第16話 「Polyphonic lines 4」

 ——ピコン。

 スマホからの通知音で、私——一ノ瀬弦華いちのせいとかはメッセージが届いたことを知る。普段は音声通知は切っているのだが、この二日間に限ってはそれをオンにしていた。

 ——現在は日曜日の夜。秀叶の部屋での一件があってから、まる二日が経過しようとしている時間だった。

 今でも、あの時のことを思い出すと全身が熱くなり、恥ずかしすぎて布団にくるまりたくなる。すぐ近くには秀叶の顔。その声で私の名前を呼び、顔を赤くして息を荒げていたその姿に、どうしようもなく身体が火照ほてってしまう。

 ずるいやり方だったってわかってた。こんなやり方じゃ、あの人は動かないって。

 でも、あの時あの場所で、至近距離になって動揺している秀叶を見て——私は、バカみたいだけど、それでも確かに嬉しくなってしまった。もうどうなってもいいって、確かに思ってしまった。けれど——

 ——それでも私は、逃げられてしまった。わかってる、そこには色々な理由があって、それだけ秀叶の「歌うこと」に対する扉が重いんだって、わかってる。

 ——それでも私は、どうしようもなく傷ついていた。どれだけ納得するための材料を並べても、それを乗り越えるだけの魅力を見出してもらえなかったのだと言われているような気がした。

 結局あれから秀叶にメッセージを送る勇気は出ず、かといって他のことに集中することもできずに、明日学校でどう話しかけようか、なんてことを考えていた。

 ——そんな時に届いたメッセージ。画面に表示された名前は「秀叶」。

 私は飛び上がり、恐る恐る画面をタップ、トーク画面を開いた。


『明日の放課後、例の空き教室で

 パソコンを持っていくから、そこで動画の編集をしよう』


 私はスマホを片手に持ったまま、両腕を広げ背中からベッドに倒れ込んだ。

「良かったぁ……」

 私はこの二日間ろくに吐けていなかった息を吐き出した。

 ——また明日。

 私は安堵と期待の内に、静かに両目を閉じた。


     *


「——そこはさっきの方がいいかも」

「じゃあこっちは?」

「そこはもう少し——」

 月曜日、放課後。三階にあるいつもの空き教室に、俺と弦華の声だけが響いている。昨晩ラインで約束したように、俺たちはここでMV編集の仕上げを行なっていた。

 あんなことがあっても、作品は完成させなければならない。かといって、もう一度あの部屋に弦華を呼ぶのはあまりに問題がある気がしたので、俺は自分の部屋からマックブックを持ち出し、それを使ってこの空き教室で編集をすることにしたのだ。

 今日は朝から、一度も弦華と話さなかった。それどころか、目を合わせることもなかった。絵梨歌がトコトコとやってきて「……なにかあったの?」と聞いてきたりもしたが、俺は「なんでもない」ととぼけた返事をした。

 結局、弦華と直接会話をしたのはこの放課後。あの金曜の午後以来だったため俺はそれなりに緊張していたのだが、弦華は元気に「おはよっ!」と言ってこの空き教室に入ってきた。弦華とて何も感じていないはずはないのに、こうして元気なスタートダッシュを切ってくれたのは彼女の強さだろう。あるいは弱さか。

 ともあれ、俺はそんな「これまで通り」を演出してくれている弦華に、一旦は便乗びんじょうすることにした。

 ——作業は黙々と進められた。俺も弦華も、なにかから頭を遠ざけるようにただひたすらに編集に集中していた。作業効率は、金曜日のそれよりも下がっていたが、それでも二日目の慣れもあり、着実にMVは完成へと近づいていった。

 そして、陽が沈んだころ——


「……いいかな?」

「いいと思う……」

「じゃあ、これで……」

「うん……」

「「——できたぁ〜‼︎」」

 十八時半頃——学校が閉まる三十分前。俺たちはついに、『聖火』のミュージックビデオを完成させた。

 弦華が手を上げて、俺もその意図を察して手の平を彼女に向ける。そして俺たちは軽くハイタッチをした。

「……お疲れ!」

「うん! 秀叶もお疲れ様! でもダメだよ〜? 有頂天になっちゃ。まだ全部終わったわけじゃないんだから!」

 弦華はしたり顔でそう言って笑った。

「……だな。公開はいつにする? 動画の書き出しは終わってるから、もういつでもできるけど」

「ん〜……、明日以降にする! 公開する時はちゃんと、絵梨歌も一緒がいいから……」

「そっか……、了解」

 そう言って俺たちは、荷物や机などの片付けを始めた。

 MVが完成し、大きな目標を達成したはずなのに、俺の体にはなぜか焦燥感しょうそうかんが溢れていた。心拍数は上がり、胸も苦しい。俺の中でつっかかった何かが呼吸を阻害そがいし、俺の内心の安らぎをかき乱していた。

 ——いや、何かなどではない。とっくに正体がわかっているそれは、俺のやらなくてはいけないことだ。あの日確かに決意したことだ。

 ——俺は今日、ここで応える。そう決意して、ここに来た。

 けれどそれでも、俺は今なお臆病で、彼女が演出する日常に甘えているのだった。

 そのことが俺を焦らせ、苦しめた。


「——あ、ごめん! ちょっとトイレ行ってくるね!」

 電気を消し、後はもう教室を出るだけというタイミングで弦華がそう言った。

「え? あ、うん」

 俺はリュックを背負いかけた状態で、返事をしながら弦華を見送る。

「——っ!」

 その時、俺は見た。彼女の横顔を。去り際、ここまで本心を隠し通してきた厚い「明るさの仮面」が剥がれ、その下にある感情が見えた。それは、悲痛なまでの寂しさだった。

 ——彼女も感じていたのだ。目標に達しながら、満たされない心を。達しているようで、本当の意味では辿り着いていないこと、仮初めのゴールにいることを。


『——このまま死んでもいいって思っているのか、このままじゃ死ねないと思っているのか、自分の胸に問うことだよ』


 ——わかってるよ。ここまできて、今さらビビってたことが恥ずかしい。

 ——そりゃ怖いさ。できるなら今日のところは逃げ出して、また今度ってことにしたい。

 ——でもそれじゃ遅いんだ! 今日一歩踏み出すことの恐怖よりも、明日同じ言い訳をすることの方が怖い。このまま一歩を踏み出せずに、一生を終えることの方が怖いんだ!


 ——ポロローン

 頭の中に、最初の和音が流れる。

 それを合図に、俺は静かにメロディーを紡ぎ始めた。


「……おはよって、おかえりって あなたの言葉を覚えている。

 大丈夫、ひとりじゃない 最後にあなたは、そう、言った……」


 窓の外には、満月が浮かんでいる。

 ギターの音が鳴り、一番の歌詞につながる短い前奏が奏でられた。


 ——喧嘩も出来ぬ僕は、いつも涙と一緒に帰る

 ——あなたは笑っていて、僕も、笑えたんだ


 ふと廊下の方で、「カタンッ」という音が鳴った。

 俺は構わず歌い続ける。


 ——「強さとは優しさだ」と、僕に伝えてくれたあの日の、

 ——紅に染まる空、大小の影帽子。


 廊下を誰かが歩いてくる。

 その足音は一音一音がやたらはっきりと色を持っていて、一歩一歩踏みしめているようにも、音を隠そうと慎重に歩いているようにも、落ち着きを保とうと自らを戒めている音のようにも聞こえる。もしくは単に俺が、一歩ずつ近づいてくるその存在を強い意識で感じているだけなのかもしれない。


 ——もう、いないんだね。 いつか、消えちゃうかな。


 人影がドアの前に立ち、そのドアに手がかけられたのがわかった。

 それは最終確認——彼女はわざと気づくように手をかけ、俺はわざと間を開ける。

 互いが互いの存在を認識していることが明らかになり——ドアがゆっくりと開かれる。

 不自然に途切れたメロディーの間に、建て付けの悪いスライド式のドアが呻き声をあげた。

 俺は息を吸い、隙間風に消えゆくはずだったメロディーの火に、再び命を吹き込む。


 ——ああ、そうはさせない! 夢で会えなくても……!


 今、ドアは開き切った。


 ——このココロが、歌になればいい フッとこぼれるメロディーに

 ——たとえあなたを忘れても、あなたをえがく、歌となれ


 視界の端には、立ち尽くす弦華がいる。彼女はドアを開けたきり、足を踏み込むことなくドアの前で立ち止まっている。——まるで、あと一歩でも踏み込んだら魔法が解けてしまうと思っているかのように。

 だから俺は、そっと目を彼女に向けた。

 彼女は一瞬ビクッとして身を固めたが、俺が何も言わないのを見て、おずおずと右手の人差し指を、その滑らかな頬の横で、緩やかに流れる栗色の髪の横でピッと立てた。

「……もう一回」

 俺はフッと笑うように息を吐いて、次のフレーズへと変わる息を吸う。


 ——人の死は二度あると、忘れられた時、人は死ぬと

 ——そう言ったあの日の、月が、欠けてく


 弦華は恐る恐る、一歩踏み込む。俺は歌い続ける。


 ——『大丈夫、おまえなら』 あなたの残した光を抱いて、

 ——僕は今日生きていく、だから、見ててよ


 弦華がそっと俺の横に腰掛ける。寄り添うように、また、少しでも側で聞いていたいと切望するように。


 ——でも、思うんだ。 また、話がしたい。

 ——想う、時さえ 届かぬと知っても……!


 ——この心に、歌があればいい フッと溢れるメロディーが

 ——たとえ掴めぬ、願い(ヒカリ)でも、あなたをえがく、歌となら


 チラリと目をやると、弦華と目があった。月明かりに照らされたその瞳には涙が浮かび、それがこの世で最も高価な宝石だと知った。

 ——ありがとう。

 俺は胸の中でそう呟く。歌い続けながら、そう呟く。

 弦華がいてくれたから、俺は今こうして歌っている。

 弦華が歌を届けてくれたから、俺は自分の気持ちに気づくことができた。

 だからこれは、俺からの感謝のしるしで——俺の「こたえ」だ。


 ——このココロが、歌になればいい フッとこぼれるメロディーに

 ——たとえあなたを忘れても、あなたをえがく、歌となれ

 ——あなたのカケラを、歌として


「……ふぅ」

 月夜の静けさが戻った教室に、パチパチパチと拍手の音が響いた。

 俺は涙に濡れたその頬を見て、そっとハンカチを差し出す。弦華はそれを受け取ると、涙をふくよりも先にそれを握りしめ、口を開いた。

「……秀叶、なんで?」

「……弦華のおかげだよ」

 俺はそう言って顔を正面に向け、月明かりでできた二つの影を眺める。

「弦華が俺に気づかせてくれたんだ、このままじゃダメだって。——俺は、歌を歌っていたいんだって」

 隣で息を呑む少女に、俺は偽ることのない声で感謝を告げる。

「……ありがとう、俺に歌を歌って欲しいと言ってくれて。『聖火』を作ってくれて。弦華がいてくれたから、俺はもう一度、歌を歌うことができた。だから——」


 ——ありがとう。


 弦華の乾き始めていた頬に、再び涙がつたう。喜びとも悲しみとも違う、抑えられてきた何かが溢れてそのまま物質となったような涙を伴って、彼女は思いっきり泣いた。

 歌は拍手に、拍手は涙へと変わり、彼女との時間の大半を見守ってきたこの空き教室に喜びの音として響いた。

 俺はフッと笑って、弦華の手に触れた。

「……ははっ、せっかく渡したんだ、使ってよ」

「あ……」

 俺が促すと、弦華は両手で握りしめていたハンカチをそっと目元にあてた。

「……ねえ秀叶」

「ん?」

「ギュってしてもいい?」

「——!」

 弦華がその煌めく瞳を伏せながら、ためらうことなくそう言った。

 この瞬間、俺に思考らしい思考などなかった。ただ、俺にとっても彼女にとっても、それが必然のように感じられたから——

 俺は微笑みながら腕を広げた。


 ——タッ、バフッ。


 弦華の甘い匂いがした。その温もりが、今までのどの瞬間よりもはっきりと伝わってきて、その心に、感情に直接触れているような気がした。

 ——彼女と、一つになっているような気がした。


 ……ハンカチ、意味なかったじゃん。

 涙に濡れる自分の制服を誇りに感じながら、俺は薄笑いでそう思った。

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