第9話 「倚音 4」

 ——痛い。

 言い返したいのに、言葉が出ない。

 なんでこの人たちは、こんな簡単に俺の心を踏みにじる?

 きっとここでは、人の死さえも平等に軽い。

 ああそうか、きっとそうだ。

 ——ならきっと、ここにきたのが間違いだった。


     *


 月曜日。

 教室のドアをくぐる俺の気持ちは、一週間前とは明らかに違っていた。

 ——思えば、弦華いとかのMV制作を手伝い始めてからまだ一週間。それが信じられないほどに、この一週間は長く濃いものだった。

 教室のドアをくぐると、クラスの真ん中の方で集まって喋っている弦華とその友達が見えた。これまで通りの制服姿を見て、一昨日の私服姿を、希少性きしょうせいという価値と共に思いだす。——ああクソ、ツーショットとか狙ってみれば良かった。

 ——ふと、俺の存在に気づいた弦華が、周囲の友達からは死角になっている位置から、俺に小さく手を振った。俺はなんだか嬉しくなり、わずかに手を動かしてそれに応えた。


     *


「——すみません、門咲かどさきさん呼んでもらってもいいですか?」

 朝のホームルーム前、教室で弦華とこっそり挨拶を交わしたあと、俺は再び門咲凛音かどさきりんねの教室を訪ねていた。理由は明確、凛音から撮影——特にカメラマンについてのアドバイスや情報を聞き出すためだ。

 弦華は否定したが、一昨日の撮影が上手くいかなかった理由の一端いったんは、確実に俺にある。次の撮影に向け、俺自身も昨日、ネットで色々調べてみたりもした。その上で、何か別角度の情報が得られればいいな、と思ったのである。

「あ、おまたせ! ごめんね……、凛音ちゃんまだ来てないみたい」

「あ、そうなんだ。わかった、ありがとう」

「うん!」

 声を掛けた女子生徒がそう言って教室の中に帰っていこうとした、その時——

「——あら、野中くん……」

 背後から、透き通るような——けれど何者にも屈しないような気高さを持った鋭い声が、俺の名前を呼んだ。

 振り返ると、そこには俺より十センチほど低い身長の、黒髪ロングの女子生徒が立っていた。、ほとんど着崩さずにきっちりと着用された制服、絵梨歌といい勝負だ。もっとも、その胸の膨らみは絵梨歌とは真逆。ここ最近会話した女の子のなかで一番だ。

「あ、冬華ふゆか……」

「……気安く名前で呼ばないでもらってもいいかしら、野中くん」

 ——彼女は船越冬華ふなこしふゆか、凛音と同じように、一年生の時に同じクラスだった女の子である。こうしてそばで見ると、その立ち姿は美しく、髪もよく手入れをされている。顔だって、おそらく弦華にひけをとらないくらい整っていると思う。

 ——だが、彼女のクラスでの立ち位置は、弦華とは決定的に異なる。

「(——でた、女王言葉!)」「(氷の女王は相変わらずね……)」「(ってか、女王が人に話しかけてるとこ初めて見た!)」

 教室のドア付近で交わされる俺と冬華のやりとりを見て、クラスの中でささやき声が発せられる。俺は目だけそちらの方に向けてから、正面に立つ彼女を見た。

「……相変わらずのようで、お姫さま」

「いつものことよ、気にしてない」

 船越冬華はクラスで浮いている。というより、避けられている。けれどそれは、冬華自身が望んでそうなっているように思う。人に話しかけず、人から話しかけられても最低限の返事しかしない。友達は作らず、一人でいることを望んでいる。

 その態度や言葉遣いから、周囲の人間は彼女のことを『氷の女王』『孤高ここうきさき』『女王』と呼び、敬遠けいえんしているのだった。

「そりゃまた、ずいぶんと厳しい青春を送っているんだな……」

「……なにか言いたげね」

「残念ながら、今日は姫さまにお伝えする言葉は持ってきておりません……。次にお伺いする時は、何か、ワッと驚くようなプレゼントともに参ります」

 俺はさながら執事しつじのように、大げさな芝居をしながら言葉を並べる。

「……残念だけど、次はないわ。それじゃ」

 そう言って、冬華は教室へ入って行った。誰も彼女に近づかない、話しかけない。

 冬華はそのまま一番後ろの自分の席に腰を下ろすと、バックからA4サイズの本を取り出し、机に広げてそれを見つめていた。

 ——孤独と共にあることを選んでいる少女。孤独に身を隠している少女。

「……やっぱり、女王は早いよな」

 大切なぬいぐるみを抱きしめるお姫さまを横目に、俺は教室を去った。


 ——凛音は結局、遅刻してきたらしい。待ってなくてよかった。


     *


「え、弦華、今日も行けないの?」

 ——放課後。いつも通り手早く荷物をリュックにしまって一足早く空き教室に向かおうとした俺の耳に、少しサバサバとした女子生徒の声が届いた。

「うん、ごめんね……!」

 弦華は胸の前で手を合わせ、半分冗談っぽく謝る。向こう側に立っていた絵梨歌もその様子を気にしているようで、ほどなくして俺と目が合った。

「……ったく、仕方ないなぁ。次は絶対だよ?」

「ごめんね! ありがとう!」

「弦華、最近付き合い悪いよね〜」

「確かに! もしかして……、彼氏でも出来た⁈」

「「「ヒュ〜‼︎」」」

「違うよ〜‼︎」

 わちゃわちゃとはしゃぐ女子四人を見届けて、俺は教室をあとにした。


『——弦華、最近付き合い悪いよね〜』


 その言葉が俺の頭の中でリフレインして、なぜか、冬華を『女王様』と呼ぶ生徒の声と重なった。

「……考えすぎだな」

 頭によぎったイメージを振り払うように、俺は階段を登る速度を早めた。


     *


「——だからここは、カメラは固定して口元とスマホだけ映すようにしようかなって」

「なるほど……。ちなみに、このシーンはどういう意味があるの?」

「そこはね——」

 放課後。俺と弦華、絵梨歌の三人は、例の空き教室に集まりMV撮影の打ち合わせをしていた。もっとも、喋っているのは俺と弦華が大半で、絵梨歌は途中で相槌を打ったり、たまに短い質問を挟むくらいだ。さすがに気まずいのかもしれないが、それよりも弦華の話を注意深く聞こうとしている結果だと思った。これが、絵梨歌なりの真摯な姿勢なのかもしれない。

 ——一方で、時々出てくるその意見は、前にもまして鋭さを増している。

『——そのシーンって絶対に必要なのかな。この曲短いのに、こんなにカットがあったら忙しくなるんじゃない?』

『——なんかまだ、プロの映像に引っ張られてる気がする。プロの真似したって劣化版に終わるだけだよ、少なくとも今のレベルでは。違う土俵で勝負するべきだと思うの。クオリティというより、アイディアで魅せるような。制限がある中だからこそ見つかる表現があるはずだよ』

 弦華も、絵梨歌の意見に対して俊敏に反応し、自分の考えをぶつけていく。

『——なるほど! じゃあ、こういう感じだとどう?』

『——でも私はこうしたいんだよね!』


 開いた窓からは春のやわらかい風が気まぐれに吹き抜け、時折、校庭で活動している野球部の勇ましい掛け声が届く。なんとなく電気をつけないでいる教室には、優しい陽の光が差し込み、カーテンがパタパタと揺れる音が耳の端の方でささやいている。

 ——なんだか、切なくなるくらいキラキラした時間だな。

 隣に座る栗色髪の少女は、真剣な顔つきで、されど楽しそうに口を開く。

 正面に座るショートボブの少女もまた、厳しい眼差しに確かな優しさを宿し、栗色髪の少女に言葉を返す。

 その間を流れ、俺たちを取り巻く春の風には、鮮やかな色がついているようだ。

 ——忘れないでいたいな。

 俺は、去り行く時を前に、願いを込めて言葉をすくいだす。

 忘れないでいたい。どうしようもなく愛おしく感じている、今この時を。


 たとえばここに、歌があったら——


 そう思う俺の心はもはや誰にも脅かされていない。けれど、静寂せいじゃく安寧あんねいの中にあるはずのその地で、俺の胸はなぜだか締め付けられるように苦しかった。


     *


 ——ちょっと空気が重くなってきた。

「それ、本当に必要かな? うまくいくとは思えないんだけど……」

「いるんだって! 失敗を恐れて無難ぶなんなものばっかり選んでたら、それこそどこにでもある素人感満載のMVになっちゃうよ!」

「……言ってることはわかるんだけど、弦華ちゃんちょっと楽観的すぎない?」

「絵梨歌こそ悲観的すぎるよ! どうせ私たちは失うものなんかない! それを活かして大胆に挑戦するべきだよ!」

「……まあ、どうせ弦華ちゃんのMVだもんね。最初から、私の意見を聞く必要なんてないんだよ」

「っ〜! 違うよ! そういうことが言いたいんじゃなくて……‼︎」

「——二人とも少し落ち着けって!」

 俺はヒートアップしすぎた二人の間に割り込んで、それぞれの顔を交互に見た。

「……なあ、少し休憩にしないか?」

 二人は互いにまだ何か言い足りないようだったが、俺の顔を見て一度仕切り直す必要があることに気づいたようだ。その顔に落ち着きが戻ってくる。

「よしっ! ちょっと、三人で息抜きに行くか!」

 すかさず、俺はおどけ半分に立ち上がる。

「「へ?」」

 突然の発言に、女子二人は声を揃えて驚いた顔をする。うん、まるで仲良しみたいだ。

「思えば俺たち、三人で普通に話したこと少なかっただろ? 一緒にやってるんだ、ここいらで一瞬、親睦会を開くのも悪くないんじゃないか? ロケハンも兼ねてさ!」

 よっぽど驚いたのか、絵梨歌はキョトンとした顔を苦笑いに変えておずおずと口を開く。

「……え〜と、秀叶くん、それはさすがに——」

「——良いね! 行こいこ! せっかくだったら、三人で町田行こうよ! 私、行きたかったお店があるんだ!」

 空気を書き換えるように、弦華がバッと立ち上がった。

 それを見て、俺はニヤッと笑う。

「よし決まり! 行くぞ行くぞ〜! お〜‼︎」

「お〜‼︎」

 そう言って俺はリュックを肩にかけ教室を飛び出す。するとすぐに、弦華もそれに続いた。

「ご、強引……」

 絵梨歌は半ば呆れたような声を出した後、すぐに「ちょっ、待ってよ〜」と言ってついてきた。

 ——道化師が必要になることもある。それは例えば、人と一緒に行動するとき、そこに変化を求めるとき、大切な何かを守りたいとき。

 ——ならば俺は、すすんでそれを引き受けよう。打算で愚者ぐしゃを演じる、それは一つの強さだと思うから。


     *


「お待たせいたしました、フランボワーズパンケーキです」

「わ〜! すご〜い!」

「こちらバナナホイップパンケーキです」

「あ、えっと、はい……!」

 弦華と絵梨歌のそれぞれの前に、SNS映えしそうなプレートが置かれる。

「おあとすぐにお持ちいたしますね、少しお待ちください!」

 そう言って店員さんはすぐに、俺が頼んだ『フレッシュフルーツのパンケーキ』を持ってきてくれた。

「ごゆっくりどうぞ〜」

 俺の前に、これまで絵本でしか見たことのないような厚みのあるパンケーキとフルーツ、ホイップクリームが盛り付けられたおしゃれなプレートが現れる。

 弦華は何やら楽しそうな声をあげながら、手慣れた手つきでその写真を撮り、絵梨歌は普段こういう場所に来ないのか、珍しくキラキラと目を輝かせていた。こういうところは、なんだかんだ普通に女の子だと思う。

 雰囲気的にそのまま食べ始めるわけにもいかなかったので、俺はせっかくだからとスマホのシャッターを切った。なんともチープな写真である。これをプロっぽく撮るにはどうしたらいいのだろう? そこには何か、MVの撮影に繋がるヒントがあるはずだ——なんて、意外な気づきに内心で微笑を浮かべながらも、俺は目の前にあるパンケーキを食べ始めた。

「……すげぇ」

 俺たちは今、先日MVを撮影した町田駅にあるパンケーキ屋さんにやってきていた。いかにも女の子が訪れそうな可愛く小洒落た雰囲気のあるお店、この店で出されるのは、どうやらスフレパンケーキというものらしい。

 今まで口にしたことがない食べ物だったが、食べてみるとそれは色んな意味で俺が知っているパンケーキとはまったくの別物だった。正直、パンケーキと言われて食べるとなんだか微妙だが、違うものとして捉えると意外と悪くない。むしろ美味しいかもしれない。

「うん、美味しい!」

「すごい、溶ける……」

 共に席に座る女の子二人も、その味に納得しているようだ。

「どう? 二人とも。おいしい?」

「おいしい……。私、こういうの初めて食べたから……」

「ほんと⁈ 良かった〜。そうだ! 良かったら私のも食べてみる?」

「え、いいの?」

「うん! もちろん! 食べてみたいだけ取っていいよ〜」

「えと、じゃあ私のも……、食べていいよ」

「え、ほんと⁈ やった! 食べてみたかったんだよね〜!」

 そう言って二人は互いのパンケーキを少し交換して、その味に笑顔を浮かべた。

 正直移動中は微妙な空気だったが、こうして今、甘いものを通して二人の間にコミュニケーションが生まれている。息抜きを提案して良かった……。

「せっかくだから、秀叶くんも食べる? 私のバナナホイップパンケーキ……」

 じっと眺められていた絵梨歌が、ニコッと笑いながら俺にプレートを差し出してくる。

「あ、じゃあもらおうかな。ありがとう絵梨歌、良かったら俺のも食べてくれ」

「うん!」

 そう言って絵梨歌は嬉しそうに微笑んだ。

「秀叶! 私のもあげるよ!」

「え、良いのか?」

「うん! せっかくだからみんなで交換こしよ!」

 弦華もそう言って、俺の方へプレートを差し出してくる。

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

 俺が絵梨歌のプレートの方にフォークを向けようとすると——

「——はい秀叶! さっきにこっち食べて!」

 弦華がフォークに自分のパンケーキを乗せて、俺の顔に向かって差し出してきた。

「え? 弦華、でも」

「——はい、どうぞ! ほら、口開けて?」

 弦華は有無を言わせない笑顔で俺にパンケーキを突き出してくる。

「あ、それなら私も……! はい秀叶くん! 先にこっち食べて!」

 驚いたことに、絵梨歌までも俺にパンケーキを乗せたフォークを突き出してきた。

「え? ちょ、二人とも?」

「「はい、あ〜ん」」

「笑顔が怖いんですけど……」

 俺は差し出された二本のフォークから逃れるように、絵梨歌と弦華のプレートから直接パンケーキを少し頂戴した。

「はい、これで俺の分はもらいました! ありがとう」

 俺はすまし顔でそう言って、自分で取ったパンケーキを口に運んだ。

「え〜! 何それ〜!」

「……秀叶くんのバカ」

 二人は拗ねた顔をして、渋々、行き場を失ったパンケーキを自分の口に運んだ。

 ……ったく、突然びっくりしたじゃねえか。

 俺は内心の動揺を悟られないよう、ぐびっと水を飲み干した。

「……それで、秀叶はどう? ここのパンケーキ、おいしい?」

「おいしすぎて、もう一杯いっぱいです」

 俺がそう言うと、弦華はイタズラっぽくはにかんだ。


     *


 それから俺たちはゲームセンターに行き、三人でプリクラを撮った。「はいこれ! 秀叶のぶん!」と、切り分けた写真を差し出されたが、俺はそれを二人に譲った。

 ——だって、俺が持っててもしょうがないものだし……。


 そんな風にして楽しい息抜きの時間を過ごした俺たちは、やがて帰路についた。

 駅まで徒歩約五分の道のりを、俺たちは横並びでゆっくりと歩いた。

「……良い息抜きになったな」

 俺が言うと、弦華がまだまだ元気だと言うように「うん‼︎」と言った。

「実はこうやって一緒に過ごしてるなかで、また少しアイディアが浮かんできたんだ! うまくいけば、明日の放課後には撮影できるくらいにまとめられると思う!」

「そっか。俺も、実は今日の時間の中で撮影についてのヒントを得た気がしてるよ」

 正確に言えばそれは、とっかかりを見つけた、という感覚だ。パンケーキの写真を撮ったときに感じたこと——それらしい写真を撮るにはどうしたらいいのか? という疑問。その答えは、少し調べればすぐにでも知識として手に入れることができそうだ。隙間時間に軽く検索しただけでも、それがわかった。これから家に帰ってもっとちゃんと調べれば、確実に撮影に活かせるだろう。

「そっか! じゃあ今日は大成功だね!」

 そう言って弦華は嬉しそうに飛び跳ねた。

「だな……!」

「すっごく疲れたけどね……」

 こういう外出に慣れていない絵梨歌は、ちょっと前から口数が極端に減った。本人の言う通り、疲れたのだろう。それでも、彼女もこの時間を楽しんでいたのは明らかだった。

 そうして三人で歩きながら、俺はふとあることが気になった。

「なんで今なんだって感じだけどさ、弦華って、どうしてシンガーソングライターになりたいと思ったんだ?」

「え? ……ほんと突然だね、アハハ」

「いや、ごめん。答えたくなかったら別にいいんだ」

 なぜ今だったのか、きっと特別な理由はない。ただ、この数時間ですっかりゆるんだ空気と、夕暮れの魔力ってやつにあてられただけなんだと思う。

 だから、俺はそれ以上追求するのはやめておくことにした。


「——ん〜、楽しかったからじゃないかな、きっと」


 すると、横にいる弦華が朗らかに答えた。

「……それで、楽しそうだったからだよ、一番!」

 俺は驚き「へ?」と声を出しながら振り向く。

 弦華はニカッと一度笑ってから、真面目な顔に戻って続ける。

「……私、昔から何かに熱くなったりすることがなくて、なんでもそれなりの温度で触れて、それで楽しく過ごしてたんだよね。——でもそんな時、私は歌に出会ったの。一人の歌手に出会った。その時『楽しそ〜‼︎』って思ったんだよね、心の底から。それから私は歌を歌い始めた。たまたま、歌うのは昔から得意だったからね」

 弦華はへへへと照れくさそうに笑う。

「それから私は、歌うのがどんどん好きになっていった。毎日がみるみる色づいていった。……それである日、思ったんだ。私の毎日を色付けてくれたように、私も誰かの毎日を色付けるような歌が歌いたいって! 私が憧れた姿のように、熱くて心が揺れるような歌を歌いたい。もっともっと熱く生きたい。歌に魂を注ぎたい! そう思ったから、私はシンガーソングライターになったんだよ」

 そう言って、弦華は晴れた空に手をかざした。

「そっか……。すごいな、弦華は。そうやって熱い気持ちで、誰かに届ける歌を歌っていくんだね……」

 ——それはきっと、彼女に相応しい。社交的で明るくて、感情を表に出すことができる彼女なら、きっと良いシンガーソングライターになるだろう。

 少なくとも、俺とは違う。自分のためにしか歌を歌えない、俺とは。

「——え、そんなすごいものじゃないよ! 私はきっと、私のために歌ってるの。私が楽しいから歌うの。私が悲しいから歌うの。私が好きだから歌うの。——人に届けるように歌うのだってきっとそう。不器用な私が想いを届けるのに、一番良いやり方が歌だっただけなんだよ」

「————‼︎」

 俺は思わず振り返り彼女をみた。

「……っていうかツッコんでよ、私まだシンガーソングライターじゃないよ?」

 弦華はそう言って、照れくさそうに笑っている。

 ……そうか。そうだよな。

 今わかった。俺が弦華の声に惹かれた理由。きっと、彼女と俺は、本質的な部分でどこか似ていたんだ。


『——一番良いやり方が歌だっただけなんだよ』

 本当にそうだ。そうだったから、俺は歌を歌った。そしてきっと、彼女も。

 でもきっと——

『——楽しかったからじゃないかな、きっと』

 俺にもそんな時期があったんだ。ずっと昔、まだ歌がただ『歌』だった頃。その頃の俺は、きっとただ歌が好きだった。歌うのが心地よくて、楽しくて、歌っているのが好きだった。だから歌を歌っていたんだ。

 ——長い間忘れていた。そういう気持ちを。


「秀叶……?」

 気がつくと、弦華が不思議そうに俺の顔を覗き込んでいる。

 俺はその煌めく瞳をそっと心に刻みつけて、それから柔らかな笑みを返した。

「……ありがとな、弦華。おかげで大事なことを思い出せた」

 弦華はキョトンとした顔をしていたが、それでもやがて、ニカッと笑ってくれた。

「そっか、良かった!」

「それから、さ。弦華はもうシンガーソングライターだよ。歌いたくて歌書いて、それでギター鳴らしたらもう一人前。歌手の条件は、自分でそうと言うことだけなんだから」

「え……」

「だからさ、胸はってこうぜ! 弦華はもう、立派なシンガーソングライターだよ」

「——っ! うんっ!」

 そうして弦華は力強く笑った。

「……言われて納得してるようじゃ、まだまだなんじゃないの?」

 ふと、横で話を聞いていた絵梨歌が言葉をこぼす。

「まあ、それは絵梨歌の言う通りではあるが……」

「あ〜! 絵梨歌がまた意地悪言う〜! いいんだよ、私は今の言葉で満足なの〜!」

 そうして弦華が絵梨歌に抱きつき、三人の声が世界に響く。

 日の沈んだ空は西から鮮やかなグラデーションをえがき、それはともすれば夜明け前のようだった。

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