第14話 「Polyphonic lines 2」

 私——一ノ瀬弦華いちのせいとかは、恥じていた。

 なぜあんなことを言ってしまったのだろう。

 電車の中でも最寄駅から自宅まで歩いている間も、頭の中によぎっていたのは沢山なみだを見せてしまったことへの恥ではなく、最後に秀叶しゅうとに言ってしまった一言だった。


『——そんなつまらない逃げ方しないで‼』


 私の中で、思いつく限りの酷い言い方をした。私を信頼し、おそらくごく限られた人にしか話していない自分の秘密を話してくれた彼に対して、私は酷い言葉をぶつけてしまった。そのことが、私をひどく混乱させていた。そういった行動をした自分が……、自分だとは信じられなかった。

 『またね!』なんて都合のいい言葉を最後に残したのは、せめてもの埋め合わせだ。

 本当に、なぜあんなことを言ってしまったのだろう。

「……はぁ」

 寝っ転がっていても気分が上がらず、私は自分の部屋のベッドから降り、近くにあるデスクの前に座った。椅子は高校生になってから新しくしたが、机自体は私が小学生の頃から使っている。ずっとそばにあった愛着のある机に触れることで、少し気分が柔らかくなったような気がした。『そんなこと言ったら、ベッドなんかもっと前から同じの使ってるよね?』とか言われたら上手く言い返せない。私はそういうことを言いたいんじゃないのに。秀叶は言うかな? 絵梨歌えりかは言いそうだな、なんとなくだけど。

 ——なんて、ふと気づいたらまた秀叶のことを考えている。

 私はスマホを取り出してYouTubeを開き、イヤホンを耳につけた。

 私は手慣れた手つきで、目当てのチャンネルまで移動する。

 『秀叶』——チャンネル登録者数二万人、公開された動画数八本、もちろん私は登録済み。さっとスクロールすると、最後にアップされた動画のサムネが目に入る。

 ——【お知らせ】秀叶、活動休止について

 私は胸を圧迫されたような感覚に襲われる。

 改めて思うと、不思議なことだ。私はこの数日間この彼と一緒に過ごし、今日、明かされていない活動休止の理由について、直接彼から聞いたのだ。


『——っ、嫌になったからだ! 人に否定されるのが! 人に意見されるのが!』


 秀叶はそう言っていた。自分にとっての歌というものが揺らぐのが嫌で、人から軽視されるのが嫌で、もう人に自分の歌を聞いて欲しくない、と思ってしまったのだと。

 ——でも、と思う。

 現在公開されている動画は八本。これまでこのチャンネルで公開されてきた動画も八本。少なくとも、私の知る範囲では。

 一本も、非公開にはなっていない。あんな風に言っておきながら、一本も自分の歌を取り下げてはいない。活動休止から時間が経った今だって、動画は再生されるだろう。本当にもう見られたくないのなら、チャンネルごと削除したっていいはずだ。

「……秀叶だって、嘘つきだよ」

 私は気付けばフッと笑っていた。

 そのまま画面をスクロールすると、一本の動画が目に入る。私はいちど深呼吸を挟んでから、それをタップした。


『——俺、人の顔を思い出せないんだ。』


 今日、秀叶が言っていたことが頭をめぐる。

 それと同時に、ギターの暖かい音色で短いイントロが奏でられる。

 もう何度再生したかわからない——『影』のミュージックビデオだ。


『……俺、父親を亡くしててさ。中学二年生の時に』


 秀叶の言葉が、曲の歌詞と重なる。

 大切な人、それを失うことの悲しみ、それでもその人を想う歌。


『だから当然、俺は父親の顔が思い出せない』


 そんな意味だとは思わないじゃん。

 夢の中ですら、大切な人と再会することが叶わない。そんな切ないことがあるなんて、そこまでだとは思わないじゃん。


『俺の中にいる父さんはいつだって父さんなのに、いつだって何かが足りない。欠けてるんだ、俺の中で。父さんを想うたび、それを実感する』


 そんなの、絶対に辛い。少し想像するだけで、自然と目の奥が熱くなる。胸が苦しくなる。寂しくて、怖くて、どうしたらいいのかわからなく——


『——だから俺は、歌を歌った』


 涙がポロッとこぼれて、愛着のあるデスクに落ちた。


 ——ああ、やっとわかった。なぜ秀叶の歌がこんなにすごいのか。

 そんな気持ちで歌っていたからなんだ。

 上手く言えない、説明できない。でも、感じる。

 秀叶にとって、歌は歌じゃない。叫びが歌なんだ。命が歌なんだ。


 聞こえてくる言葉、旋律、その全てがこれまでとは違って聞こえる。

 その一言一言、ワンフレーズワンフレーズが、私の涙腺るいせんを刺激する。心を震わせる。


 ——このココロが、歌になればいい フッとこぼれるメロディーに

 ——たとえあなたを忘れても、あなたをえがく、歌となれ

 ——あなたのカケラを、歌として


 聞き終わった時、私の頬は涙でいっぱい濡れていて、けれどなぜだか胸がスッと透明になったようで、私は自分の中のモヤモヤが晴れているような気がした。


 ——不思議だな、音楽って。

 私は画面から目を離し、イヤホンを耳から外すと静かに立ち上がった。そのまま部屋の窓を開け外を眺めると、二階の窓からは広い空が見えた。ところどころにただよう厚い雲の隙間からは、楕円形だえんけいのお月様が顔を覗かせている。四月の終わりの夜風はまだ少し冷たく、それが火照った身体に心地よかった。


「……明日、話せるといいな」

 私は乾いていく涙を感じながら、いつまでもその景色を眺めていた。


     *


 ——キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン。


 俺——野中秀叶は、遅刻ギリギリで教室に滑り込んだ。ちなみにわざとである。

 昨日、なんやかんや弦華と色々あった俺は、とてもじゃないが弦華と話せる心境ではなかった。気まずかった。何を話したらいいのかわからなかった。

 これまで人前で弦華が俺に話しかけてきたことは一度もなく、あるとしても朝のホームルーム前の友達がまだ来ていない時間だけ。それも廊下ですれ違った時に軽く、程度だ。つまり、この時間さえ乗り切ればもう今日は彼女から話しかけてくることはない。そのために俺は、わざわざいつもの空き教室——は遭遇する可能性があったので、いつもとは違う空き教室で時間を潰してからこうしてホームルームの教室にやってきたのだった。

 一限目は数学、移動教室はない。担任の先生が教室から出ていくのを見届け、俺は机から数学の教科書を取り出した。

 ふと、斜め前の席の絵梨歌と目が合った。彼女はわずかに微笑んで席を立ち、こちらに向かって歩いてきた。


「——おはよっ、秀叶!」


 予想外の方向からの想定外の声に、俺は驚きを隠さない表情で振り返った。

 そこには、制服姿の——学校での姿の弦華が立っていた。

 これまで一度だって、弦華が教室で話しかけてきたことはなかった。慌てて弦華の背後に目をやると、弦華の友達が——あのとき遭遇した女の子たちを含む——が、物珍しげにこちらを見ている。パッと視線をパンさせると、絵梨歌が面食らったような顔をして固まっていた。

「……秀叶?」

「——あっ! おはよう、弦華……。珍しいね……」

 俺が気まずそうにそう言うと、彼女はそれを承知していたように「エヘヘ」と笑った。

「どうしたの? 何かあった?」

「——放課後!」

「え?」

「昨日撮影が終わったんだから、今日から編集でしょ? 私わからないこと多いから、一緒にやって教えてよ!」

 彼女は嘘みたいに天真爛漫てんしんらんまんな笑顔でそう言う。

「あ、編集ね。わかった……、やろうか。あっ、でも今日パソコン持ってきてないや」

「——いいよそれで。私が秀叶の家行くから」

「——えっ!」

 俺は大きな声を漏らし、即座に口を塞ぐ。そのまま周囲を見回すが、幸い特に変わった様子はない。

 ——周囲の人間に聞かれたらどうすんだ⁈

 俺は目で弦華に訴えるが、弦華はいつもの悪戯いたずらっ子の表情で応えた。

「というわけで、放課後! 約束ね!」

 そう言い残して、弦華は足早あしばやに友達のところへ戻っていった。じっと見守っていた弦華の友達は何やら楽しそうに弦華を向かい入れていたが、俺の内心はそれを気にしてるどころではなくなっていた。

「…………秀叶くん?」

「あ、絵梨歌——ひっ⁈」

 顔を上げると、そこにはにこやかな笑顔の絵梨歌が立っていて、それはなぜだか普段の怒っている顔よりも怖く見えた。

 こうして俺は、昼休みをなぜかプンプンした絵梨歌のご機嫌取きげんとりに費やし、放課後、二度目のおうちデート(?)を迎えるのだった。


     *


「——お邪魔しま〜す」

 何度聞いても慣れないものだ、自分の部屋に響くクラスの女の子の声というのは。

 ——まだ二度目なのだから当然か。

 放課後、弦華は約束の通り、MVの編集作業のために俺の家にやってきていた。

 前よりも少し片付いた部屋を弦華が興味ありげに眺めている。前回来た時、彼女は俺の正体を知らないふりをしていた。その枷が外れたことで、弦華の行動はずいぶん大胆になっていた。

「……ねえねぇ、前回来た時から気になってたんだけど、これが秀叶のギターってことだよね? ちょっと弾いてよ!」

「……ついでに歌えとか言うだろ?」

「バレたか……」

「ったく、編集するんだろ? さっさと始めようぜ」

「あ、話らした! もう……、秀叶のケチ!」

「……うっせ!」

 そんな軽口を叩いて、俺たちは編集の作業を始めた。俺が自分の椅子に座りパソコンを操作して、弦華が横から色々言うという形だ。弦華の椅子は、別の部屋から持ってきた。

 サラッと流したが、俺と歌についての話を軽口のネタにできたことには内心ホッとしていた。触れちゃいけない話があるというのは、お互いなんとなく気まずいものだから。

 俺はこれまで撮ってきたMVの素材となる映像を全てパソコンに取り込み、動画編集ソフトを立ち上げる。それからまずは、絵コンテの通りに元尺のままの素材を並べ、その下に演奏の音声トラックを置いた。

「……ひとまず、音楽に合わせて長さを調整するか。弦華、どこを切り取るか、なんとなくでいいから指示をくれ」

「うん、わかった! じゃあまず冒頭は……」

 映像の編集には時間がかかる。作曲や録音、制作の作業はなんでもそうなのかもしれないが、映像もまた多くの時間と高い集中力が必要になる。特に、ずっと向き合っていると——何が正解がわからなくなる、細かいところが無性むしょうに気になってしまう、それがなかなか解決されない、という三つのアリ地獄が現れ、それが俺たちを苦しめる。そこで求められるのが判断力、選択する力、そしてイメージをカタチに落とし込むことを忍ぶ覚悟なわけだが、この役割は九割がた弦華が担ってくれた。当然と言えば当然なのだが、弦華が判断や指示を出し、俺はそれを編集ソフトの操作を通して形にすることに専念せんねんした。ゆえに、実は横から指示しているだけに見える弦華も十分にエネルギーを消費していて、二時間ほど経ったところで俺たちはほぼ同時に休憩を取ることを提案したのだった。


「はい。お茶だけど、良かったら……」

「わ! ありがと〜! ……あ〜生き返る〜!」

「ふう……。来るとき、何かお菓子でも買ってこれば良かった」

「ふふふ、そういうと思って……、ジャジャーン!」

 弦華はリュックから筒に入っているタイプのポテトチップスを取り出し、得意げな顔をする。

「——え! それ、いつ買ったの?」

「フフフ、家から持ってきた! 何か差し入れ買っていこうと思って。食べよ!」

「ありがたい……、食べよう!」

 俺たちは弦華が買ってきてくれたポテチと、なぜか一袋だけ家に残っていたポッキーを机に並べ、休憩に入った。集中してエネルギーを欲していた体と脳に、スナックの塩分と糖分がやたらと沁みた。

 編集自体の進捗度しんちょくどとしては、およそ半分くらい。動画と演奏の長さが揃い、各カットの長さ調整もある程度完了、そこからさらに各カットの画をトリミングしたり、エフェクトをかけたりする作業を進めていたところだ。これが終わればテロップで歌詞を入れる作業、さらに仕上げの微調整びちょうせいなどをして完成ということになる。かなりのハイペースである。

 時刻はもう十九時近い。ぶっちゃけ、休憩などとは言わずに解散にすべきだった。母さんは仕事で帰るのが遅いので親と遭遇してしまうということはないが、今の疲労具合ひろうぐあいから見ても、今日はもう切り上げて続きは明日以降という形にした方が良さそうだ。

「弦華、今日はも——」

「——秀叶はさ、絵梨歌のことどう思ってるの?」

「え?」

 解散を切り出そうとした瞬間、弦華が意外なことを聞いてきた。

 俺は驚いて弦華の方を見るが、当の本人はミニテーブルの上に置いてあるお菓子に手を伸ばしている。

「……どういう意味だよ」

「別に……、言葉通りの意味。秀叶って絵梨歌とよく話してる印象あるし、一年生の頃から一緒のクラスで仲良さそうだし、秀叶にとって絵梨歌ってどんな存在なのかな〜って」

 弦華は相変わらずこちらを見ずに、ポッキーをサクサクやりながら尋ねてくる。

「どんなって……、普通に友達だよ。色々相談に乗ってくれるし、話してて楽しいし、確かに一緒にいることは多いけど、普通に友達だよ」

 俺は事実に近しい部分だけを抜粋ばっすいして言葉にする。下手な憶測おくそくで、まだ言葉にしてはいけないことを言葉にしてはいけないと思ったから。

 いつの間にか弦華はこちらを向いていて、なんともいえない表情で俺を見ていた。

「ふ〜ん……、そうなんだ」

 そう言って彼女は視線を切る。

「……じゃあさ、わた——」


 ——カタンッ


 テーブルからはみ出た弦華の空のコップが床に落ちて音を立てる。

「あっ! ごめん!」

「いや、大丈夫。弦華こそ大丈夫か? 濡れてない?」

「あ、うん。大丈夫」

「良かった。……それで、何か言いかけてなかった?」

「あ……。え〜と、さ……」

 バツが悪そうな顔の弦華に、俺は首をかしげる。

「……私が初めて『秀叶』の動画に出会ったのは、中学三年生の頃だったんだよね」

 ふいに弦華は、語り始める。

「当時の私ってさ、夢とか目標とか、強い情熱みたいなのあんまり持ってなくてさ、進路とか言われてもよくわからなかったし、毎日楽しかったけど、同じくらい毎日がつまらなかったんだよね」

 俺は黙ったまま相槌を打つ。

「そんな時、『秀叶』の動画に出会ったの。その歌を聞いて、私は衝撃を受けた! 世の中には、こんなに熱い生き方があるんだって初めて知った! この人は、私が生きてきた毎日とは全く違う温度で毎日を生きてるんだってわかった! その姿を想像して、私は自分の毎日がどんなに退屈なものだったかに気づけたの。……私もこんな風に生きてみたい、日々の楽しみを手放してでも何か一つのことを成し遂げるような、そんな熱い情熱を持って生きてみたい! って、そう思ったの」

 弦華の目があまりにキラキラしていて、俺は少し目を逸らした。

「それからギターを始めて、弾き語りの練習を始めた。気づいてないと思うけど、私、高校合格した時に『秀叶』に文章でメッセージ送ったりもしてたんだよ?」

 弦華はケタケタと笑う。

「……だから、さ。『秀叶』が活動休止って言った時には、結構ショックを受けたんだ。結構っていうか、かなり? 『なんで?』って、『戻ってきて!』って、何度も何度も思った。……でもそのうち、そんな風に駄々こねるのはやめたの」

 弦華の声に、熱が宿る。

「『秀叶』から熱い炎をもらった私が、簡単なコメントなんかで『秀叶』に尋ねるのは違う、想いを伝えるのは違うって思った。もっと強烈に、真っ直ぐ胸に届くやり方じゃないと、って。だから私は、私があの時どうしようもなく打ち震えたように——」

 弦華はどこか遠い日を見つめながら、言葉を紡ぎ出す。


「——歌で想いを伝えることにしたんだ」


 この瞬間だ。この瞬間、俺の頭の中にブワッと一つのメロディーが流れた。

 それは、始まりの日に聞いた歌。その日からずっとそばにあった歌。

 ——今、繋がった。

「じゃあ、それが……」

 きっと俺はさぞかし驚いた顔をしていたのだろう。そんな俺を見た弦華が、フッと意味ありげに笑い——

「——そう、それが『聖火せいか』だよ」

 そう言って、嬉しそうに笑った。

 俺たちがMVを作成している曲。弦華が初めて出かけた日に聞かせてくれた曲。俺が弦華を手伝うことを決めたその曲——タイトルは、『聖火』。


     『聖火』 作詞作曲:弦華


 パッと光が差して、バッと私は立ち上がった

 ねえ、あなたは知らないでしょ

 あなたの火が、ここにあること


 始まりはあの時あのビデオ

 今思えばそれは奇跡で、私は世界に光を見る

 終わりは突然、またビデオ

 理由も告げずに去るあなたは、一体どんな、顔してただろ


 辛かったの? 苦しかったの?

 嫌になったの? ああ!

 無責任なあなた


 パッと光が差して、バッと私は立ち上がった

 ねえ、あなたは知らないでしょ

 あなたの火が、ここにあること


 アッと気づけばすでに、ラッと私は歌っていた

 ねえ今あなたに伝えるよ

 あなたの火がまだ消えないこと


 私の火、あなたに届け。


     *


 実際にはほんの数秒間。しかしその間に、俺の中ではその全てのメロディーが、歌詞が、あざやかに色づいてフラッシュバックした。

 ——そうか、そうだったのか。

 俺は全能感ぜんのうかんにも似た驚きに全身を委ねる。その背後では、弦華と初めて話をした瞬間から今日までのすべての時間が高速で再生され、そこに隠れていた本音を鮮やかに照らし出していた。

 初めて会話した時のことを思い出す。俺が、歌のテストで聞いた弦華の歌を褒めたんだ。それを弦華は、なんだか不本意ふほんいそうに受け止めていた。今にして思えば、あれは悔しさだったんだろう。自分が聞かせたい歌は別にあるのだと、胸の中で叫んでいたのだ。だから翌日、俺を呼び出した。そして俺に、『聖火』を聞かせた。

 それからの日々、何気ない言葉の数々が、答え合わせされたように繋がっていく。

「……驚いた?」

 目を見開く俺の前で、弦華がしたり顔をしてそう言った。

「……最初から全部、この時のためだったってわけか。俺にこの歌を聞かせるため、そして弦華のメッセージを届けるため……。……すげえな、大成功じゃねぇか」

 俺が半笑はんわらいでそう言うと、弦華は「ううん」と首を振った。

「違うよ。私の目的はもう一つ先にある……」

 真っ直ぐ俺を見つめる凛としたその瞳を見て、俺は身を固める。

 口を開かずとも、弦華が何を言おうとしているのか、俺にはわかった。

「……弦華、それは」

「——わかってる、ちゃんと聞いてたもん。けど、それでも、私の願いは今も変わらない。そのたった一つの願いのために、この曲を書いたんだから」

 覚悟の決まったその目を前に、覚悟の決まらぬ俺は顔をそらす。

 そんな俺を見て、弦華は黙ったまま立ち上がり、本棚の前に置いてある俺のギターを手に取った。


「——ねえ、歌って?」


 差し出されたギターに、俺は沈黙と不動ふどうで応える。

 ——何も感じていないわけじゃない。決して長くはないけれど、それでもこの一週間と少しの間、そばでその姿を見てきた。自分の作った歌のため、頑張る姿を見てきた。

 ——そして今、そのすべてが自分に向けたものだったと知った。

 ——わかってる、もちろんそれは彼女自身のために行われていたことだ。それでも俺は、何かを感じる心を無視することはできなかった。

 だがそれでも俺は——

「……すまん」

 それでもまだ、臆病おくびょうなままだった。


 想いに応えられなくて、すまん。

 憧れた姿がこんなに臆病な男で、すまん。

 今なお泣き出しそうに震えている手に、気付かないふりをして、すまん。

 俺はもう、顔を上げることができなかった。


「……そっか」

 長い沈黙の後で、弦華はそう呟くように言って背を向けた。寂しげにギターを元の場所に戻す背中を、俺は黙って見ていた。

「あっ!」

 ——その時、弦華が床に落ちていたタオルで足を滑らせバランスを崩した。

「——弦華!」

 俺は反射的に立ち上がり、倒れる彼女を支えようと一歩を踏み出す。

 ——だが現実は、物語ものがたりの中とは違う。足を滑らせた女の子を、主人公の男が優しく支えるなんて、とんだ妄想だ。現実の女の子は、もっとずっと強い。男の支えなどなくても、足を滑らせた程度で転びはしないのだ。

「おっとっと」

 弦華は驚いた顔だけを残し、すでに自立している。もう誰の助けも必要ない。

 ——あとには、勢いをつけすぎた俺の身体だけが残った。


「——キャッ!」

 ——バフン!

 足をもつれさせた俺は、そのまま弦華に衝突。不意ふいをつかれた弦華は、その衝撃でバランスを崩し、二人揃ってそのままベッドに倒れ込む形となった。

 れた自分のベッドの匂いに、明らかに異質の甘い香りが混じる。

「——あっ! すまん!」

 俺は慌てて手をつき、身体を起こす。

「あ……」

 そして直後、目の前の光景に動きを止めてしまった。

 両手をベッドにつき上体を支えている俺の目の前には、ぱっちりとした目と柔らかな唇がある。普段は重力に従って真下に流れている髪が、ベッドの上で乱雑らんざつに広がっている。吐く息が届くような距離にあるその肌は、近くで見ると余計にすべらかで、思わずもう少し近づいて見てみたくなるほどだ。第一ボタンを外したワイシャツの隙間から見える首元は、これまで見てきたそれとは別次元の色気いろけがあり、それと同時につい数秒前に胸の辺りに感じた柔らかい感触を思い出す。わずかに赤く染まるその頬があまりに可愛らしく、周囲を包む甘い香りは、理性という壁をゆるやかに溶かしていくようだ。

「えっと……」

「…………」

 不思議なことに、弦華は何も言わなかった。ピクリとも動かなかった。男子の部屋で、そのベッドで、完全に押し倒された状態になっているのにも関わらず、それを受け入れているようにも見えた。

「……す、すまん!」

 俺はそう言って、慌てて弦華から離れようとする。

「——待って」

 瞬間、弦華がそんな俺のワイシャツを掴んだ。それにより、ベッドから起きあがろうとした俺の動きが止まる。

「い、弦華……?」

「……このままでいい」

 信じられないようなその言葉に、俺は心拍数がみるみる上昇していくのを感じる。

「……よくないだろ。……離してくれ」

 心臓が理性の壁を打ちつける中、俺はかろうじて声を出す。

 だが弦華は一向にワイシャツを握る手の力を緩めず、むしろ真っ直ぐに、その凛とした瞳を俺に向ける。

「……嫌だ」

 わずかな衣擦きぬずれれの音と共に、彼女の拳の力が強くなる。

「なにを……」

「……歌うっていうまで、離さない」

「——っ‼︎」

 俺はいよいよ、息が詰まったような感覚におちいる。いくら息を吸っても、酸素が足りない。呼吸が荒くなっているのがわかる。これじゃまるでさかった獣だ。すぐに抑えなければ。——だが、視界が白くぼやけていくようで、どうしてもそれがうまくいかない。

「……弦華、やめろ」

「っ! 歌うって言うまで、離さないから……!」

「……それじゃあ、歌う方がそんだ」

「——っつ……‼︎」

 俺の言葉にいよいよ弦華は目をそらし、顔を逸らした。

 それを見て決着を感じた俺は、平静へいせいよそおうようにゆっくりと起きあがろうとして——彼女の手に引き止められた。弦華の手は、まったくその拘束力を緩めていなかった。

「——じゃあ、」

 俺が驚いたその瞬間、彼女は小さく口を開いた。

「……歌ってくれたら、もう少し……、近づいてもいいよ……」

「——っつ‼︎」

 反射的に、俺の視線は彼女の首元へ、そしてそのさらに下の、ふくよかな膨らみへと向けられる。わずかに乱れたワイシャツの上からでも認識できる魅惑的みわくてきなエネルギーを放つそれは、普段は教室の遠くにある膨らみ、決して近づくことができない、望んではいけない不可侵ふかしんの領域。それが今、少し手を動かせば触れられる位置に、あらわにも横たわっている。

「……弦華、それは……」

 気づけば荒ぶる俺の呼吸に、もう一つ別の音が混ざっている。見ると、弦華は顔を耳まで真っ赤にして、目を逸らしたまま肩で息を切っている。もはや隠すことのできないその激しい呼吸のたびに、あらわになった胸が大きく上下する。

「——っっっ‼︎」

 頭が活性化かっせいかしすぎて変になりそうだ。呼吸があらく、身体も熱い。正直に言えば、身体の方はすっかり準備万端だ。

 近づいてもいい? それはつまり、この肘を曲げ、その身体にこの身を預けてもいい、ということか? このベッドに押し付けられた手をわずかに逸らし、その赤く染まる頬に、汗ばむ首筋に、無防備になった胸に、触れてもいいということか?

 ——飲み込んだ唾で、喉がゴクリと鳴る。

 心臓の音がうるさくて、時間の感覚がじ曲がる。

 目の前に、すべてがある。

 たった一言、その一言を言えば、全てを解放できる。

 目の前に横たわる少女の、誰も知らない姿を見ることができる。

「……ね、どうする?」

 弦華がためらいがちに、横目でこちらを見て尋ねてくる。

 俺の頭の中はもうぐちゃぐちゃで、思考そのものが吹き飛びそうな鼓動の轟音の中、膳食ぜんくわぬは男の恥だとか、もういいんじゃない? とか都合のいい言葉が飛び交っているのが聞こえて——俺は、自分の腕から力が抜けていくのを感じた。

「——っつ!」

 弦華が鋭く息を漏らす。その顔が少しずつ近づいていく。

 俺はこの身をあふれる衝動に委ね、そのまま片手で彼女に触れようとして——


「——違う‼︎ こんなの……、間違ってる‼︎」

 そう言って弦華の両手を振り払い、部屋から飛び出した。


「——ハァハァハァ……!」

 一階まで降りて、乱れた呼吸を整えるのにたっぷり十五分をかける。

 やがて玄関から誰かが出ていく音が聞こえたのを合図に、恐る恐る部屋に戻った。

 部屋に戻るとそこにはもう弦華はいなくて、ただ、机の上に「ばかっ」と書かれた紙が置いてあった。

「——はぁ〜……」

 俺は大きなため息をついて、その場にかがみ込んだ。


 部屋にはまだ、甘い香りが残っていた。

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