私にそう言ってくれたんだよね?
ありがとう。秀叶はやっぱり、私のヒーローなんだね。
私はそうして、にこやかに笑った。
曲はまだ終わっていない。秀叶はギターを鳴らし続けている。
そうして、Cパートが訪れた。
——たとえ笑われても、気にせず歩めと
——そう言う資格を、僕は持っていない
——けど君の笑顔が、あまりに痛くて
——だから僕は歌うのさ、今! 「いいから突き進め」
え……?
待ってよ、なにその歌詞? それじゃあまるで、応援歌じゃん。
まるで私に「突き進め」って、「歌い続けろ」って言ってるみたいじゃん。
待ってよ。これは、秀叶が私を秀叶の中に刻みつけるための曲じゃないの?
これじゃあまるで、秀叶が私に、伝えたい想いを届けるために作った曲じゃん……。
待ってよ、それじゃあつまり——
サビが帰ってくる。
——炎が揺らいだ 君がつないだ聖火
——いまここにある火よ
——僕は歌う 僕は先に行くからね
——君の
私の目から、涙が流れた。
なにそれ、そんなの反則だよ。
全部私のためじゃん。最初から全部、私に向けたメッセージじゃん。
みんなからの視線なんて気にすんなって、歌い続けろよって、あの日、秀叶に情けない笑顔を見せた私への応援のメッセージじゃん。
私が心から憧れた人が、本当にちっぽけな私なんかのために、自分の一番嫌だった舞台にもう一度立ってくれた。人から何を言われたって関係ないって、「俺は突き進むぞ」って示すために、立ち上がってくれた。
「先に行く」って、「君を動かす光になる」って言ってくれた。
君にもできるって、弦華にもできるよって、そう言ってくれたんだ。
——声よ届け 僕の宿した聖火が
——君の火になればいい
そうして曲が終わった。
胸の中が熱くて熱くて、真っ赤に燃えているようだった。
そして私は、涙に濡れた顔で、くしゃりと笑った。
*
最後の和音を奏でて、俺——野中秀叶はふっと身体に溜まった熱を逃すように息を吐いた。
——歌い切った。
そのことに対する
どこまでもこの余韻に浸っていたい、駆け出してしまいたい——そう思う心をグッと堪えて、俺はこの配信を丁寧に終えることを考える。
「……え〜この曲は、僕が初めて人に届けようと思って作った曲です。自分のための曲ではなくて、想いを届けたい人を想って書いた曲、……もしかしたらそれは、結局自分のためなのかもしれないけど、……それでも僕は、この曲がその人の心に届けばいいなと思いながら、そう願いながら歌いました! ……今後のこととか全然決めてないし、わからないけど、今日は見にきてくれて本当にありがとうございました! また機会があれば会いましょう」
そう言って、『秀叶』の初のライブ配信は終わった。
顔を上げると、すぐに絵梨歌の姿が目に入った。絵梨歌は優しい微笑みを浮かべ、俺はそれに、どこか煮え切らない笑みで応えた。
——あれ? なんでだ? なぜ俺は、こんなにも不安でいっぱいなのだろう?
ここにあるべき自分——喜びと達成感に満ちた秀叶はここにいなくて、不安と焦燥感に駆られた心が言い逃れできないほどに今ここに鎮座している。
——俺の歌は、彼女に届いただろうか?
——俺の願いは、想いは、彼女の心に響いただろうか?
熱く思い描いていた瞬間——その舞台。たどり着いた場所にあった
絵梨歌は「ライブが成功して良かったね」と言ってくれた。俺は笑顔でそれに頷きながらも、本心では実感を得られずにいた。配信が終わったのに、この数日間描き続けていた瞬間を終えたのに、まだ何一つ終わっていない気がした。それでも配信は終わったという事実が、まるでこの
そんな俺の空気を察してか知らずか、絵梨歌は片付けだけ終えると「今日はお疲れ様。また明日、学校で」と言って帰っていった。
——そうして俺は、一人になった。
一人になると、先ほどまで
——俺自身が、乗り越える必要があった。その姿を見せなければ、意味がなかった。
そうして今その行動を
「……歩くか」
俺はそう呟き、情けなくも連絡の取れるスマホだけをポケットに忍ばせて家を出た。
五月、十九時前の空は四週間前のそれよりも少し明るかった。ひんやりとした空気に少し湿った香りを混ぜた大気が、月の見えない空の下を優しく流れる。
静まっていく世界に主張を強める風と靴の音を聞きながら、俺はあてもなく歩き始めた。弦華の声が聞きたかった。俺の歌に何を感じたのか、それを知りたかった。
——けれど、それを尋ねることは出来なかった。それだけはしたくない、してはいけないとすら思う自分がいた。
それはきっと、本物が欲しかったからだ。もしも俺の方から彼女に尋ねてしまったら、そこで返される答えはきっとひどく
俺が欲しい『
——俺の歌は、弦華の心に届いたのだろうか?
解消されずにいるこの緊張と不安、願いと孤独に与えられるべき「答え」は、そんな本物でなくてはならない。だから俺は、弦華に尋ねることが出来なかった。
本当は尋ねたかった。けれどそれをしたら永遠に手に入らない気がして、この曲に与えられるべきエンディングはそんなものじゃない気がして、俺は自分では埋めることのできない空白の前にただ立ち尽くすことしかできなかった。せめて、祈るように歩き続けることしかできなかった。
——あの時のようだ。
俺は場違いに、父さんが死んだ時のことを思い出した。
あの時も、どこか似たような感覚だった。これ以上ない、というほど
けれど、と皮肉にも思う。自分の中で解決することができる、亡き人を想う歌とは違う。弦華は生きている。生きているからこそ、答えを得ることができるからこそ、自分の中だけで納得させることがとても難しい。少なくとも、今の俺は彼女の心を知りたい。俺が放った叫びの、その先を知りたいのだ。
「……人に委ねるのは、なんて恐ろしいんだろうね」
口から出た言葉に、自分でハッとする。
もしも自分の歌が彼女に全く届いていなかったら……、そう考えるだけで震えるような恐怖に襲われる。彼女の反応次第で、俺は自分の歌に誇りを持てなくなる可能性だってある——少なくとも、今の俺はきっとそう感じてしまう。
こんなのは、ひどく不安定で
——なあ神様。俺はいったい、なんのためにあの歌を歌ったんだ。
誰もいない
——その瞬間、俺の左ポケットが無機質に振動した。
不思議な確信とともにスマホの画面を確認すると、そこに表示されていたのはやはり『弦華』の名前だった。
——情けないな。
ふいに紡がれた言葉に、ハハッと乾いた笑いをのせる。
——なんだよ。俺はこんなことで、たったこれだけのことでさ……
その先を言葉にするより先に、俺は画面上の『応答』をタップした。
『——あっ』
瞬間、えらく驚いた声と、その顔が画面上に表示される。自分から掛けてきたのに、そこまで驚くのはなぜなんだろう。普段よりも少しラフな格好で表情をコロコロと変える少女を見て、俺はフッと笑った。
弦華の部屋だ……。
大したものは映っていない。彼女の奥に映るのは白い壁と、クローゼットだか何かの茶色い扉。たったそれだけ。けれどそれで充分だった。それで、彼女が彼女の場所にいるのだとわかった。
ほのかに寂しさを宿した風が吹く空の下で、俺と彼女がつながっている。お互いの大地に足をつけながら、初めてこうやって話をするんだ——きっと、
『——電話、初めてだね……! そういえば……』
弦華が照れくさそうに笑いながらそう言う。
「ああ、言われてみれば……。ごめんね、今散歩してたとこでさ……。音ちゃんと聞こえてる?」
『うん! 大丈夫、聞こえてるよ! 散歩だったのか……。よかった、なんかタイミング悪かったのかなって思って』
「いや、タイミングは完璧だったよ。俺もちょうど弦華と——いや、やっぱりなんでもない。……急にどうしたの?」
焦って足元を踏み外さないように、滑って転ばないように、俺は慌てて自分を律する。
俺の問いに、弦華は目を丸くして、それからアハハッと呆れたように笑った。
『急にって、それはこっちのセリフだよ……。生配信なんて聞いてないって。私、ほんっとにビックリしたんだから』
「はは……、まあ、ね」
出口のつかえた人並みのように、譲り合いとせめぎ合いを続ける言葉達は、うまくこの口から出てこない。
そんな俺の反応を見てなのか、弦華は急にカメラをオフにした。
「えっ、なんで?」
『——ごめん! ちょっとだけ、時間をちょうだい……。ちゃんと、心を整える時間をちょうだい……。ちゃんと、素直な想いを伝えるための、準備の時間をちょうだい……』
その言葉で、俺も浮ついていた心を引き締める。
「……わかった。準備ができたら教えて」
『………………よしっ』
画面の向こうで、小さく声がした。
そして再びカメラがオンになり、まっすぐな顔をした弦華が表示された。
『……あのね秀叶、』
その真剣な眼差しに、俺も思わず身構える。すると弦華は、ひらりとマントを返すようにフッとその口角を持ち上げ、目尻を優しく下げた。
『……ありがとう。私はまた、秀叶の歌に救われたよ』
そう言うや否や、弦華は腕を画面の外に回し、そこからギターを持ってきて笑った。
『私、歌い続ける! たとえ何を言われても、私は歌を歌い続けるよ! これからも歌い続ける! ……秀叶が示してくれたようにさ、私はこの火を、熱く燃やし続けるから‼︎』
そう言って、弦華はニカッと笑った。
——それはどこまでも澄んだ、いや、それは
——どこまでも明るく眩しい、
瞬間、俺の中についさっきまで渦巻いていた言葉がよみがえる。
『——人のために歌うのは、人に届けようと歌うのは、こんなにも苦しいことなのか。こんな苦しみを伴ってまで、歌う理由はなんだ?』
『——こんなことなら、自らを救うための歌を歌っていた方がよっぽどいいじゃないか』
そうだ。歌う目的を他者に置いたら、その分余計な苦しみが伴う。リスクが伴う。
届かない苦しみを味わうくらいなら、最初から自分のためだけに歌っていたらいいじゃないか。
これは逃げではない。俺にとって、歌とはそういうものなのだから。
——ああ、それでも……‼︎
俺は今、どうしようもなく胸の奥が熱くなってんだ。
衝動のままに、飛び跳ねたくなってんだ。走り出したくなってんだ。
不安を抱えながらも、願いを込めて歌ったその先に、想いが届いたことを知った今この瞬間——
——俺はどうしようもなく、満たされちまってんだ。
『——俺はいったい、なんのためにあの歌を歌ったんだ』
ああ、そうだな。俺はその答えが欲しくて、今こうして歩いていたんだったな。
答えてやるよ、あの時の俺。苦しみの中に、光を見いだせなかったな。不安でいっぱいで、後悔すら感じていたな。こんなことなら、自分の中で完結させていればよかったって、本気でそう思ったな。
それでもな——
——ここには確かに、一人を超える喜びがあったよ。
「ハハッ……‼︎」
瞬間、電撃が身体中を駆け巡り、俺はブルっと震えた。
なんだよ、そんなことなのか。
たったこれだけのことで、こんなに満たされてしまうんだな。
——なあ、見てるか? まだ納得できないでいる俺はいるか? まだ足りないなら、これで納得してくれ。
——俺はきっと、この笑顔に出会うためにあの歌を歌ったんだ。
そうして俺は、ニカッと笑った。
画面越しに向けられた、どこまでも明るい弦華の笑顔——いつか必ず忘れる、太陽のようなその笑顔を、せめてその熱だけでもこの心に永遠に刻みつけられるよう祈りながら、ギュッとそれを抱きしめていた。
そうして『またね』の言葉が紡がれる時、俺たちはきっともう前を向いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます