第8話 「倚音 3」

 目が覚めると、アラームが鳴る前だった。起きたばかりだというのに身体は妙に軽く、目覚めたばかりの静かな心がなんだかとても熱い。

 ——こういう日が、続けばいい。

 けれど、続いたらきっと出会えない——

 小学生にとっての遠足のような、待ちに待った旅行の日のような、大好きなあの子との初デートの日のような。

 ——ワクワクしてやまない、特別な一日。今日はきっと、そんな日なんだと思った。


     *


「じゃあとりあえず一回撮ってみようか」

「おっけ〜‼︎」


 ——ポン。


 スマホの録画が始まると、弦華は「ふ〜」と息を吐き出して、それからゆっくり歩き始めた。俺はそんな弦華を横から撮り、彼女の進む速度に合わせて一緒に歩く。

 背景に映るのは大通りとその向こう側にある建物、小さな飲食店や美容院などがのきを連ねる道、街中の風景。そこを、一人の少女が颯爽と歩いていく、そんなシーン。


 ——今日はMVの撮影日、初日。

 絵梨歌が加わった日から二日経った土曜日、俺たちは例の咲陽さくよう高校の学生の多くが利用する比較的大きな駅——町田駅で集合し、そこから少し離れた比較的人通りの少ない場所で、最初の撮影を開始していた。

 とにかくやってみよう、というのが弦華の方針。この活動が始まってから初めての休日活動に、俺は朝からワクワクが止まらなかった。

 ——そしてそれはきっと、プロジェクトが進み始めたからという理由だけではない。

 俺はスマホから一瞬目を外し、目の前を歩く弦華を見つめた。

 白い長袖のトップスにデニムのショートパンツ、腰にはシースルーのアウターを袖を結ぶ形で巻いている。普段は下ろすかハーフアップになっている栗色の髪も、今日は後ろで一つにまとめられた高めのポニーテールになっていて、それが活発さと色気を感じさせる今日の服装ととてもマッチしている。なんというか、とてもオシャレだ。というか可愛い。夏の日のサイダーのような爽快さに、白いベールを一枚フワリと被せたような、そんな印象。デニムのショートパンツから覗く健康的で滑らかな太ももの色気、腰に巻いたアウターから放たれる茶目っ気、普段は決して見られないすっきりとしたうなじから放たれる色気がヤバい。

 制服姿でしか会うことがないと思っていた女の子の私服姿に、なぜか背徳感にも似た興奮を覚えてしまっている自分がいる。

 ——休日にクラスで人気の女の子と会うんだぞ? ワクワクしない奴がいるか?


 かく言う俺も、今日は癖毛くせげの髪にワックスをつけ、黒のスキニーに七部丈の黒Tシャツ、黒Tの下には少し大きめの白Tシャツを着て、裾の部分から白がわずかに見えるようにしている。撮影の際の反射による映り込みを減らすため、あえて黒の服で統一することを選んだ俺だったが、仮にもクラスの女の子との待ち合わせ——「ダサい」という印象を持たれるのを恐れた俺は、Tシャツのレイヤードという手を使ってファッションに気を使っている感を出した。これなら撮影における機能性を損なうことなく、少しおしゃれしてきた感を出すことができる。

 ——休日に可愛い女の子と会うんだぞ? 気合いが入らない奴がいるか?


 ——ポン。

「どう? どんな感じ?」

 ビデオが止まると、すかさず弦華がスマホを覗き込んできた。いい匂いがする。

「ん〜、なんか思ってる感じと違うなぁ……」

「……そうだよな。俺の撮り方が悪いんだろうけど、ホームビデオ感が否めない」

「別に秀叶のせいじゃないよ! ……私も少しやり方変えてみる、もう一回やらせて!」

 いつになく真剣な弦華の言葉に、俺は「わかった」とうなずいた。

「——ううん、これは秀叶くんの撮り方のせいだと思う」

「「え?」」

 割り込んできた第三の声に、俺と弦華は揃って声を出した。

 絵梨歌は俺と弦華の間に割り込み、画面を指差す。ちなみに絵梨歌は、青いデニムパンツに白のパーカーという結構ボーイッシュな格好をしている。珍しい。

「ほら、ここ。微妙に距離が近いせいで、変なところで見切れてるんだよ。あと、これはある程度仕方ないけど手ブレがすごい。弦華ちゃんを画面の中心に固定できてないし、多分弦華ちゃんがイメージしてるような映像にするには、足を映す必要があるんじゃないかな……」

 絵梨歌の指摘に、俺は目をパチクリさせる。

「……なるほどな! だから、通行人インタビューみたいな映像になっちゃってたのか」

「私の少ない知識と感覚だと……、そう。ごめん、あくまで参考程度で……!」

 絵梨歌は急に尻込みしたようにススっと後ろに下がっていった。

 絵梨歌を追うように視線を動かすと、弦華の顔が目にとまった。弦華は何やら驚いたような顔をして、絵梨歌を見つめていた。

「絵梨歌……」

「え、な、なに?」

「好き〜‼︎」

「きゃっ!」

 その直後、突然弦華が絵梨歌に抱きついた。絵梨歌は慌てて跳ね除けようとするが、弦華の勢いがそれを超える。しばらく抱きついた後で、弦華は絵梨歌の両肩を持ったまま興奮気味に口を開いた。

「——ありがとう! 私、絵梨歌ともっと話したい!」

「え⁉︎ どうだろう……。私はあんまり得意じゃないかも、話すの……」

「アハハハ! いいよ、ここからお互いを知っていこう。秀叶! 絵梨歌が言ってくれたこと意識してもっかいやってみよ!」

「え? お、おう‼︎」

 今のハグは一体何だったのか、それを尋ねる暇もなく、俺たちは撮影を再開した。


     *


 予定していた撮影を一通り終えた俺たちは、スターバックスに来ていた。独立した一つの店舗となっているお店で、木材を多く使った外観がどこかログハウスのようだ。

 弦華は当然のようにカスタムまでした注文していたが、絵梨歌はかなりビビっていたようで、店員のお姉さんの「こんにちは」に「い、いらっしゃいませ」と答えて店員さんをニッコリさせていた。かく言う俺もスタバに慣れている方ではない。変に見栄を張っても弦華には見抜かれるような気がしたので、俺は弦華におすすめのカスタムというものを尋ねて、それを注文した。

 それから俺たちは二階の席に移動し、それぞれ落ち着きを取り戻したところで撮影の振り返りを始めた。

「なんか、まだいけそうだよね……!」

 弦華はキャラメルマキアートなるフラペチーノを片手にそう呟いた。

「……そうだな。絵梨歌のアドバイスもあって使えそうな映像もいくつか撮れたけど、まだまだ雰囲気が安定していない感じがする。すまん、これは俺のせいだな」

「ううん、秀叶のせいじゃないよ! 私もまた考え直してみる! どうやったらそれっぽい映像になるのか……」

 そう言って弦華はポニーテールを揺らす。こうして正面に座られると、必然的に彼女と目が合い、その眩しさに気圧される。かといって視線を落とせば、Tシャツによって普段より明確になった胸の膨らみが目に飛び込んできて、それを凝視している自分を正面の弦華にみられることになってしまう。席順を間違えたな……。

「——あのさ、」

「「ん?」」

 俺たちが視線を向けると、絵梨歌はビクッとして視線を落とす。

「えっと……、ごめん、やっぱり何でもない」

 絵梨歌はそのまま、手元にあった期間限定フラペチーノをチュウと飲んだ。

「どうした絵梨歌、何か思いついたのか?」

「……思いついたっていうか、ちょっと思ったことっていうか。でも多分言わない方がいいことだから、やっぱりいいよ」

 絵梨歌はそう言って、より深く椅子に腰掛ける。こういう時の絵梨歌に喋らせるのは容易よういではない。彼女は、自分の気持ちや考えを人に伝えることに苦手意識を持っており、心許した相手でないと自分を素直に表現できないところがある。ゆえに今言おうとして引っ込めたことというのは、よく二人で話す俺に対してではなく、まだ出会ってから日が浅い弦華に対する言葉なんだろう。だから、俺もそれ以上無理に聞き出そうとしなかった。

「そうか。絵梨歌がいいならいいけど……」

「——やだ! 聞かせてほしい!」

「「え?」」

 弦華の言葉で、絵梨歌も顔を上げる。

「私、嬉しかった。絵梨歌が真面目にこの撮影に協力してくれてるのを見て、すごく嬉しかった。だから、そんな絵梨歌の意見をないがしろにしたくない! 聞かせてほしい! 教えてほしい! だから絵梨歌。話して、くれないかな?」

 その言葉は実に弦華らしく、その眼もまたとても真っ直ぐだった。

 絵梨歌は少し困ったように俺の方を見てくる。俺が少し笑いながら頷くと、絵梨歌はおそるおそる弦華の方へ向き直った。

「……えっと、私が思ったことっていうのはね、弦華ちゃん、ちょっと秀叶くんに任せすぎなんじゃないかなって思ったことで……」

「え?」

「——いや、もちろん責めてるわけじゃないよ⁈ ……けど、弦華ちゃん撮影のこととかほとんど何も準備してきてなかったし、こうしたいっていうイメージばっかりで、具体的なやり方とか技術的な面については投げっぱなしっていうか、まるで『』だったら大丈夫って丸投げしてるみたいに見えて、私にはちょっと疑問だった……」

「「——っ!」」

 俺と弦華が、おそらく全く違う理由で同時に息を詰まらせる。

「……それに、撮りたい動画のイメージにも無理があるところが多いと思う。プロが作る映像のイメージが強すぎるんだと思うけど、私たちが撮るには難しい表現が多いっていう印象。どうしてもやりたいんだったら、それこそどうやって撮るかまで考えてくるべきなんじゃないかなって思うんだ」

 そこまで言って、言い過ぎたと思ったのだろう。絵梨歌は手をパタパタと振って、慌てたような調子で口を開いた。

「——あっ、ごめん! 弦華ちゃんを一方的に責めたかったわけじゃないの! もちろん、そこをサポートするために私たちがいるわけだし、出来ないできないばっかり言ってちゃダメだってわかってるよ! ただ、もう少し弦華ちゃんもできることがあるんじゃないかって言いたかっただけで……、ごめん!」

 絵梨歌はそう言って視線を逸らすように頭を下げた。

 一瞬沈黙が訪れ、俺も自分の呼吸が少し浅くなっているのを感じた。


「——絵梨歌がいてくれて良かった」

 俺が様子を確認するよりも早く、弦華が呟くように、けれどはっきりとそう言った。

「え?」

 その言葉に、絵梨歌も顔を上げる。

「絵梨歌が、ダメなところはハッキリ言ってくれる人でよかった。私、どうしても楽観的になっちゃうところがあってさ! 一人だとなかなか厳しい批判とか出来ないんだよね……。それに、批判されるのってやっぱり怖いし……」

 弦華の言葉に、俺も言葉をのむ。

「けど一緒に活動する仲間にはさ、やっぱりハッキリ言ってほしいって思うんだ! だから、ありがとう絵梨歌! 私、考え直してみる! これからも、思ったことがあったらどんどん言ってほしい!」

 そう言ってまっすぐ見つめてくる弦華を見て、絵梨歌は目をパチクリさせていた。

「う、うん……。わかった、そう言ってくれるなら……」

 その返事に、弦華はパッと笑った。

「うん! そうしたら、今日はこれで解散にしよっか。私に構成を考え直す時間をちょうだい! それで月曜日、放課後また三人で話し合えないかな?」

 どこか憂いを帯びたようにも感じられるトーンの声に、俺はニッと笑って応えた。

「わかった! じゃあまた、月曜日に話そう!」

「絵梨歌もそれでいい?」

「え、う、うん‼︎」

「よし! じゃあまた月曜に! イエイ!」

 そう言って突き出されたフラペチーノのカップに、俺と絵梨歌はワンテンポ遅れて自分達のカップをコツンと当てた。ちなみに俺は、ダークモカチョコチップフラペチーノのアーモンドミルク変更、チョコソース多めのショット追加というやつだ。美味しかった。

「あ、でもごめん。その前に私トイレ行ってくるね!」

 席を立とうする直前、弦華がそう言ってトイレへ向かい、席には俺と絵梨歌だけが残された。

「……悪い人じゃないだろ?」

「……そうだね。正直、結構びっくりした」

「ああ言ってくれたことが?」

「うん」

「そっか」

 会話が途切れたところで、俺はさっきの会話の中で少し引っかかっていたことを話題に出してみた。

「……ところでさ、絵梨歌。もしかして勘違いしてるんじゃないかって思うから言っておきたいんだけど、」

「何?」

「——弦華は、『秀叶』の正体を知らないよ」

「え⁈ そうなの⁈」

「うん。だから、弦華は別にその知識を利用しようとしてるわけでもなければ、なにかズルいお願いをしてきているわけでもないんだ。本当にただのクラスメイトとして、俺に手伝いをお願いしてきたんだよ」

「そうだったんだ……」

 案の定一つの勘違いを抱いていた絵梨歌は、俺の言葉を噛み締めるように机の端を見つめていた。

「……じゃあ、ごめん。私のせいで、弦華ちゃんにも」

「いや、それはないと思う。あの言い方じゃ流石にそこまでは気づけないよ。……そもそも、元々を知っているかだってわからないんだから」

 俺はそう言って乾いた声で笑う。

「そっか……。……弦華ちゃんには、言わないの?」

 その言葉に、俺は息を呑む。思い出すのはやはり、初めて弦華を認識した日。あの、音楽室での光景だ。俺は少し間をおいてから、ニカっと笑って答えた。

「……言わないよ。俺は別に俺を公表したくないんだ。俺の正体を知っているのは家族とごく限られた人、つまり絵梨歌がいればもう充分」

 俺の言葉で、絵梨歌は一瞬息をのんで、それからフフッと笑った。

「そっか、弦華ちゃんには言わないんだ……。……そういえば、最近あんまり話題に出てこないね。もう一人の、秀叶を知っている女の子。……会ってないの?」

 絵梨歌の口から意外な話題が飛び出してきて、俺は一瞬返答に迷う。

「……会ってないよ。俺と彼女は、そんな気軽な関係じゃないんだ」

「そうなんだ……。ヘヘ! いつか会ってみたいって思ってたのにな……!」

「ハハ。それは少し厳しいかもなぁ……」

 そう言いながら、俺は脳裏で懐かしい光景をえがいていた。けれどそれは、過去の古い記憶を思い出しているという意味ではない。あえていうならそれは一種のノスタルジーだ。故郷の風景、幼少期の頃に見たあたたかい風景、そんな大切な記憶のイメージ。そして、そんなやわらかな陽に包まれた地に立つ少女——その風になびく白髪が、俺の頭をよぎっていた。

「——お待たせ〜! じゃあ行こっか!」

 そこに弦華が戻ってきて、俺と絵梨歌の話はそこでおしまいになった。

 店を出て駅に向かい、一駅進んだところで解散になる。

「じゃあまた、月曜日に!」

 そうして俺たちは、MV撮影の初日を終えたのだった。

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