第21話 「Segno(セーニョ)」
イオニア
現代において誰もが知っているあの超有名な音階、「ドレミファソラシド」と同じ形の音階——その特徴は、言うまでもなくその明るい雰囲気にある。喜びに満ち、元気に踊る音階。嬉しい、楽しい、興奮、感謝、祝福、希望、願い、夢——そんな、人の心に欠かせない大切な光を彩る力を持ち、現在でもそのような曲の多くで使用される、明るく前向きな音階。
——そんなイオニアには、実は裏の顔があった。
とてつもない苦しみ、自分を限界まで追い詰める負の感情の先には、不気味なまでの明るさがある。イオニアはその明るさで、暗さや不気味さでは表現できない苦しみを表現する——その
明るさに代表される正のエネルギーをその身に宿しながら、苦しみの中にあっても明るく振る舞ってしまうその
——
*
「——頼む絵梨歌! 俺の新曲発表のためのライブ配信を手伝ってくれ!」
学校をサボった日の翌日の木曜日。ホームルーム前、あまり使われていない階段の踊り場に俺の声が反響した。絵梨歌は目を見開きびっくりしていたが、やがて目を伏せ、どこか寂しそうな表情で笑った。
「新曲……。そっか、そういうことだったんだ……。悔しいな……」
「絵梨歌?」
「ううん、なんでもない! ……ねぇ、一つだけ聞いてもいい?」
「満足するまで聞いてくれ」
「……その新曲は、誰のための曲?」
思わぬ言葉に、俺は思わず息を呑む。
——誰のための曲、か。
いや、答えに迷っているのではない。むしろ答えは明確だった。
明確だったからこそ、その答えを持っていた自分に驚いたのだ。
「——弦華のための曲。……そして、他ならない俺のための曲でもある。今の俺が弦華にできること、それを考えまくってたどり着いた、俺の結論だ」
誰かのために曲を書く。それは、俺の新たな出会いだった。そしてそれは、彼女がくれた出会いだった。
「……すごいな、弦華ちゃんは」
俺の言葉に絵梨歌は顔を伏せ、俺には聞こえない音量で何かを呟いた。
「……でも、ようやくだね。ようやく、秀叶くんらしくなってきた」
俺が再び声を掛けるよりも早く、絵梨歌は顔をあげてニコッと笑った。
「もちろん手伝うよ! あれより何より、私は秀叶くんを応援したいから……!」
「絵梨歌……。……ありがとう‼︎」
「……でも思ったんだけど、ライブ配信って別に一人でできるんじゃないかな? 私は……、何を手伝ったらいいの?」
「あ〜……」
俺は視線を外し、両手を身体の前で合わせ動かす。
「……なんていうか、それは半分照れ隠しみたいなものだよ。およそ半年ぶりに『秀叶』として歌うんだ。そばで誰かが見張っててくれないと、俺はビビって逃げ出しちゃうかもしれないだろ? ハハ……」
俺がジョークまじりで放った言葉に、絵梨歌はクスリとも笑わなかった。
ただ、彼女は目を丸くして、それからどこか嬉しそうに微笑んだ。
「……そっか。……うん、わかった! 私がしっかり見守っててあげる!」
その言葉で、俺もようやく強張っていた頬をゆるめることができた。
「ありがとう……、よろしくな!」
*
——キーンコーンカーンコ―ン。
六限の終わりを告げるチャイムで、俺は教室を飛び出す。とにかく一秒でも早く、ギターに触りたかった。
家につき、ギターを鳴らす。頭に漠然とあるイメージを、ギターの和音と自分の声を使って形にしていく。それは作り上げるというより、発掘している感覚だ。きっとすでに完成図は自分の中にあって、俺はそれを探している。イメージを元に音を鳴らし、メロディーを奏で、これだと思う音を探す。
それはまるで、運命の人を探す行為ではないか。いつも思い描いていたほど素晴らしいとは限らない。時には落胆することもあるだろう。だが思いがけず、思い描いていたよりもずっと素敵なものに出会えることもある。
一つ確かなのは、探し続けなければ、求め続けなければその出会いはないということだ。だから俺は、どんなに苦しくても、頭の中の完璧な理想に囚われそうになる時でも、音を探し続ける。ギターを奏で、頭と息を動かし続けるのだ。
——思い出すのは、始まりのとき。
俺と弦華、その始まりはきっと、あのレンタルスタジオだった。あの時あの場所でその歌を聞いて、まだあまり話したことのなかったクラスメイトが一気に自分の運命を変え得る存在に変わった。
——そして始まったMV制作の日々。
俺の世界に弦華が入ってきた。あまりにも新鮮なその日々は、驚くほど鮮やかで——俺はあの日々が大好きだった。
——俺の秘密を話した夜。そして、弦華の嘘が明かされた夜。
あの公園で、俺は弦華に自分の話をした。今まで誰にも話してこなかった、「人の顔を思い出せない」という俺の苦しみ——弦華にはなぜか話せた。
そして俺は、弦華が最初から俺の正体を知っていたことを知った。その胸に宿した願いのために、不安をいっぱいに抱えながら、俺の前に現れてくれたことも。
——俺は、そんな弦華の歌に救われた。
弦華の歌に、勇気をもらった。このままじゃ嫌なんだと、思うことができた。
——そして俺は、もう一度歌うことができた。
あの夜の涙を覚えている。その輝きが、何よりも尊いと思ったことを覚えている。
弦華がいなかったら俺は、今もきっと歌を封じていた。大切な歌に、呪いを宿したままになっていただろう。だから弦華、弦華には本当に感謝してるんだ。
——だから、どうかそんなふうに笑わないでほしい。そんな、痛みの感覚しか残らない笑顔を見るのは嫌なんだ。
でも俺には掛ける言葉を見つけられなくて、その痛みを背負ってあげることもできなくて、自分には何もできないって、俺は自分の無力さを呪った……。
——でも今は違う‼︎ 俺は君に伝えたいことがある。世界中の誰でもない、俺ですらない唯一の君、弦華に伝えたいことがあるんだ!
——だから俺は歌う。君に届けたい想いを、歌にして。
*
「——よっし‼︎ これでいける!」
二日後の土曜日の夕方、俺は自分の部屋で叫び声を上げた。
その勢いのまま、俺は絵梨歌に電話をかける。
『——もしもし?』
「絵梨歌、ついに出来た! 新曲が完成したよ!」
『……その連絡を、待ってたよ』
俺は興奮のままに絵梨歌とライブ配信の打ち合わせを始めた。
「——じゃあ配信は明日の十八時ってことにしよう。絵梨歌、明日十五時くらいにうちに来れるか?」
『えっ、うん。そっか、そうだよね……。うん、大丈夫! 行けるよ!』
「よし、じゃあ明日その時間にまた会おう。よろしくな、絵梨歌」
『また明日ね、秀叶くん』
電話を終え、俺は窓を開けて夜空を見た。
空には消え入りそうなほどに細い月が浮かんでいて、新たな始まりの予感に俺は胸を奮わせた。
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