第15話 「Polyphonic lines 3」

 ドリア旋法せんぽう——教会旋法きょうかいせんぽうと呼ばれる音階のうちの一つ。一般に旋律的せんりつてき短音階たんおんかいと呼ばれる音階おんかい第七音だいななおん半音はんおんげ、導音どうおんを無くしたものと同じ形の音階。

 現代ではゲーム音楽などでよく使われる音階で、その優雅ゆうがさや安定感、落ち着いた雰囲気などを活かして、「主人公の慣れ親しんだ田舎町いなかまち」や「ノスタルジックな雰囲気のある森」、「古い散歩道さんぽみち」などといった場所の音楽を作成する際に用いられる。

 もともと中世ヨーロッパで使われていた音階である『教会旋法』の中でも特に使われることの多いこの『ドリア旋法』は、懐かしい風景を思い出させる力が強いような気がしてとても好きだ。古い田舎町、懐かしい風景、優しかったお姉さん、消えることのない安らぎとその記憶——そんなものを描き出す。

 ——堂前凪月どうまえなつきは、そんなドリア旋法のイメージにぴったりの女の子だった。


     *


 土曜日。

 昨日、クラスの女子とベッドの上で至近距離で見つめ合うという高校生男子の一大イベントに遭遇した俺は、雑念だらけの脳をしずめるように説明的な思考を繰り返していた。

 あの後、弦華いとかとは連絡をとっていない。何かメッセージを送ろうとしたが、何を言ったらいいのかまったくわからなかったのだ。かといって、内容が内容だけに絵梨歌えりかに相談するわけにもいかなかった俺は、悩みに悩んだ結果——家を出て公園に向かっていた。

 公園といっても、近所の公園ではない。電車に乗り、別の駅に移動し、そこから徒歩十分ほどのところにある大きな公園である。近くには大学の名前がついた大きなホールもあり、時々、誰かが金管楽器きんかんがっきの練習をしているのが聞こえてくる。遊具ゆうぐは一部分にまとめられており、その敷地のほとんどが芝生と木々の生えた箇所とで埋め尽くされている。

 公園に足を踏み入れると、あちらこちらで子連れの家族が遊んでいるのが見えた。陽の光に照らされた新緑しんりょくと、小鳥のさえずりのような子供たちの高い声が温かい。

 俺はぐるりと公園を見回し、俺が入ってきた入口からは百メートル以上も離れた箇所で視線を止め、その近くにある石のベンチに向かって歩き始めた。

 芝を踏みしめながら、俺はそこに座る白髪はくはつの少女を世界の中心に据える。その少女の世界では、まだ俺は捉えられていないようだ。

 ——いつ気づくだろうか? そんな風にして、俺の足取りはいつもより少し愉快ゆかいだ。


「……おはよ!」

 なんと最後まで気づかれることなく接近できた俺は、最後にそう声を掛けて彼女の世界に割り込んだ。だがそれでも、彼女の視線は遠くの子供たちを眺めたままで、俺に見えるのは彼女の横顔だけだった。

「——わざわざ回り込んで横から脅かそうなんて……、君も案外いじわるだね」

 白の長い髪をまっすぐに下ろした少女は、俺に横顔を見せたまま、そう言って楽しそうに口を結ぶ。

「……いつから気づいてた?」

「最初からだよ。君がこの中央公園に入ってきたときからずっと、私は君に気づいてた」

 そう言って少女はようやくその顔をこちらに向け、透き通るような微笑みを見せた。

「相変わらずだな、凪月なつきは……。隣、座ってもいい?」

「どうぞ」

 そうして俺は、石のベンチに腰掛けた。


 彼女の名前は堂前凪月どうまえなつき一際ひときわ目を引く白髪をもち、それを胸の辺りまでまっすぐ伸ばしている。身長は一五〇センチとちょっとくらい。全体的に細く華奢きゃしゃな体つきをしており、その白く透き通るような肌も相まってまるで妖精のような雰囲気をまとっている。こうして見ると、鼻も高く目も大きい。色素の薄さは瞳の虹彩こうさいにも表れていて、どこかハーフっぽい見た目にもかかわらず、表情や声、仕草や化粧の仕方などは普通に日本の女子高生だから、そのギャップにドキドキしてしまう。実際、彼女は日本生まれ日本育ち。れっきとした日本人である。

 ……胸は弦華より少し小さいくらいか。

 ——などと考えて、俺は慌てて首を振る。

 凪月はフィナリス女学院に通う高校二年生で、俺とは一年前、自転車のチェーンが外れて困っていた彼女を、たまたま通りすがった俺が助けたことで知り合い、親しくなった。ちなみにフィナリス女学院とはこのあたりでは有名な女子高である。

 凪月はどこか浮世離れした不思議な雰囲気を持っていて、俺にとってはよき友人であり、大切な相談相手である。俺が『秀叶』の活動について迷っている時も、当時の俺にとって大切な言葉をくれたのも彼女だった。


「……ありがとう、突然のお願いに応えてくれて」

「フフ、いいよそれくらい。——それで、今日はどうしたの?」

 これまでと同じように、優しく温かいトーンが返ってくる。それはまるで夏の木陰のように、駆け出したくなる秋の日の午後のように、俺の心の緊張をほどいていく声だった。

「……凪月って、ドーナツ好きなの?」

「好きだけど……、どうして?」

「ラインの名前。最後にドーナツの絵文字入ってるから、何かこだわりがあるのかなって思った……」

「ああ、あれね。あれは私のあだ名からきてるの。私、学校じゃドーナツって呼ばれてるから」

「ドーナツ? なんで?」

「どうまえなつき、っていうフルネームの名前と苗字から二文字ずつとってきて、『どうなつ』。イントネーションも色々あって、『ドーナツ』って呼ぶ人もいれば『大福』と同じイントネーションで呼ぶ人もいるんだ」

「どうなつ……、それでドーナツか。面白いニックネームだな。俺も使おうかな」

「君には、今の呼び方のままでいて欲しいなぁ……。今となっては貴重だからさ、私を名前で呼んでくれる人は」

「ハハッ……」

「——それで、覚悟は決まった?」

 凪月が先ほどとまるで変わらないトーンで、変わらぬ笑顔でそう言った。

「もちろんこのまま君と楽しいお喋りを続けるのだって、私は大歓迎だよ。でも、せっかくこうして同じ時間に居合わせたんだもん。私は、君の心に少しでも近づきたいな。それはきっと、君も同じでしょ……?」

 凪月はそう言って、そっと俺の膝に手を置いた。

 ——ったく、本当に凪月は……。そんな風に、そういうことを平然と言ってのける。

 だが凪月のそれは、下手な計算や異性間いせいかんで行われる駆け引きのたぐいではない。それはもっと純粋な、彼女の人に対する態度の表れなのだ。——それがわかる。

 人の行動を見て卑しさを覚える時、そのいやしさは自分の内にも存在している。それは自分が知っている・もしくは抱いたことのある卑しい思考や感情を、他人の行動の中に見いだしているということだから。そして人は、そのことをどこかでは理解している。

 ——だからわかるのだ。自分の中にはない原理で動いている者を見ると、直感的にそれがわかる。どういう原理が、思考が感情が、その人の中に流れているのかを理解するまでには至らない、ただ、それが自分の内に流れるものとは違う、ということだけは強く理解できる。

 俺が凪月に感じるのは、まさにそれだ。

 そんな凪月だから、彼女だから、俺は話せることがある——


「……ドーナツでも食べながら話したかったな」

「あれ? 君、もしかして私のことをいじってる?」

 少女は、嘘か本気かわからないジト目で俺を見る。

「冗談だよ、凪月。……実は俺、少し前からある女の子の手伝いをしててさ——」

 それから俺は、弦華に声を掛けられたあの日からの出来事を凪月に話した。昨日の出来事だけは簡略化して。

「——それで、彼女が俺の正体を知っていたことがわかったんだ。……彼女が作っていた曲は実は、俺にメッセージを届けるための曲だった。それで、彼女は俺に、『歌ってほしい』って言ったんだ……。だけど、俺はその言葉から逃げ出してしまった」

 俺は改めて、昨日の出来事を思い出し苦しくなる。

「わからないんだ、どうしたらいいのか! 彼女の想いは痛いほど伝わってきて、その行動はどこまでもまっすぐで……、それを見て、俺も自分が変わっていくのがわかる。——だけど怖いんだ! 彼女の前で歌った時、俺の中に生まれるのが辛い感情だったら、嫌な感情だったら……。そう考えると怖くて、どうしたらいいかわからないんだ……」

 そこまで口にして、俺は改めて横に座る少女の顔を見た。

 堂前凪月は静かに優しく微笑んで、けれどどこか寂しげに、俺の話を聞いていた。

「……君たちはとても素敵な時間を過ごしてきたんだね。そして今も、その最中にいる……。羨ましいな」

 一滴のしずくが太陽の光にきらめきながらしたたり落ちるように——凪月の声が、この空間に小さな波を起こす。

「……どうしたらいいのかわからない、って言ったね。——わかってるよ、君は。今は心のノイズの主張が強くて、聞こえてないだけ。耳を澄まして、一番まっすぐな声を聞くの。それが君の望みで、きっと君の答えだから」

「声……」

 俺がぽつりと呟くと、凪月はフッと笑って口を開いた。


「——こころこえを聞く方法を教えてあげる。それはね……このまま死んでもいいって思っているのか、このままじゃ死ねないと思っているのか、自分の胸に問うことだよ。……大抵のノイズは、君からその答えを隠すためにあるだけなの」


 その瞬間、俺の中に風が吹いた。それは立ち込めたきりを晴らすような、すがすがしい突風だった。

 このまま死んでもいいのか、このままじゃ死ねないのか、か……。

 ——愚問ぐもんだな。

 死ねるはずがない。このまま終わらせるわけにはいかない。


 ——俺は変わりたいのだ。それが俺の本心だ。


 そう気づくとどうだ? 俺の中にある逃げのための口実、恐れ、それらのノイズは全て、『変わりたいと思っている自分』の存在を逆説的に強めているものでしかないと気づく。

 ——もう、迷いはない。


「……うん、もう大丈夫みたいだね」

「……ありがとう、凪月」

 俺は晴れやかな笑顔に心をのせて、目の前の白髪の少女にお礼を告げた。

 そうして俺たちは立ち上がり、その後は公園を回りながら普通のお喋りをした。


 ——これが堂前凪月。

 いつでも俺に、特別な示唆しさを与えてくれる存在。

 それを必要としている時にしか出会うことができない、湖の妖精のような存在。いつか映画で見た、森に住むオバケのような存在。

 彼女を想うとき、俺の中にはいつも不思議な色がある。それは優しく温かく、同時に切なくはかなげだ。


 ——そんな彼女の存在を、音にするにはまだ早い。

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