第13話 「Polyphonic lines」

 ——最初から疑いはあった。

 けれど、いつまで経ってもその話題は彼女の口から出てこなかったから、俺はそのうち信じるようになっていた。

 ——一ノ瀬弦華いちのせいとかは、俺の正体に気づいていないのだと。

 たとえ彼女が『秀叶』の動画のスクショをロック画面に設定するほどのファンでも、俺の歌声を空き教室で聞いてしまっていたとしても、なぞに録音機材が揃っている部屋を見ていたとしても、それでも彼女は俺の正体に気づいていないと、そんな幻想を盲目的もうもくてきに信じてきた。そう信じて、接してきた。

 しかし今、そのきりが消え去った。弦華は宣言した、俺の正体を知っていると。

 ——俺がシンガーソングライター、『秀叶』であると。


     *


 ゆっくり話せる場所が欲しかった。周囲に人がいなくて、それでいて雰囲気がいいところ。公園なんかがあれば一番良い。

 俺がそう言うと、弦華は少し歩いたところに公園があることを教えてくれた。

 俺たちはそこへ向かうために川沿いを歩いた。その間、一言も喋らなかった。


 その公園は、時間帯もあってかとても静かだった。

 俺たちは手頃なベンチに腰掛け、探り合うように沈黙を続けた。

 先に行動を起こしたのは弦華だった。彼女は「はい」と言って、そういえばずっと持たせたままになっていたサイダーの缶を一本、俺に差し出してきた。お礼を伝えながら受け取ると、缶にまとわりついた水で手が濡れた。

 ここが切り口だと思った。だから俺は、なんでも良いから口を開こうとして、ふと気になったことを口にした。

「——そういえば、撮影が終わったら教えてくれるって言ってたよな、撮影場所を成城学園せいじょうがくえんまえにした理由! 結局それは何だったんだ?」

「あ、そうだったね! ここを選んだ理由はね……、私が秀叶に初めて出会った場所だったからだよ。私はここで初めて、『秀叶』の動画を見たんだ」

 弦華はいつもように元気よく、はっきりとそう言った。何かが明確に変化したはずなのに普段と変わらぬ真っ直ぐなその言葉が、俺にはとても恐ろしく感じられた。

 もう逃げるつもりはない、そう言われている気がした。

「そっか……。弦華はやっぱり、俺のことを知ってたんだな」

「うん。あの空き教室で歌っているのを聞いた時、わかったの。最初は全然信じられなかったよ! だって高校なんて日本にい〜っぱいあるのに、そんな奇跡ある⁉︎ って。だからすごく緊張した! なんて話しかければいいかわからなくて、それでもどうしても話したかったから……、声を掛けたんだ、ただのクラスメイトの女の子として。それで……」

 弦華は何かを言いかけて、それから一度視線を外した。

「——ずるいね、私」

「……なにが?」

「本当は最後まで聞くつもりなんてなかった……。歌で届けようって、そう決意してたはずなのに」

 弦華はうつむいて、涙を流してそう言った。突然の涙に、俺は困惑する。

「……私ね、本当に『秀叶』の歌が好きだったの。だから、活動休止って言われた時、本当にショックだった。『なんで?』って、『戻ってきて!』って、何度も何度も思った。コメントでメッセージを送ろうかとも思った。けど、それじゃ届かない、伝わらないって思ったの」

 弦華は涙を拭い、再び俺の方にその顔を向ける。

「私が心の底から憧れた『秀叶』は、歌にすべてを賭けてた。なら私も、歌で伝えようって! そう思って、曲を作り始めたの。……なのに」

 再び、彼女の目に涙が浮かぶ。その拳が強く握りしめられる。

「——なのに私は、ズルばかりしちゃった! 『秀叶』に届くくらいすごい曲を作って、それで証明したいって思ってたのに、秀叶に出会って、直接歌を聴かせて、今もこうして直接、言葉でやり取りしてる……。私が憧れた姿は、こんなことしないはずなのに‼︎ 歌の力で、すべて成し遂げていくはずなのに‼︎ なのに、私はぁ……!」

 弦華は鼻を赤くして、下唇を噛み締めながらそういった。


 ——あぁ、やっぱり彼女はまっすぐな子なんだな。

 俺は、心の中でそう思った。

 そんなに涙を流すほど、苦しくて悔しいんだ。言葉にならない想いを歌にして届ける、そんな歌い手としてのあり方に、それだけ強く自分の身を置いてるんだ。それが揺らいだことが、こんなにも悔しいんだ。悲しいんだ。

 俺はきっと、そんな弦華だから——


「……MV作りを手伝って欲しいって言われた時さ、ほんとは断ろうと思ってたんだ」

「え……?」

「正直に言うと、怖かったんだ。俺にとって歌は特別なもので、そんな大切なものを踏みにじりたくなかった。もし適当な歌を歌われて、それを認めなきゃいけなくなった時、俺はすごく苦しくなるってわかってたから。だから、断ろうと思ってた。——でも、それを変えたのは弦華の歌だったんだ」

 俺は視線を外し、正面の空を見上げる。

「——あの時、弦華の歌を聞いて、俺は『似ている』って思った。弦華の歌は、心とか魂とか願いとか、そういうかけがえのないものがいっぱい宿ってて、歌にすべてを込めてるってわかった。だから、俺は手伝うって決めたんだ」

 再び視線を戻すと、弦華は目を丸くしていた。なんだか間抜けにも見えるその顔が新鮮で、俺はフッと笑いながら口を開く。

「だからさ、弦華。弦華はちゃんと、歌で道を切り拓いてたよ。俺の心を動かしたんだ。あの歌があったから、俺は今日まで一緒に活動してきた。あの歌があったから、俺は今ここにいるんだよ」

 弦華は唇をギュッと締めて、何かをこらえるように顔をゆがませた。


 ——そう、そんな弦華だから。今こうして、己の存在をかけた涙を見せてくれているような弦華だから、俺も話そうと思った。

 誰にも話したことのない、俺の秘密——

 俺は弦華の顔をまっすぐ見つめ、それから静かに目を閉じた。


 ……やっぱりだ。どうしても見えない。えがけない。

 ——思い、出せない。


「秀叶……?」

 その声で、俺はゆっくりと目を開ける。

「……弦華、これは俺が初めて人に話すことだ。シンガーソングライター『秀叶』が生まれた理由、根源こんげんとなるような、俺の秘密だ。……聴いて、くれるか?」

 俺の雰囲気を感じ取ってくれたのか、弦華は顔を引き締めて、コクリと頷いた。

「ありがとう……」


 ——ああ、怖いな。こわいな。……でも、それでも言おう。

 俺は鼻から大きく息を吸い込み、いちど止め、それからゆっくりと口を開いた。



「——俺、人の顔を思い出せないんだ」



 視界が白くかすむ。頭の後ろがゾワっとする。

 言った。言ってしまった。誰にも言ったことのない俺の秘密が、今、世界に放たれ言葉になった。

 弦華は、その真剣な姿勢を崩さずに、けれど何を言われたのかよくわからないという顔をしていた。

「……俺は生まれつき、人の顔を思い出すことができないんだ。イメージできないって言うのかな。普通にこうして会話してたり、直接見ている時には確かに認識しているし、表情だってわかる。パーツの構成だってわかるよ。けど、目を閉じると、それを思い描くことができないんだ。顔以外の部分は髪も含めて全部イメージできるんだけど、顔だけがどうしても、もやがかかったようにイメージできない、思い出せないんだ……」

 伝わっているだろうか。理解されているだろうか。

 俺は気付けば、彼女から顔をらしている。

「……最初はわからなかった、これが人と違うということは。けどある時、それに気づいたんだ。確か、学校でお互いの顔を描き合ってた時だったと思う。俺だけが、まったく描けなかった。俺だけが、正面に座っている友達の顔を、画用紙を見た時まで残しておけなかった。そこで気づいたんだ、俺は皆とは違う、人の顔が思い出せないんだって。人の顔を、記憶できないんだ、って……」

 俺が言葉を切ると、弦華が何かを言おうとしているのがわかった。けれど、それでもまだ、彼女は言葉を紡ぐことができなかった。

「……人の表情はわかる。笑っていたこと、泣いていたこと、怒っていたこと、そういう表情の種類は思い出せる。ただ、その時の顔そのものを思い出すことだけが、イメージすることだけが、どうしてもできないんだ」

 するとようやく、弦華がとても慎重なトーンで口を開いた。

「……えっと、ど、どうして?」

「え?」

「どうしてそれが、シンガーソングライター『秀叶』が生まれた理由になるの……?」

「ああ、そうだったね」

 俺はフゥと息を吐き、空を見上げる。


「……俺、父親を亡くしててさ。中学二年生の時に」


「——え?」

 言うと同時に、俺の中に、あのメロディーが流れ出す。

「……さっきも言ったけど、俺はその人そのものは思い出せるけど、顔だけが思い出せないんだ。だから当然、俺は父親の顔が思い出せない。今こうして話をしている時でさえ、俺の中に映る父さんには、顔がない」

 弦華が隣で息をのむ。

「……それ、って。じゃあ……」

「そうだな……。俺は、父親を思い出せないんだ。正確にいえば、その顔を。父さんと過ごした記憶——会話したこと、出かけたこと、喧嘩したこと、笑い合ったこと——そういう思い出は全て俺の中にあるのに、そこに映る父さんの顔だけが、表情だけが、もやがかかったように思い出せない。俺の中にいる父さんはいつだって父さんなのに、いつだって何かが足りない。欠けてるんだ。父さんを想うたび、それを痛感つうかんする」


 思い出す。父さんが死んだ時のことを。

 ——あれ? 父さんは? 父さんは、どこにいるの?

 ——あれ? 父さんはあの時、どんな顔をして笑っていた?

 座る者がいなくなった椅子を見ながら、俺はかつてそこに座り、声をかけると振り返ってくれたその人の姿を思い浮かべる。

 ——けれどその景色には、埋まらない空白がある。その表情を、思い出すことはできない。その笑顔に、出会うことはもう二度とない。

 そうして俺は涙を流す。悲しみのあまり、歯を噛み締める。

 ——父さんを思い返す時、俺は何を思い返したらいい? この大きく欠けた記憶でしか、父さんに会えないのか?

 ——父さんを忘れないでいたい俺が、まだ父さんの支えが必要な俺が、夢の中ですら父さんに会えないのか?

 ——そんなの、そんなのは絶対に嫌だ‼︎

 俺は求めた。ただひたすらに求めた。

 欠けている記憶を、この埋まることのない空白を埋めてくれる何かを。

 ——なにか! なんでもいい! 俺の中にあかしを! 俺の中にシルシを! 父さんをえがき、その代わりとなるような何か! 決して消えない、父さんを思い描くとき、いつでもそばにいてくれるようななにか!


「——だから俺は、歌を歌った」


「あっ……‼︎」

 弦華はバッと顔を上げた。これまでのどれとも違う、静かで切ない涙が地に落ちた。

 俺の頭の中には、今もずっと、あのメロディーが流れている。

「父さんが死んだ後、俺は歌を書いた。……父さんを思い出すことはできないけれど、せめてそれを埋める歌があればいいって。俺の中に残っている父さんのカケラすべてを注ぎ込んで、そんな歌を作って、父さんを思い出す時いつも共にある歌があればいいって。それが、俺にとっての歌。それが、俺が最初に作った歌だったんだ」

 俺は、両目から大粒の涙を流す弦華をそっと見つめ返した。

「——そう、それが『かげ』だよ」

 弦華のロック画面に歌詞が表示されている曲——タイトルは『影』。

 埋めることのできない空白を、色鮮いろあざやかに埋めてくれる歌。そのための歌。

 ——今も俺の頭を流れている、父さんを想う歌。



     『影』 作詞作曲:秀叶


 「おはよ」って、「おかえり」って あなたの言葉を覚えている

 「大丈夫」「ひとりじゃない」 最後にあなたは、そう言った。


 喧嘩も出来ぬ僕は、いつも涙と一緒に帰る

 あなたは笑っていて、僕も、笑えたんだ

 「強さとは優しさだ」と、僕に伝えてくれたあの日の、

 紅に染まる空、大小の影帽子。


 もう、いないんだね。 いつか、消えちゃうかな。

 ああ、そうはさせない! 夢で会えなくても……!


 このココロが、歌になればいい フッとこぼれるメロディーに

 たとえあなたを忘れても、あなたをえがく、歌となれ



 人の死は二度あると、忘れられた時、人は死ぬと

 そう言ったあの日の、月が、欠けてく

 『大丈夫、おまえなら』 あなたの残した光を抱いて、

 僕は今日生きていく、だから、見ててよ


 でも、思うんだ。 また、話がしたい。

 想う、時さえ 届かぬと知っても……!


 この心に、歌があればいい フッと溢れるメロディーが

 たとえ掴めぬ、願いヒカリでも、あなたをえがく、歌となら



 どんな大きな悲しみも、あの日の喜びに勝ることはない

 あなたが去った世界にも、あなたの影は色濃く残る

 あなたはいつまでも、光のままで

 影には色彩、この歌



 このココロが、歌になればいい フッとこぼれるメロディーに

 たとえあなたを忘れても、あなたをえがく、歌となれ


 あなたのカケラを、歌として


     *


 静かな、とても静かな時間が、二人の間に流れた。

 全身を包むほのかな冷たさを宿した風が心地よい。日がすっかりくれた空の下、二人で過ごす時間、公園のベンチ。いつかふと振り返った時、きっと俺はこの時を思い出すだろう。高校時代の、特別匂いの強い青春の一ページとして。

 ——その時も、今こうして隣で清らかな涙を流している少女の顔は思い出せないだろうが。

「……『影』を書いて、俺は前よりもずっと歌を歌うようになった。それに、作曲もするようになった。歌を作ることは——俺の中にある記憶や感情、感覚を具現化ぐげんかし、永遠に残す行為で、歌を歌うことは——色がいっぱいに詰まった箱を開ける行為であると同時に、そこに色を塗り足していく行為だった。なんかわかりづらい表現かな。ともかく、歌を作りそれを歌うことで、俺は自分の中にある穴を埋めることができたんだ」

「うん……、うん、伝わるよ」

「……ハハ、なんで弦華がそんなにボロ泣きなんだよ。——はい、これ使って」

 俺はリュックからポケットティッシュを取り出し、弦華に差し出した。

「ありがと……」

 弦華はそれで鼻をかみ、涙を拭いた。

「せっかくだし飲もうよ! どんどんぬるくなっちゃう」

 俺がそう言ってサイダーの缶を開けると、弦華もそれにならった。そうして俺たちは、しばらく黙ったまま二人で炭酸を喉に流していた。

 そうしている内に、弦華も大分だいぶ落ち着きを取り戻し、やがてポツリと口を開いた。

「……それで、秀叶はなんで今、歌うのをやめてるの?」

 この話が始まったそもそもの問いかけ。弦華が一番知りたがっていること。

 そして俺にとっては、あまり語りたくないことだ。

「……ん〜、そうだな。実を言うと、歌うことをやめているわけじゃないんだ。人に聞かれないようにしているだけで、一人の時には歌ったりしてる。……ちょうど、弦華に聞かれちゃった時みたいにね」

「なんで? なんで人に聞かれたくないの?」

「それは……」

「教えてほしい! だって私は、秀叶が歌うのをやめてすごく寂しかった、悲しかった! だから知りたい。どんな理由があって歌うのをやめたのか。——ううん、シンガーソングライターとしての、『秀叶』の活動を辞めたのか!」

 弦華はベンチの座面に片手をつき、こちらに身を乗り出して尋ねてくる。

 この公園に来てから初めての積極性せっきょくせいのある動きに、俺は反射的に口を開いてしまう。

「——っ、嫌になったからだ! 人に否定されるのが! 人に意見されるのが!」

「え?」

「……従姉妹いとこのススメで動画投稿を始めた時、俺は特に何も考えていなかった。ただ、ネットにあげればこの曲たちを永遠に残すことができると思ったから、そしてきっと、俺の想いをみ取り共感してくれる人がいるんじゃないかと思ったから、動画投稿を始めたんだ。……最初のうちは良かった。もちろん批判的なコメントもあったけど、それでも、俺の歌が信じられないほど多くの人に伝わっていくのが嬉しかった」

 これまで大して人に注目されたことのない十代が初めて受ける多くの視線。それはあまりにも鮮烈な体験で、俺を興奮させ——そして惑わせた。

「そのうち俺は人に自分の歌を聞いてもらうことが楽しくなってきて、一層いっそう作曲に励むようになった。それと同時にチャンネルの視聴者数もどんどん増えていって、俺はなんていうか、『自分のできることを見つけた!』って気持ちだった。だからきっと、この活動を続けることが正解なんだ、ってそう思った。……そんなある日、一つのコメントを見つけたんだ。『影』の動画についてたコメントだった」


 ——なんで皆こんなに騒いでるのかわからん。ぶっちゃけ普通


「……俺はそのコメントを見て、心底しんそこ悔しくなった。俺にとって『影』という曲は、出来がいいか悪いかなんてどうでもいい曲だった! だってこれは、父さんをえがくための歌で、俺の半身はんしんみたいな曲で、それが音楽的に優れているかなんてどうだっていい曲だったんだ!」

 ——『ぶっちゃけ普通』。

 人に評価されるために、良し悪しをつけられるために生まれた曲じゃない。『影』は、その曲であることに意味がある。それを評価の土台にあげてしまったのは、他ならない自分だ。いつの間にか、人に楽しんでもらおうという意識で曲を作り、人がどう感じるかを大事にしながら歌を作っていた。

 ——俺にとっての歌は、そういうものではなかったはずなのに。

 自分の満たされないえを、穴を埋めるための、魂の叫びだったはずなのに。

 いつの間にか、叫びとしての音楽ではなく、音楽としての音楽を作るようになっていた。そうして生まれた内圧ないあつの低い音楽を意気揚々いきようようと並べ、そんな音楽を喜ぶ人たちを引き寄せてしまった。その結果、大切なことを見失ってしまった。

 魂の叫びである『影』のような曲たちは、内圧の低い曲につられて集まってきた人たちには評価されず、『影』を始めとする俺の飢えから生まれた曲を愛してくれた当初の視聴者は、内圧の低い曲を生み出すようになった俺を見て離れていった。

 そうして今、残ったのは内圧の低い音楽を望む人々と、その間違いに気づいた俺。

 ——嫌になってしまった。


「——その頃から、今まで気にしていなかった批判的なコメントが気になるようになってきて、自分の歌について何か言われることが心底嫌に感じたんだ。それで——」


 ——もう辞めよう。


「——そう決めたんだ」

 俺は薄暗い空を見上げ、息を吐いた。

 人に話したことはない。俺の正体を知っていた絵梨歌えりかにだって、辞めた理由について話したことはなかった。彼女は、そういうところに安易に踏み込まない思慮深しりょぶかさがあるから。これを知っているのは、かつてこのことを相談しただけだ。

 だから、実際には弦華が初めてだった。だから、どんな反応をされるのか気になった。

 弦華は『影』をロック画面に設定していた。だからおそらく、彼女は初期の頃の視聴者。これが後期こうきの方の視聴者だったら、俺が今日、こうして秘密を打ち明けたりすることもなかったと思う。

「……これが、俺が『秀叶』の活動を辞めた理由だ。わかってもらえたかな……」

「……なんで?」

「え?」

「そんなことで、『秀叶』の活動を辞めたの⁈ そんなことで、歌うことを辞めたの⁈」

 弦華は立ち上がり、俺に向かって叫んだ。

 予期せぬ言葉に、俺は一瞬何を言われているのかわからなかった。

「……っ、そんなことって」

「——そんなことだよ! 作っている曲が、それに対する社会が間違いだって思うなら、歌で道を切り開くのが『秀叶』じゃないの⁈ それすらも歌にして、突き進むのが『秀叶』じゃないの⁈ ……私はずっと見てきた。動画を通してだけかもしれないけど、ずっと、『秀叶』の身も焼き尽くすような熱い音楽に触れてきた! 私はその姿に希望を見出したの! その姿に、勇気をもらったの! そんなあなたが、『秀叶』が——」

 もう何度目かもわからない涙を目に浮かべ、けれどこれまで一度も向けられたことのない怒りのこもった睨みつけるような顔で——


「——そんなつまらない逃げ方しないで‼」


 そう言い放った。

 弦華の熱は、きっと俺の胸に届き、何かを揺らした。けれど俺は、それを認めるだけの準備がなかった。

「——っ、勝手なことばかり言うなよ! これはそんな簡単な決断じゃなかった! 俺だって悩んだ、苦しんだ、考えたさ! その上での決断だ! ……別に誇るつもりもない。わかってるさ、これは俺の自分勝手だ。だけど、俺はあの場所に居続けたくなかった。俺にとっての歌を守るために、それが必要だったんだ……」

 一瞬熱くなってしまったことを恥じるように、俺は顔を伏せ、組み合わせた手のつなぎ目を見つめた。

「……わかってるよ。私のこれが、自分勝手だっていうことは」

「え?」

 正面から聞こえた静かな声に、俺は顔を上げる。

「秀叶にとっての『歌』は、私たちが感じているそれとは全く違うもので、ずっと大切で、ずっとおかしがたいものなんだって伝わってる……」

 そう言う弦華の表情はなんだかとても切なげで、寂しそうだった。

「——でもじゃあ、私の気持ちはどうしたらいいの⁈ 『秀叶』の音楽に魅せられて、その背中に憧れた私は、一体何を追いかけたらいいの⁈ ……私は秀叶に、歌を歌い続けてほしかった。私はもっと、秀叶の歌を聴きたかった」

 これまで見てこなかった、俺の歌を愛してくれた人の顔。自分を守るために、積極的に視界から遠ざけてきた、その人たちの気持ち。

 ——それはとても純粋じゅんすいで、切実せつじつで、おかしがたい儚さを宿していた。

「……弦華」

「——ごめん、ひどいこと言って。秀叶が自分のこと話してくれて、嬉しかった。……ちょっと今、色々いっぺんに聞きすぎて困惑してるだけなんだ! だからごめん、今日は解散にしよ?」

 そう言うと弦華は、荷物を持って足早に駆けて行ってしまった。

「……またね!」

 公園を出る時、弦華が振り返らずに叫んだ。

「あ、うん。また明日……」

 駆け出した弦華を追いかけようとして立ち上がった俺は、そう言葉を返す以上のことができず、そのまま一人、公園に立ち尽くした。

 何を思ったのか、俺はそのまましばらく視線も動かさずにその態勢で立ち続け、十分ほど経過したところで、パッと視線を切ってリュックを背負い、駅に向かって歩き出した。

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