イドフリミエ
富士月愛渡
第1話 「442 Hz(ヘルツ)」
——このココロが、歌になればいい。 フッとこぼれるメロディーに。
——たとえあなたを忘れても、あなたをえがく、歌となれ。
スマホのロック画面に表示されたその言葉は、元気で明るい女子高生にしては随分変わった壁紙だ。友達からのメッセージを短く表示しながら光るその液晶は、あまりに無防備な状態で音楽室の床を転がっていた。
椅子も机もない音楽室。生徒たちは、とてもゆるやかな階段状になっているその床に、直接腰をおろして座っている。
今行われているのは音楽の授業、内容は歌のテストである。テストといっても採点のためのものではなく、今後一年間の合唱のパートを決める声聞きのためのもの。とはいえ、クラス全員が見守るなか一人で歌を歌わなくてはならないのは変わらないわけで、それは誰もが緊張する時間だった。
そんな中、このスマホの持ち主はとてものびやかに、そして堂々と、まっすぐな歌を歌っていた。
——綺麗だ、と思った。
彼女の声は、とても綺麗だった。
クラスでも男子から指折りの人気を集める美少女——
彼女のスマホに表示されていた画像は、一時期YouTubeで人気を呼んだ高校生シンガーソングライター——『
およそ二年前にネットに現れ、一瞬にして多くの人の心を掴んだ正体不明のシンガーソングライター『秀叶』。素顔は公開されておらず、動画は基本的に顔を映さない静止画か、曲の雰囲気に合わせて作成されたMV風の動画。甘い歌声と激しいシャウト、聴く人の心を掴んで離さない感情が伝わってくるような歌声、鬼気迫る心の叫びを表現した楽曲は、多くの人を夢中にさせた。唯一判明していた情報が、彼が一般の中学三年生男子であることだったこともあり、彼の歌に魅せられた人々は、彼を「若き天才シンガーソングライター」と呼び、その存在を称えた。
ところがおよそ半年ほど前、『秀叶』が高校一年生になった年の十二月、彼はYouTube上で活動休止を発表した。理由について明確なことは伝えられず、ほぼ説明なしでの突然の活動休止となったため、彼のチャンネルには多くの困惑の声と悲しみの声、非難の声が届いた。
それでも、それから四ヶ月が過ぎた今ではそういった流れも収まり、彼の影響力も衰退の一途を辿っている。
もっとも音楽の力とは不思議なもので、彼の音楽に魅せられた者の熱が完全に消えることはなく、また人気などに左右されない彼の歌が持つ本来の魅力が消えることもなく、『秀叶』の動画は今なお再生され続けているのだった。
——それにしても、と思う。
こんな身近にも『秀叶』のファンがいたことには驚く。しかも彼女がロック画面に設定しているこの画像は、『秀叶』の動画の中でも最も古いもの、つまり一番最初に投稿された動画のワンカットなのである。あんなにキラキラした女子高生が今でもロック画面に選んでくれているのだ、『秀叶』の人気もまだまだ捨てたものじゃないなと思う。
——それでも。
パチパチパチパチ。
あたりから拍手が鳴り響く。
「はい、ありがとう一ノ瀬さん。次、野中秀叶くん」
自分の場所へと戻っていく一ノ瀬さんを視界に入れながら、俺は申し訳なさそうな顔をして手をあげた。
「……すみません、今日はちょっと喉が痛くて、歌うのは今度にさせてもらってもいいですか?」
丸いメガネをかけた短髪白髪のおばあちゃん先生は、「あらそうなの? わかったわ、お大事にね」と言って、次の人の名を呼んだ。
——それでも、と思う。
それでも俺は、もう人の前で、歌を歌いたくない。人に自分の歌を聞いてほしくない。
歌は、俺の中にあればいい。俺一人が聞いていれば、それでいいのだ。
——このココロが、歌になればいい。
——フッとこぼれるメロディーに。
——たとえあなたを忘れても、あなたをえがく、歌となれ。
長く錆びついていたメロディーが、フッと鼻から溢れそうになるのを必死に堪えた。
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