第2話 「ドミナントセブン」
——その日は、どうしようもなくそういう日だった。
神奈川県の中程に位置する『県立
そんな空き教室の中でも、三階の端の方に位置するこの部屋は特に変わった場所にあり、偶然人が通りかかるということはまずない。去年——高校一年生の頃に見つけた、俺のちょっとした隠れ家である。
クラスルームと変わらないサイズの教室に、重ねられた状態の机と椅子がまとめて置かれている。そのため、教室の前半分は何もないひらけた空間となっている。
俺はいつものように、積み重ねられた椅子の一つを持ち上げ、廊下側の壁が背になるように置く。正面が窓になるこの位置からは、外の景色を眺めることができる。すぐ近くに生い茂る木々、その奥に広がる校庭と澄んだ空、流れる雲。ここは俺のお気に入りの場所だ。
——あぁ、らら〜
ふと、口から息が流れ、声が出る。なんの意味も持たないその文字は、音程が加わることで旋律になり、歌となる。
——ららら〜、らりらら〜、らら〜ら〜
流れ始めたメロディーは、終わらせ方を忘れたようにつながっていく。途中で止めることなどできない。考えるより先に自分の中から溢れ出す音のつながりを聴いて、
——不思議だな、と思う。
まるでずっと自分の中で隠れていたかのように、身体のどこかに組み込まれていたかのように、その旋律は出会った時のままで溢れだす。焼きついた感情や匂い、風景までもを振りまいて。
ふと、胸が締めつけられるような感覚に包まれる。頭の後ろの方に、電気が走る。息の流れと声帯の振動に、心が宿り叫び出す。この身を覆い尽くし、世界に色を与えるその全てが、俺の欠けた一部分、決して埋まらない大きな穴にそっと色を与えてくれる。
——俺にとって、歌とはそういうものだ。
普段、学校で歌うことなどない。
けれど、今日はどうしようもなく歌い出したい気分だった。
あの音楽の授業で、音の宿った言葉を目にしてしまったからだろうか。まっすぐで元気な、あのキラキラした歌声を聴いたからだろうか。それとも、それとも……。
授業が終わり放課後になると、俺はまっすぐにこの部屋へと歩き出していた。胸の奥が熱くて、じっとしていられなかった。堪えられない、まるでエッチな画像を見た中学生男子のようだった。だからある意味、これはそれと同じだった。自分の世界に入りこんでいた。
——だから、俺は気づけなかった。
「——野中くん?」
振り向くと、そこには一人の女子生徒がいた。
肩にかかる程度まで伸びた栗色の髪は緩やかなカーブを描き、整えられた前髪の下からは綺麗な瞳がのぞいている。ブレザーの前は開いていて、ほどよく膨らんだ胸がその襟のラインを曲げている。首元のリボンはゆるく、スカートも折られている。全体的なイメージで言うと、上品なお姫様が少しいたずらしてみました、という感じだ。ケバケバもしていない、かといって堅苦しくもない。その絶妙なバランスを見事に体現した、
「一ノ瀬さん……」
閉められていた引き戸が開かれる音に気づけなかった俺は、とまらない動揺を胸に隠して彼女の名を呟いた。
一ノ瀬弦華さん——今日の歌のテストで、俺が呼ばれる前に歌っていた女の子だ。クラスでも最も目立ったグループのメンバーの一人で、
俺にはあまり興味のない話なのだが、男友達の間でクラスの可愛い子について話す時には、毎回トップ3には入ってくる美少女である。
ともあれ、そんな一ノ瀬さんに自分の歌を聞かれてしまった。よりにもよって、あの一ノ瀬さんにである。
——なぜこんなところに?
——違うんだ、俺は……
——やあ、どうしたの?
口を開きたいのに、浮かんできた様々な言葉が
「——すごい! 野中くん、歌上手いんだね!」
次の瞬間、彼女がパァッと明るい笑顔で言葉を放った。
それを聞いて俺はひとまず胸を撫で下ろし、呼吸を整える。
「ハハハ、なんだか、恥ずかしいところを見られちゃったな……」
「そんなことないよ、すごい上手だった! 私、びっくりしたもん! ……今日の歌のテスト、野中くん一人だけ歌ってなかったから、もしかして自信ないのかなって思ってたんだけど、歌うの得意だったんだね!」
「得意っていうか……、まあ、人の前だと恥ずかしいじゃん? だからズル休み♡」
「ふ〜ん? ねえ、もっと聞かせてよ!」
「いやだよ。……一ノ瀬さんみたいに歌上手い人の前で歌えとか、罰ゲームが過ぎる!」
「え……! そんなことないよ、私はそんな……。あれは別に——」
「——悪い! 友達待たせてるんだった! ごめん、じゃあね一ノ瀬さん!」
「え、ちょっ!」
——ガラガラ、バン!
危なかった……。何とか無事にあの場から離れることが出来た。歌っているところを見つかるなんていつ以来だ? とんだ油断だな。……まあ今回はギリギリ、ダメージなしだ。
俺は学校の駐輪場まで辿り着くと、ハアと息を吐いた。
——そういえば、彼女は最後何かを言いかけていなかっただろうか?
電車に乗ったところで、ふと俺は彼女の「声」を思い出す。
何かを訴えようとする、切なる願いがこもった声。そんな風に聞こえた。
「あーあ、惜しいことをしたかな!」
制服をハンガーに掛けてから、俺は誰もいない自室で叫んだ。
せっかく、クラスの元気な女の子と仲良くなれるチャンスだったかもしれないのに。
……なんてね。
俺はまた、溢れてくるメロディーを口ずさみ始めた。
紡がれる旋律には、どこか彼女の色があった。
開幕を告げるファンファーレのように、永遠を確かめる「愛してる」の言葉のように
——歌を歌っていたい。
今日は、どうしようもなくそういう日だった。
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