第20話 「不協和音 3」


 ——夢を見た。とても苦しい夢だ。

 俺は舞台の上にいて、観客に笑われている。——と思った次の瞬間、俺は客席から舞台を眺めていて、舞台には笑顔を振り撒く弦華がいる。俺は舞台に駆け寄り彼女に手を伸ばそうとするが、何かが足を引っ張ってあと一歩手が届かない。

『——っ、弦華! 来い!』

 俺が叫ぶと、弦華は俺に気づき口を開く。

『——ねえ秀叶、どうして歌うのをやめちゃったの?』

『……それはっ!』

 俺を引っ張る力が強くなり、みるみる弦華との距離が離れていく。

『——っ、待て! 弦華!』

 向こうへと歩いていく弦華が、スッと振り返った。

『——じゃあね』


「——はっ‼︎」

 目を覚ますと、自室の天井が見えた。五月の初めだというのに身体が汗ばんでいる。

「……行かなきゃ」

 重い身体を引きずりながら、俺は洗面台へと向かった。


     *


 その日も、弦華はいつも通り笑っていた。さして興味を持ってくれていたわけでもない彼女の友達は、もはや『聖火』の話すらしない。それは悔しいことかもしれないが、今の弦華にとってはその方がいいと思っていた。——俺にとっても。

「——そういえばさ、昨日『弦華』の活動用アカウント? みたいなの見た! すごかったよ、弦華のテンション丸出しって感じで!」

 話題は唐突に切り出される。

「活動用? あ〜、歌のやつね。え、みたいみたい!」

「えっ! ちょっとやめてよ二人とも〜、恥ずかしいじゃん!」

 本当に、周りには何も気にしていないように見えているんだろうな。

 でも俺には、その声でわかる。強いこだわりを持って取り組んでいるのに、そこにこだわりがあるなんて思いもしない人間が与える言動の一つ一つが、どれだけ彼女を傷つけているのか。

「——うわほんとだ! めっちゃ弦華って感じ!」

「あれ、なんか真面目なこと書いてない?」

「あっ、ダメダメ! 見ないで!」

「えーなになに、『受け継がれていく炎、決して消えない炎——それが【聖火】』、だって! ひゅ〜!」

「え〜、弦華っぽくな〜い!」

「か、活動アカウントなんだから当然じゃん!」

「お、ガチだ! ガチ勢っぽい!」


 ——勝手なことばかり言うな! なんだよガチ勢っぽいって! そんな軽い言葉で、弦華をくくるんじゃねえよ! 弦華は真剣なんだよ、お遊びじゃねえんだよ! 誰かと比較して、カテゴライズした上で出てくる『ガチ勢』なんて言葉、弦華にはふさわしくない!

 ——やめろよ! 『真剣にやってる雰囲気すごいよね』なんて嘲笑が混ざったその言葉で、『私とは違うよね』なんて理解を諦めた言葉で、彼女をくくるな!

 ——熱を、否定すんじゃねえよ!


「——やだ〜、そんなんじゃないって〜! もう! アハハ」

 ——なんでだよ! なんでそうやって、笑っちゃうんだよ……!


『——じゃあ、お前だったらどうしたっていうんだ? 真っ向から言い返しでもするのか? 人の視線や評価を嫌って、壁の奥に引きこもることを選んだお前に——彼女の行動を責める資格があるのか?』

 ——違う! いや、違くない……。確かに俺にできることは何もない。何もないけど……、それでも、弦華が苦しんでいるのを見るのは、嫌なんだよ……‼︎

『……都合のいいやつだな。今のお前に、彼女を救うことはできないよ』

 ——っ!


 完璧な耳栓があればいい。机に顔をうずめたまま、俺はそんなことを望んでいた。


     *


 ——ガラガラ

 お昼休み。昨日に引き続き空き教室にいた俺のもとに、絵梨歌がやってきた。一緒にお昼を食べたいという絵梨歌のために、俺は机と椅子を一つずつ設置し、それから二人でご飯を食べた。絵梨歌は自前のお弁当、俺は今日は購買のパンだ。理由は特にない。

 食べている間、俺たちはあまり話さなかった。なんとなく、そういう空気だった。一通り食べ終わったあと、絵梨歌は唐突にクラスの連中に対する文句を口にし始めた。

「——なんなのあの人たち! 弦華ちゃんの作った曲を遊び道具にして、冗談半分でバカにして! ああいうの、私はすっごく許せない‼︎」

 突然の表明に、俺はびっくりして言葉を返せない。

「——弦華ちゃんも弦華ちゃんだよ! なんではっきり言わないのさ! なんであんな人たちと、仲良さそうに笑ってるの⁈ 言いたいことが言えてないの、バレバレだよ! そんな関係が、友達って言えるの⁈」

 絵梨歌は本気で怒っていた。弦華の前では出さないが、内心ではかなり弦華を想っているところがあるのだろう。そう思うと、なんだか苦しかった。

 ——俺は、そうやって怒ることができないから。


「——ねえ! 秀叶くんはどう思う⁈」

 絵梨歌が、その子供っぽい顔で、怒りながらそう尋ねてきた。

 俺は少し顔を伏せながら答える

「……俺も、弦華の友達の反応は許せないよ。それに対して言い返さないどころか、自ら便乗している弦華にも、納得できない気持ちはある……」

「だよねっ‼︎」

「……でも、だからといって、俺にできることは何もない。俺には、今の弦華に何か言う資格はないんだ」

「——え?」

 絵梨歌は、俺が思っていたよりも少々大袈裟な声を出す。

「……言ってなかったな。俺が活動休止した理由は、人に好き勝手言われるのが嫌になったからなんだ。ちょうど、今の弦華の状態に似てる。だから、それに立ち向かうことなく逃げ出した俺は、弦華に言葉をかける資格がないんだよ……」

 俺はこれまで絵梨歌には伝えてこなかったことを言葉にする。なぜこのタイミングだったのかはわからない。

 ——多分俺は、同意が欲しかった。もうどうしようもないのだと、誰かに言って欲しかった。俺のことをよく理解してくれる絵梨歌なら、俺のこの苦しみに、共感してくれると思ったのだ。

「——なにそれ‼︎ そんなの『秀叶』じゃない……‼︎」

 怒号が響いた。

「……え?」

 予想もしなかった反応に、俺は反射的に顔を上げる。

 絵梨歌は立ち上がっていて、先ほどまでここにいない人たちに向けられていた怒りの顔を、今度はまっすぐ俺にぶつけていた。

「……私の知ってる秀叶くんは、苦しんでいる人が目の前にいるのに、そんな風に諦めたりしない! 言い訳したりしない! 自分のことはかえりみないで他人のことばっかり助けちゃう、そんな人だよ! そんな……、世界で一番素敵な人だよ!」

 俺はあっけにとられながら、目の前で息を荒げる絵梨歌を見上げた。

「……けど俺は」

「——ああ〜うるさい! 秀叶くんの言い訳なんか聞きたくない! 言い訳をするのはいつも私たちの方なんだよ! それを飛び越えてくるのが秀叶くんじゃん! 私はそんな秀叶くんだから——」

 絵梨歌は息を詰まらせて、頬を真っ赤に膨らませる。怒りがよく現れたその顔で——

「——バカ〜‼︎」

 そう吐き捨てて教室を出て行ってしまった。


「——まだ何か、俺にできるっていうのかよ……」

 絵梨歌が去った教室で、俺は小さくそう呟いた。


     *


 ——翌日、水曜日。俺は学校を休んだ。

 休もうと思っていたわけじゃない。普通に起きて制服に着替え、始業時間に間に合うように家を出た。けれど満員電車に押しつぶされ、ようやく辿り着いた乗り換えの駅で、俺は歩くのが面倒くさくなってしまった。弦華との撮影もしたこの駅で、俺は学校を休むことを決めた。クラスでサボり休みをしている奴を見たことがある。一日くらいなら、特に咎められることもないだろう。

「……ここはうるさいな」

 出勤や通学のため人々が行き交う通路の端で、俺はきびすを返した。

 ——とはいえどうしよう。時間はたくさんある。今すぐ家に帰るのはどう考えても不自然に思われるだろう。なにか時間を潰せることをしよう——心が安らぐような、普段はできないようなのんびりとしたことを。

 俺はふとある考えにいきつき、かつて弦華と待ち合わせをした橋へ向かった。

 橋に着くと、その下を流れる川が見えた。両脇をコンクリートに舗装されてるとはいえ、その底には土が堆積たいせきしていて、両脇には草も生い茂っている。この川を辿っていけばきっと、自然豊かなところへ辿り着けるはずだ。草むらがあって、木々が両脇に生い茂っているような、のどかな場所へ——そう思った。

 ——歩こう。せっかくだから、学校の方にしてみるか。もしかしたら、そのうち気が変わって行きたくなるかもしれないし。

 俺は川沿いを歩き始めた。


 意外にも、雰囲気はすぐに変わった。駅の付近が殺伐さつばつとしていただけで、少し歩くとすぐに足音と川のせせらぎだけの世界になった。サイクリングロードのようになった川沿いにはウォーキングや犬の散歩をする人たちがまばらにいて、その人たちに挨拶されるたびに心が少しほころんだ。

 二十分ほど歩くと、川の両脇から建物が消え、代わりに木々が生い茂っている場所にたどり着いた。まさに俺が思い描いていた場所、とまではいかないが、木陰の下をくぐり抜けるのはなんだかとても爽やかだった。

 ——写真でも撮っておこうかな。いや、動画かな。

 俺はスマホでビデオを回しながら、自分が無意識のうちに構図を意識していることに気づいて、小さく笑った。

 やがて視界が開け、画面の右端——進行方向の先に、道幅をグッと広げたようなスペースと、小さなコンクリートのベンチがあるのを発見した。

 ——ちょうどいい。ここでしばらく、休憩も兼ねて景色でも眺めていよう。

 そう思って録画を止めようとした瞬間、俺の目に信じられないものが飛び込んできた。

「……嘘だろ」

 俺は画面から目を離し、想定外の出会いに言葉をこぼす。

 そこには、一人の少女がいた。少女はコンクリートのベンチに腰を下ろし、流れる川と風に揺れる木々を眺めている。

 ふと、彼女が俺の存在に気づき振り返った。その真っ白な髪が風に舞う。

「……あれ? 君……、サボり?」

 そこにはフィナリス女学院の制服を着た、堂前凪月どうまえなつきがいた。


「——それで、君はいったいなにをしているの?」

 その、胸に直接届くような透き通った声で凪月は愉快ゆかいそうに尋ねる。

「それは凪月も同じだろ……」

 俺たちは並んで川沿いのベンチに腰をおろし、流れる川を眺めていた。

「あっ、鳥! 大きいなぁ……」

 向こうの方に白い体毛の大きな鳥が降り立ち、凪月がそれを見て呟く。てんで的外れ、会話になっていない素っ頓狂な返事だ。それが俺には心地よかった。

 そばには凪月が乗ってきたという自転車があり、もしこの自転車のチェーンが外れなければ俺は彼女と知り合いになることもなかったんだな、なんてセンチメンタルな思考を繰り広げる自分が、なんだか少し可愛いらしく思えた。

「……凪月は、いつからここにいるの?」

「さっき来たところだよ。ここ、私の好きな場所の一つなんだ」

「そっか……。いい場所だね」

「君がそう言ってくれて嬉しいよ」

 流れの緩やかな川は、ささやくように歌う。どこからか聞こえてくる鳥の声が、風に揺れる草木と溶けあって俺の心をほぐした。

「……実はちょっと、わからないことがあってさ」

 だから俺は、素直に打ち明けることができた。

「フフ……、君はそればっかりだね。今日は冗談は無しなんだ?」

「……手首にドーナツついてますよ?」

 俺は凪月の左手首についた水色のシュシュを指してそう言う。

「……ご指摘ありがとう。これは私のとっておきなの」

 ドーナツ姫はそう言って胸のあたりまで伸びた後ろ髪を両手でかきあげ、それから手首につけたシュシュでポニーテールのように一つにまとめた。それによって、普段は見えないうなじがあらわになる。

「……どう?」

「……凪月っぽくはないな」

 俺がそう言うと、凪月は豆鉄砲を食ったような顔をして静止した。それから、黙ったままシュシュをとり髪をおろすと、ふてくされたように頬を膨らませた。

「……もう見せない」

「——うそうそ! 似合ってた! 普段とのギャップに秀叶くんドキドキしちゃった!」

 俺が大げさにそう言うと、凪月は「プッ」と口元をおさえて笑った。

「——うん、君はやっぱりそっちの方がいいよ」

 その優しい声で、俺は自分がさっきよりも笑えていることに気づいた。

「……それで、君は今、なにに迷ってるの?」

 凪月が先ほどまでとは違うトーンで、けれど優しくそう言った。

「……なんだろうな。多分、俺にできることが何もないから、苦しんだろうな。俺は彼女を、助けたかった。けど俺にはその資格がなくて、俺じゃ彼女を救えないってわかったから……、だからもう、どうしたらいいのかわからないんだ」

 細かい説明もなしに、俺は思いの丈を言葉にする。それは、俺の本心だった。


 ——もう、どうすることもできない。俺には弦華を動かすだけの言葉を放てない。

 自分は逃げ出しておいて、人には立ち向かえなんて、都合がいいにも程がある。

 ——それでも俺は、弦華が傷つくのを見るのが辛くて、あんな風に笑っているのをみるのが辛くて、どうしようもなく愚かにも、願っている。弦華がもう一度——

「——君はさ、それを伝えたの?」

「え?」

 凪月のまっすぐな声が、俺の意識に光となって差し込んでくる。

「君はまだ、伝えてないんじゃない? 君の気持ちを、君の願いを。君が彼女に伝えたいこと——それをちゃんと、君は伝えたのかな?」

 言われて俺はハッとする。

 ——言っただろうか。いや、言っていない。

 そもそも、俺は何を望んでいるのだろう? 弦華に何を、伝えたいんだろう?

「伝えたい想いは伝えなくちゃダメだよ? 必ずね。人はいつまでも、一緒にはいられないんだから……」

 弦華の透き通る声が、いつもよりも少しだけ熱を帯びる。

 ——気づかなかったのが不思議なくらいだ。俺はいったい、何を望んでいる? それが言葉になっていないから、迷っていたんじゃないか?

 一斉に動き始めた気持ちと思考の流れに目を丸くする俺の前で、凪月はパッと立ち上がった。

「……あとはもう、一人で大丈夫みたいだね」

「……ああ。ありがとう、凪月」

「……君はきっと、たどり着けるよ。じゃあまたね、見送りはいいよ」

 そう言って、凪月は自転車に乗って去っていった。


     *


 凪月が去って、俺は川のほとりで一人、考えていた。


 ——俺は弦華に、何を伝えたい? 俺の望みはなんだ?


 俺の脳裏に、ここ数日の弦華の記憶がよみがえった。

 魂を込めて作った歌をおもちゃにされ、傷つき、それでも笑う弦華の声。廊下で掴んだ手の温度、震える肩。去り際に放たれた「じゃあね」の言葉……。

『……次のMVで、絶対見返してやろうぜ! 俺……、手伝うから!』

 そう言った時、俺はいったい何を望んでいたんだろう……?


 その時、俺の頭の中にはさまざまな情報がごちゃごちゃに飛び交っていて——過去の記憶、感情、今の課題、『俺の望みとは?』——それらの情報が、言葉にならないスピードで俺の意識を埋め尽くしていた。

 ——もう少し、もう少し。

 煩雑はんざつした思考の世界で、俺は手を動かした。腕を振り回した。多くのノイズを払いのけ、自分の本心を探す。核を探す。

 ——光に、手を伸ばした。


『野中くんに、私の初めてのミュージックビデオ作成を手伝ってほしいの……‼︎』


 それは、始まりの記憶。俺と弦華の、全ての始まりの言葉。

 この時俺はひどくビックリしたっけ。突然なに言い出すんだこの人は、と思ったっけ。

 ——違うんだよな。今だからわかるよ……。このとき弦華は、全部わかってたんだよな。俺の正体も、俺が歌うのをやめていることも——全部分かった上で、何も知らないという嘘の仮面をかぶって、俺にこの言葉を放った。

 ——たった一つの、自分の望みを伝えるために。


 瞬間、ブワッと風が吹いた。

 ——ああ、そうだ。俺も同じだ。

 俺の願いは、あの時、弦華が思っていたのと同じこと。

 俺はただもう一度——


 ——もういちど弦華に、歌を歌って欲しかったんだ。


 俺の頭のなかに、メロディーが流れ始めた。

 今まで一度も聞いたことのない、新しいメロディーだ。

「……行こう」

 俺はすぐに、駅に向かって走り出した。片道徒歩二十分の道を、息を荒げながらも走り抜けた。改札を通り、階段を駆け上がり、電車に乗る。その全ての時間、高鳴る鼓動を抑えられなかった。


 俺の望み——それは、弦華にもういちど歌を歌ってもらうこと。

 これからも、弦華に歌を歌い続けて欲しい——それが、俺の望み。

 そしてそれは、弦華が俺に望んだことと全く同じだ。

 ——ならば、俺のすべきことは、一つしかないじゃないか!


 最寄駅から自宅までの道を全速力で駆け抜ける。玄関の鍵を開け、母さんが仕事に出たあとの誰もいない自宅の階段を駆け上がる。自室のドアを開け、荷物を放り投げる。

 ——そして俺は、ギターをかき鳴らした。


 ——歌ったらいいんじゃないかな。そういう、迷いとか苦しみとか優しさとか感謝とか「ごめん」とか「頑張れ」とか全部こめて。


 だってそれが、一番伝わるやり方だから。

 だって彼女は、そうしてくれたから。


 ——そうして俺は、始まりの日へと帰っていく。

 弦華をえがく、弦華へ届ける——歌のために。


 ——D.C.(Da Capoダ カーポ

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