花と男

われもこう

花と男


「お義兄にいさん、いらっしゃる?」


 ノックが一回、二回、三回。鳴り止み、静寂が場を支配したあと、コトン、と硝子玉が転がるような声。「いるのでしょう?」分厚く冷たいドアの向こう側へと、男は椅子に腰かけたまま、さも億劫そうに目だけを遣った。しばらくしたのちに立ち上がり、玄関へ向かって歩き、把手を掴んだ。部屋中の冷気が圧縮されたかのような、冷たい手触りだった。迷ったのちに男は鍵だけを開け、踵を返した。



 触れたものはみな花になる。男がそれに気づいたのは、祖父を花にしたときだった。端座して羊羹を食べる祖父の肩に背後から触れたとき、その姿はたちまち花へと変じた。黄色の菊が一輪、座布団の上に横たわっていた。祖母は甲斐甲斐しくその花の世話をした。それが失踪した夫の姿だとは気が付かないまま。

 数十年が経ち、男は両親を花にした。やかましかった。妹も花にした。その場にいたので、ついでだった。

 しかしその頃から、男は何かに触れるのが怖くなっていた。


「一度に家族を失ったのだから、君がおかしくなるのも無理はないよ」


 マンションを訪れた友人たちが、窓辺の花の見事さを褒めた。男は意を決して罪を告白したが、非難されるどころか、心配される始末だった。男は口をつぐむようになった。一方で、自分は確かに頭がおかしいのかもしれない、とも思い始めていた。が、しかし、窓辺に飾った三輪の白い紫陽花アナベルは、もう十年は経つというのに枯れる気配がない。

 男は人との関わりを断つようになった。そのような折に現れたのが彼女だった。褐色に染めた髪、少女のような微笑み、繊細だが水仕事で荒れた指先、シーツのように柔らかな声。女は男を愛した。男は徐々に女に惹かれていった。


「この花、枯れないのね」


 二人が共に暮らし始めて幾年かが経過した頃、女は窓辺の花をしみじみと見つめながらポツリと呟いた。花びらは先端まで瑞々しく輝き、茎から伸びた葉はいまだ衰えを知らない。女の呟きを耳にした男の背筋には悪寒が走る。男の動揺など露知らず、女は「不気味ね」と笑い、花に触れようとして、指を止め、目を瞬かせた。


「あれ、いま、何だか」


 男は彼女の手首を掴んだ。緊迫した様子を感じとり、女が顔を上げる。その灰がかった薄緑の瞳がめいいっぱい見開かれたあと、色彩の余韻だけを残して、女は呆気なく花になった。傷んだフローリングに花が落ちる。薄緑の紫陽花だった。


 男は孤独を愛した。もっともそれは初めからではなかった。幼い頃は人と人とが心を分かち合う歓びを、感情を共有し合う歓びを、惜しみなく注がれる愛のあたたかさに浸る歓びを味ったものだ。だが、それらはいつしか冬場の硝子窓のように凍てつき色褪せてしまった。彼らはとうに壊れた蓄音機だった。二度と優しい音色は響かない。だから彼はみんなを花にしてしまったのだ。

 男は孤独にならざるを得なくなった。願ってもないことだった。


 ――あなた、あなた。


 呼んでいる、だれか。

 それはドアの向こう側の義妹の声かもしれない。はたまた、男の願うとおり窓辺に置いた一輪の花からのものかもしれない。

 窓の外では真っ赤な夕日が沈み、部屋一面を鮮やかな色に染め上げた。このまま灰になるのも悪くはない。


“生まれ変わったら何になりたい?”

“なんでも。いいや、なんにも”

“寂しいことを言うのね”


 花になろう、男の指が、薄緑色の紫陽花を撫でる。そうして自分の心臓に手を当てた。


「お義兄さん? ――あら」


 夕日が沈み、宵の影が部屋を満たしている。先ほどまで、たしかにドア越しに感じていた気配がない。

 女は、ふと目を奪われた。床に横たわる一輪の紫陽花である。あやうく踏みつけてしまいそうな影の中に、ものも言わずに落ちている。

 女は草臥れたそれを拾いあげて、花瓶に挿した。二輪の紫陽花が、泣きながら見つめ合っているような気配がして、女は寂しそうに笑った。


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