第19話 「不協和音 2」

 朝から不安がぬぐえなかった。胸がざわついて、学校に行くのが怖かった。

 月曜日。いつもより早く目が覚めた俺は、普段よりも早い時間に学校に着いた。

 そこにあったのはこれまでと変わらない風景。数名しかいなかった教室に次々と生徒が表れ、久しぶりの再会を喜び、ゴールデンウィーク中の出来事についてなどで会話に花を咲かせている。

「——そういえば、あれ見た? グループの」

「——っ!」

 背後で、弦華と話したことすらなさそうな男子生徒達が例の話題を取り上げる。

「いや、見てないけど。え、お前見た? どうだった?」

「ん〜、頑張ってんなぁって感じしたよ? ちょっと意外だったけど」

「へぇ〜。あ、そういえばさ、一昨日——」

 一瞬にして話題は変わる。毒でも薬でもないそのコメントを聞いて、俺はこわばっていた肩からスッと力を抜いた。心臓は鳴り止まない。

「——ねえ皆はみたの? 弦華の動画!」

 瞬間、俺は目を固く見開いた。その声と同時に、数名の女子生徒が教室に入ってくる。クラスでも一際キラキラした生徒達、弦華と同じグループの女子達である。俺は顔を伏せたまま、耳だけでその声を聞く。

「みた〜」「ほんとに弦華だった」「実はまだ見てないの……」

「——ぶっちゃけどうだった?」

「え、それ聞く?」「頑張ってる感じした!」「だから、見てないんだよ〜!」

「いや実は私もまだ見てなくてさ、どんな感じか教えてもらおうと思ったんだけど」

「アハハ! なんだよ〜」「じゃあ今みる?」「あ、賛成! 見よ見よ!」

「——おはよっ! 朝から元気じゃん。何の話?」

 なんだかモヤモヤする盛り上がり方を続けていた彼女達のもとに、たった今教室に入ってきたばかりの一人の男子生徒が声をかける。彼女達と同じくクラスの中心の方にいる生徒である。だが、俺はこの男がとにかく苦手だった。

「おはよ!」「おは〜」「……弦華の動画見ようと思って」「あ、ケンタは見た? 昨日グループに送られてきたやつ!」

「いや、俺もまだ見てないわ!」

「じゃあ一緒にみようよ。ほれ、こっちこい!」

「なんか扱い雑じゃない⁈」

 そんな流れで、彼女たちはクラスの真ん中で弦華のMVを見始める。

 視界の端の方で、絵梨歌が教室にやってきたのを捉えたが、俺はそれどころの気分ではなかった。

 ——パッと光が差して、バッと私は立ち上がった

「お〜、マジで弦華じゃん」

「弦華ってギター弾けたんだ!」

「ね、知らなかった〜」「…………」「すご! 映像ちゃんと編集されてんじゃん!」

「すげえな。これ弦華が作ったって思うと、めっちゃウケる」

「弦華歌うの上手だよね……。ハッ! どうしよ将来紅白とか出る人になったら!」

「アハハ〜、気い早〜」「……静かに聞きなよ」「あ、服変わった」

「あ、ほんとだ」

「ポニーテール珍しい! かわいい」

「別日だろうね〜」「…………」「ねえねえ、これってすごい? 良い曲なの?」

「ん〜……」

「そんなこと私に聞かないでよ」

「なんかあの人に似てるかな、時々テレビで見る……、名前忘れちゃった!」「…………」「……え、結局どっち?」

「あ、終わった」

「あ、もう終わり? 短いね」

「オリジナルソングなんだから、こんなもんなんじゃない?」「ずっと喋ってるからだって!」「アハハ! リョウずっと怒ってる〜、真面目〜!」

 曲が終わる頃、朝の教室には徐々に人が集まり始めていた。弦華の姿はまだない。

「……しかしまあ、弦華にこんな一面があったとはねぇ。動画あげる前に、俺にひとこと相談してくれればよかったのに……」

 全身に嫌な感覚が走る。

「お、何? ケンタ何か言いたいことでもあんの?」

「いや言いたいことっつーか、俺が一度でも聞いてたら、こんなしょぼい感じにはならなかったのに、って思ってさ!」

 ——っっっ‼︎

「はぁ? あんた何言ってんの?」

「え、いや、リョウは思わなかったのか? この曲、短すぎるしノリ悪いし、歌詞も単調っていうか、浅くね? そういうこと言ってくれる奴が一人いればさ、弦華ももっと違うもの上げれたんじゃねえかなって思ってさ」

「アハハハハ、ケンタやばすぎ! 度胸やばい! ぶっちゃけすぎだって、アハハハ」

 声がノイズとなって頭に響く。耳が痛いというのは、比喩じゃなかったのだと知る。

「じゃあさ、お前らはどう思ったんだよ? 似たようなこと思っただろ?」

「……ん、まあ、ぶっちゃけね?」

「私は好き」

「私はケンタの言うことわかるなぁ……。友達としてはすごいと思うけど、普通に知らない人としてみたら微妙かも」

「だろ? もったいねえなぁ、せっかく素材がいいのに……。あ、いっそのこと、次は俺がプロデュースしようかな! 俺が曲とか演出とか全部チェックしてアドバイスすんの」

「アハハハハ! それ最高!」

「……ケンタ音楽とか聞かないじゃん、あんまり」

「え、いや俺音楽聞くよ? めっちゃ聴くって! まあ洋楽ばっかだから、確かにこういうのはあんま聴かないけど」

「え、いいじゃんケンタプロデュース! みてみたい見てみたい!」

「あんたに指図されるなんて、弦華が可哀想だ」

「リョウ辛辣しんらつ‼︎ アハハハハ!」

「ばかお前舐めんなって! 俺だってやる時はやるんだぞ?」

「あれれ? 何だか話の方向変わってない……?」


 俺はずっと、自分の内側で嫌なものが渦巻くのをじっと堪えていた。

 ——思い出す。『秀叶』の動画についた数々のコメントのことを。『かげ』のMVについたコメントのことを。人の聖域せいいきを無神経に土足で踏み荒らす心ない人々、それに同調するして盛り上がる人々のことを。

 面白半分、少しの退屈とイタズラ心によって、ひとときの遊び道具のためにクリエイターの「命」を消費する他者は、大した悪意も信念も持っていない。ただ、それが持つ重みを理解できないがために、もしくは重みなどないと——価値などないと決めつけ、作り手が魂を込めて作り上げたそれを安易なレッテルで均質化きんしつかすることで、作り手を激しく傷つける。

 ——俺はそれが嫌で、切り捨ててしまった。

 ——だから嫌だった。見知らぬ誰かではない、ともにMVを作り上げその想いを共有した弦華が、この残酷な——抵抗のとっかかりを掴めない透明な悪意に襲われるのをみるのは。

 願わくば、これが弦華のもとに届かないことを祈って——


「——あれ? 一ノ瀬さん、まだそこにいたの?」

「——っ!」

 後ろ側の出入り口から中に入ってきた男子生徒が、不思議そうな声で尋ねる。その言葉で俺は息を呑み、たまらず扉の方を見てしまった。

「おはよ……!」

 そこには、どこか煮え切らない笑みを浮かべた弦華が立っていた。

 ——いつから? 彼女はいつからあそこにいた? どこから聞いていた? 今、何を思っている?

 青ざめる俺の前で、弦華は颯爽さっそうと教室に足を踏み入れる。

「弦華……、いつからいたの?」「もしかして、聞こえてた?」

 先ほどまで元気に会話をしていた友達の彼女達も、まさかの事態にバツが悪そうな顔をしている。本人達は軽口のつもりだったとはいえ、構図としては陰口を聞かれてしまった状態。クラスにいた誰もが、その緊張感に意識を寄せていた。

 誰もが弦華の次の言葉に注目していた。

「——ん〜、けっこう前から? 教室で『聖火』が流れてるのが聞こえて、恥ずかしくて入るのを躊躇ちゅうちょしちゃった!」

 ——テヘ。

 そんな効果音がつくかのように、弦華は呑気に笑って見せた。

「あ……、そうだったんだ。……ごめんね! 私たち——」

「——いいよいいよ、私は気にしてないよ! むしろ素直な意見が聞けて嬉しかったかも! ……でも、歌詞が浅いって感想はちょっとヒドいんじゃな〜い?」

 弦華はいっそう明るい笑顔で、まるで本当に何も気にしていないかのように笑って続ける。その様子に、先ほどまで距離を測りかねていた友達の彼女達も明るさを取り戻す。

「……だよね! あれは言い過ぎだって思った!」

「うっせ! いいじゃんか、『す・な・お』なんだよ俺は! な! 弦華」

「アハハ、でもケンタはちょっと言い過ぎだったから後でジュース奢ってね」

「何でだよ⁈」

「あと、ケンタプロデューサーは不採用で」

「それも何でだよ⁈」

「事務所NG」

「アハハハ! ケンタまたフラれてる〜」

 笑い声が、頭に響く。俺はたまらず机にうつ伏せる。

「私は実は見てみたかったな、ケンタプロデュース。エヘヘ」

「っていうか弦華、軽すぎじゃない? もっと怒ったりしなよ。私は結構ムカついてた。本人がそんな感じでどうするの」

「アハハ……、ありがとうリョウ。でも私は大丈夫だよ!」

「ほんとに……?」

「っていうか弦華あれじゃない? ひょっとして最近付き合い悪かったのって、これ作ってたからってこと? なんだ、言ってくれればよかったのに……」

 もうやめてくれ。もうそんな風に笑わないでくれ。お前が笑ってしまったら、誰がその心を——

「えへへ、ごめんごめん。こんなことで行けないっていうのが気まずくて……」

 ——っつ‼︎

 俺は誰にもみられない腕の中で、大きく目を見開いた。

 ——なんで!

 なんでそれを自分で言ってしまうんだ! 人にどれだけ言われても、自分だけは言葉にしちゃダメなんだ! それをしたら、もういなくなってしまうじゃないか。

 ——そんなことをしたら、誰がその心を、想いを覚悟を、守ってくれるんだよ……‼︎


 俺は誰も気づかない教室の隅で、唇をかみしめ拳を握りしめた。視界が真っ暗だった。

 弦華の心を思うと、胸が張り裂けそうだった。全身に、得体の知れない力が走った。


 ——作り手にしかわからない孤独と苦悩。

 おそらくこの場で、唯一俺だけがそれを知っていた。

 いや、きっと、弦華が痛みを抱えていることは誰の目にも明らかだった。弦華が弦華でなかったなら、もっと素直に感情をオモテに出せたのだろう。


 ——だが弦華は、笑っていた。

 ——笑い声に傷ついたその心を明るさの仮面で覆い隠して、


 ——どこまでも歪に笑っていた。


     *


 キーンコーンカーンコーン。

 その後の一日をどう過ごしたのか、覚えていない。気づけば放課後になっていた。

 あれだけ楽しみにしていた約束の日は流れるように過ぎ、気づけば一度も弦華と会話することなく放課後を迎えている。お昼休みは、教室にいるのが苦痛で一人空き教室で食べた。何食わぬ顔で自分を傷つけ、そのことに気づいてすらいない奴らと一緒に笑いながらご飯を食べる弦華を、見ていられかった。 

 絵梨歌とも話していない。お昼は図書委員の仕事があったこともあるが、なんとなくお互い今日は会話を避けているところがあった。だからきっと、俺はいつも通りの日常を無意識のままに送っていたのだろう。

 ——吐き気にも近い感覚を身体に宿しながら。


 そうして迎えた放課後。弦華達はどうやら、どこかに寄って帰るらしい。弦華の心境を思うと、全身が気持ち悪くなる。だがどうしても、俺は今日をこれで終わらせるわけにはいかないと思っていた。

 ——そんな時、俺たちは鉢合わせた。トイレの前で、偶然ばったりと。

 間違いなく重なった視線は弦華の方から切られ、彼女はそのまま駆け出してしまう。

「——っ、待てって!」

 ——パシッ。

 俺は過ぎ去る少女の手首をとり、弦華を引き止める。

「……弦華、えっと……」

「ごめん秀叶、私今日……、リョウ達と遊ぶ予定があるの! だからまた、明日話そ?」

 弦華は俺の顔も見ずに、元気そうにそう言った。

 ——バカだ。

「……やめろよ。俺に嘘は通じない。いくら表情は明るくできたって、声はそうはいかないんだ。顔を覚えられない俺には特にな。……今朝からずっと、震えてるじゃねえか」

「——っ」

 弦華の肩が強張る。

 見なくたってわかる、きっと唇を噛み締めてる。きっと、今にも泣き出しそうな自分を、叫び出したい自分を必死で押し殺してる。何が「リョウ達」だ、この間まで「カレン達」だったじゃねぇか。

 ——なんでそんな風に、笑ってんだよ……‼︎


「……次のMVで、絶対見返してやろうぜ! 俺……、手伝うから!」

 俺は弦華の手首を掴む自分の力が強くなっていることを自覚していた。それでも緩めるつもりはなかった。この力で何かが伝わればいい、そんな風に思っていた。

「……そうだね‼︎」

 すると弦華は初めて振り返り——満面の笑みでそう言った。

「——っ」

「……秀叶はさ、きっとこんな気持ちだったんだよね」

 直後、弦華はその仮面を外し、痛みを宿した顔でそう言う。

「——ごめんね! 私……、秀叶が活動休止した理由、たいした事じゃないって言っちゃってさ……。確かに……、これはきついね……アハハ」

「あ……」

 俺はそれきり、言葉が出てこなかった。

 身体から力が抜けて、手が離れる。


 ——俺じゃ、ダメなんだ。

 瞬間、俺は気づいてしまった。

 その痛みから逃げ出した俺じゃ、彼女に「立ち向かえ」と言う資格がないのだと……。

「……じゃあね!」

 走り去るその背中に、手を伸ばすこともできない。


 ——俺にできることは、何もない。


 いつかの公園でそうしたように、俺はただ、一点を見つめて立ち尽くしていた。その時よりもずっと長く、ずっと強い孤独を感じながら。


 ——『さよなら』と、言われた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る