第10話 大熊
…
何か音がした気がして目が覚めた。
漠然とした不安感が心をよぎる。
なにかがよくない。
無言のままそっと巣穴から顔を出す。
空はまだ明け方で薄暗い。
音がしないが、雪が降ってるわけでも無いみたいだ。
見える範囲におかしい所は見つからない、動くものもない。
いや、違う。
静かすぎるんだ。
生き物の音が聞こえない。
目が覚めたのはなにか音を聞いたからじゃなくて、
なんの音もしなくなったからだ。
明け方はいつも起き始めた鳥が鳴いたり、飛び立つ羽音がするのに何も聞こえて来ない。
毛が逆立ち、うなじが緊張でチリチリするのを感じる。
これはよくない、とてもよくない
なにかはわからない
にげる? どこへ?
…
遠くから何かが倒れた音がした。
森の外側、山の方からだ。
中央の縄張りのクマではなさそう。
……
さっきより近くに木の倒れる音が聞こえる。
簡単に木をへし折れる程の力を持った何かがこちらに向かってきている。
このまま巣に居続けるのは危険だ。
一か八かクマの縄張りに行く
出会ったのとのない母クマも、向かってくる何かの気配もどちらも怖いが、母クマの方は恐怖と言うより畏怖。
子クマたちとも仲良くしてるし、コンニチハ イタダキマス、とはならないはず。多分。
なんにせよ近付いて来ている恐ろしい気配の何かよりずっと良い。
桃?の種はどうしよう。
花の香が心を落ち着かせてくれるが、今はその香りがマズイ。
もし香りで追ってこられると困る。
名残惜しいけど置いていく。
最後にひと嗅ぎして種を置く、……おく?
おけない
置いて、離したその手にそのまま引っ付いている。
払う、…払った手についたまま。
粘着力もないのに取れない。
手に取るのに抵抗は無いのに、下に置くとそのまま置いた手についてくる。ビーズクッションの中身か?
いつもは置こうとすれば置けるのに。
諦めて背中に種を引っつけて巣穴の外に出る。
さようなら干柿、無事だったら迎えに来るよ。
急がなくては、さっきよりも音が近い。
異様なほど静まり返った森に響くのは私の走る音と、遠くで木がへし折られる音だけ。
積もった落ち葉を踏み切る度、足音が嫌に耳について気が急く。
高い跳躍力を活かし、出来るだけ倒木や突き出た岩を渡るがどうしたって音が出る。
この森でキツネの体躯だととっさに隠れられる所が少ない。
穴を増やしておけばよかった。
大きな動物がいなかったのはアレのせい?
そろそろクマの縄張りに着く。
もう少しで果樹も見えてくるころ
………っ?!
止まりそうになる足を何とか動かして走る。
多分、今、アレがこっちを見た、気がする。
一瞬振り返っても姿かたちは見えない。
さっきまで私のいた辺りから木のへし折れるおとがする。
こわい
逃げて正解だった。
こわい
野生の勘でも芽生えたかしら
こわい!
あぁ、もう、誤魔化すのにも限界がある。
「ぎっ!?」
音を立てないよう倒木を足場に急停止。すぐさま伏せる。
走り続けて荒い息を無理やり押さえ込んで気配を殺す。
アレがまたこっちを見て、探っている。
残った匂いが新しいのがバレ──
気づかれた!
弾かれたように飛び出す。
それまで、目につく木をへし折りながらフラフラと森の中心へ向かっているようだった音が、真っ直ぐこちらに向かってきている。
色とりどりの落ち葉を跳ね散らしながら走り過ぎる私の後ろ。低く、重たい足音が追いかけ響いてくる。
どんどん音が近付いてくるのが分かって恐怖で叫び出したくなるが、今は、そのひと呼吸も無駄にできない。
……間に合わない
「ぎゃっ!?」
見る間に追いつかれ、後ろになびく尾の先にぬるい息遣いを感じたと思うまもなく、
横から何かが私をすくいあげるように弾き飛ばした。
呆気なく鞠のように跳ね転がるも何とか立ち上がって走り出す。
小柄で軽い体重のおかげでそこまでダメージは大きくない。
大丈夫、まだ大丈夫、まだ走れる
自分に繰り返し言い聞かせ走り続ける。
弾き飛ばされた時、追ってくる奴の姿が見えた。
巨大で、刺刺しい黒っぽい甲殻で覆われた大熊。
多分、知らない匂いのはず。この森のクマじゃない。
あんなに直ぐ追いつかれたのに未だに捕まっていない。
……遊ばれている気がする。
仕留める気なら、さっき横殴りにせずに上から叩きつければよかった。
せめて、死ぬなら、さっくり死にたいので。
こんなオモチャにしてくる奴はお断りだ。
唸り声が聞こえる。
尾の先にガチリと音を立てて閉じる顎がかするのが分かる。
走りが遅くなる度、吠えたり唸ったり急かしてくる大熊。
足元がますますおぼつかなくなってきた。
小柄なおかげでなんとかなんて言ったけど、致命的な怪我をしていないだけで十分痛い。
やっぱり大丈夫じゃない。目眩もする。
止まったら。止まらなくても気絶しそうだ。
「ぎっ?!…ぎゃん!」
鈍い風切り音がしてまた弾き飛ばされた。
今度は飛ばされた先が悪かった。と言うよりか今まで運が良かったのか。
森なのだから当たり前にある木
そこに叩きつけられてずり落ちる。
息が上手くできない。視界がぼやける。体全部が熱くて冷たくて。
もうだめかな あきらめていいかな
巨体が近づく空気の動きがヒゲに伝わる。
つよい もものかおりがする
相変わらずの謎パワーでしぶとくくっついている花の香りを嗅ぐとあと少しだけ動ける気がする。
きっとここのクマの縄張りに飛び込んでも、コイツは追ってくる。
もうそこまで行ける体力も無い。
アイツがうずくまって動かない私を鼻先で小突いている。
どこか、どこか逃げこめる場所。
あ……縄張りに近かったから諦めた巣穴
よく絡んだ木の根の下の小穴
確かこの辺り
息を吸い込む、少し頭が冴える
目印は斜めに傾いたドングリの木
……は ここ 穴はこの裏!
力を振り絞って飛び起き、近くに迫っていた大熊の顔を爪で蹴りつける。
その勢いで裏の根の隙間へ体をねじ込む。
格下で瀕死の小動物に虚仮にされ怒り狂う大熊の叫び声を背に、
少しでも、根をかき分けて奥へ。
後ろからバキバキと生木の削れる音がするが、複雑に絡んだ木の根はしっかりと土に食い込み、大熊の進行を阻む。
少しでも、と掘っていた行き止まりの土壁に寄りかかりくずれる。
ヒュウヒュウと荒い息が漏れるのを他人事のように感じる。
開きっぱなしの口からポタポタと液体が垂れる。
強くなった花の香りには、血の匂いが混じっているのか、分からない。
巨大な熊には小さ過ぎる穴は、鼻先も手の先も入らず届かない。
穴を広げようと掘れば根が引っかかる上、積もった落ち葉が流れ込んで穴を埋めていく。
大熊が諦めて帰るより、私が力尽きる方が早そうだ。
でもまあ、起きたまま痛ぶられないんだったらいいや。
何かが大きく揺れた気がしてぼんやりと目を向ける。
いつの間にか穴の口が随分近付いているが、大熊の姿は無い。
気がつくと穴から小さい黒い影が出て、ひくひくと鼻を鳴らして探る音がする。
よく見えないが、花の香りがするあのクマは─
見知った気配に気が抜けてどうにも起きてはいられなかった。
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*note 狐の重さ
標準的な狐(アカギツネ)は体重5~6kg
近い体躯の柴犬は10kg前後
狐は見た目の割に軽い
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