②ハイツフェルマータ

 雑然とした部屋とは相対して、浴室は異様なくらいに綺麗だった。

 熱いシャワーで、全身の汗と溜まりに溜まった疲れを排水溝へ流す。

 アンリミッターは一時的に外している。

 水に弱いと、間宮がそう言っていたからだ。

 右眼だけしかないという感覚が、何処か懐かしい気分だった。

「服は洗濯しておくね。三十分もあれば乾燥まで終わるから」

 脱衣所の方から、羞恥心を忘れたような、ひなたの声が聞こえてくる。

「あの……そんなに入るつもりはないんだけど……」

「生絃が着れる服はこれ以外にないし……。何ならお風呂に入って時間を潰してもいいよ。後で入ろうと思ってお湯を溜めてあるから。遠慮しないで」

 ちらりとバスタブの方を確認する。

 本当だ。気持ち良さそうな湯気が立っている。

 ここまで厚意にされて、それを無下にするわけにも行かなかった。

「……あぁ、わかったよ」

 バススツールに座って、黙々と頭を洗っていく。

 脱衣所からは、洗濯機の稼働音が聞こえてきた。

 服を脱ぐときに視界の隅に見えたが、マクスヴェルを搭載した最新のモデルだった。

 あれなら、たしかに三十分もあれば、新品同然に洗濯してくれるだろう。

 ……それにしても、だ。

 加神はようやく冷静になった。

 なんで俺は、ひなたの部屋で風呂を借りているんだろうか?

 親しい友人でもないのに、女が自宅の風呂場を使わせる……?

 いやいや、いくらなんでも隙を見せすぎだろう。

 意図があってやっているんじゃないかと疑ってしまう。

 ……考え過ぎか。額面通りに受け取って良いんだろうな……。

 というよりも、それこそ、ひなた相手に考え過ぎなのかもしれない。


 洗濯された制服に改めて腕を通す。

 きっちり三十分、風呂を堪能させてもらった。

 今日は一日を通して、あまりにも色々なことがあった。

 真の意味で、気持ちが落ち着いたように感じる。

 そういう意味では、ひなたの提案に乗って正解だった。

「……うん、さっぱりしたね。それなら何処に行っても平気そうかな」

「どうも……」

 ひなたは相変わらず、チェアの上で胡坐を掻いていた。

 加神はネクタイを結びながら話を聞いた。

「……で、マーリンが何処に行ったのかって話だったよね。……ちょっと心配なことがあってさ……それを言って、マーリンを売ったことにならないかな?」

「何をビビる必要があんだよ。友達なんだろ」

「そうだけど、マーリンは例外だからさ……。下手したら殺されるし」

「耳の痛い話だ……」

「どういう意味?」

「気にするな。それで、その心当たりって奴は?」

 小首を傾げるひなたを戻してやる。

「まー最悪、生絃を言い訳にすれば良いよね。多分だけど、普通に家にいると思うよ。マーリンは任務で鞠那シティを動き回っているか、自宅にいるかのどっちかだし。だからとりあえず、家に行ってみればいいんじゃないかな」

「なら、住所を教えてくれ」

「ふふふ、そう言うと思って、実は生絃の端末機にデータを入れておいたんだよね」

 得意気になって、指をクルクルと回している。

「はいどうぞ。ついでにあたしの連絡先付きだよ~」

 そしてプレゼントを渡すかのように、大げさなタメを作って端末機を渡してきた。

「おい、何勝手なことしてくれてんだ」

 受け取って中身を確認する。

 細かい機能に関しては、まだ把握しきれていないため、変化があるのか確信が持てない。

 ざっと目を通した感じでは、データを入れた以外に、余計なことはしていないようだが。

 加神は、端末機をブレザーの内ポケットにしまった。

「……まあ、何にせよ助かったよ。それじゃそろそろ行こうかな」

「もう行くの?」

「これ以上邪魔するわけにも行かないしな」

「そっか、ちょっと残念」

 それはある種の社交辞令のようなもの。

 そう考えた加神だったが、ドアの前で振り返ると、ひなたは表情に影を落としていた。

 なんというか……らしくなかった。何も今生の別れでもないというのに。

「それじゃ。ありがとな、ひなた」

 わざと手を振って、明るい気分を取り戻そうとする。

「この件がすべて終わったら、三人で飯でも食いに行こうぜ」

「うん……良いね。あたしは賛成するよ」

 これは約束でもあり――必ず事件を解決する誓いでもあった。


 名残惜しそうに、ドアの染みをジーッと見つめるひなた。

「行っちゃった。もうちょっといてくれても良かったのに……」

 彼女の独り言は、加神にはもう聞こえなかった。

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