天から地へ⑤
「……え? あ、おい!」
生徒は、その演説が終わると同時に、窓の方へと駆け出していた。
クレセント錠を開き、窓を解放させ、枠組みに足を掛けて、三階の教室から飛び出した。
ベチャリ。
CIP日本支部。エントランスホールに人が落ちてきた。
二階のフロアから飛び降りたのだろう。微かに息は残っているようだった。
轟支部長は、無表情で近くにいたエージェントに声を飛ばした。
「医務室に連れて行け。それと、ここに脳力者を立ち入らせるな。我々は平気だが、こいつは脳力者に対して洗脳を掛けているからな。大事なエージェントに死なれては困る。わかったら作業に戻れ」
巨大なモニターを見上げながら、現状を整理するように淡々と言葉を紡ぐ。
手元にあるコンソール。その上のモニターには『発射完了』の文字があった。
轟支部長は手をくねらせながら、楽しむようにポツリと呟いた。
「間宮、加神……。さぁ、君たちはどうするのかな」
鞠那スカイタウンの四階。
停止したエレベーターの復旧を待っていたカップルは、何となしに、中央の柱に設置されたテレビモニターを眺めていた。
だが、コート男が意味深な演説を終えると、彼氏が急に自分の首を絞め始めた。
「……あっ、ぐっ、くっ……!」
「たっくん! ちょっと! 何やってるのよ! やめて! やめてってば!」
彼女が慌てて手を引き剥がそうとすると、周りにいた人間が、何事かと集まってくる。
彼氏は床に倒れても、頸部を圧迫することを止めようとはしない。
何かに洗脳されたように、『自分』という存在を殺そうとしていた。
「おい! 君! よしたまえ!」
力に自信がありそうな中年の男性が、彼氏の蛮行を止めようとする。
「……くっ、っ、……」
彼氏の顔面が鬱血の影響で赤く染まり、口の端からは泡が溢れ出した。
「たっくん! たっくん! やめてよ! なんでよ!」
しばらくして、大人三人が力を合わせ、何とか彼氏の蛮行を阻止することに成功する。
彼氏は疲れ果ててしまい、眠るように気を失っていた。
「たっくん……。なんでこんなこと……」
彼女の不安が、水面に落としたインクのように、周囲へと広がっていく。
すると、テレビモニターが切り替わり、パーカーを被った2Dのキャラクターが、画面一杯に表示された。
「あ、森羅アルト!」
彼女のことを知っている周囲の人間が、電撃が走るように喜びの声を上げる。
森羅アルトは、可愛らしい見た目には似つかわしくない真剣味のある様子で、何かを呼びかけていた。
『みなさん! 男は映像を介して洗脳を仕掛けています! 彼の眼を直視しないで下さい! カウントダウン動画の視聴を止めて下さい!』
「洗脳ってどういうこと……?」
「カウントダウン動画って……ネットでもさっきの流れてんの?」
「てかこれ、テレビ局がジャックされてるってことじゃん」
人々は、思い思いの行動を取り始める。
森羅アルトは少しでもそれら好奇心を抑えようと、必死に画面の向こうから呼びかけを続けていた。
『これはイタズラではありません! 男は映像を介して洗脳を仕掛けています! 彼の眼を直視しないで下さい! カウントダウン動画の視聴を止めて下さい!』
9/9
屋上に続く扉を開け放つと、一陣の風が通り抜けた。
その先に追いかけていた男の姿があった。
左右の眼を別々の色に輝かせている――異端脳力者。
「首堂、やっと追い付いたぜ……。今すぐその馬鹿げた洗脳を止めろ」
「フッ、遅いな、加神。今さら止めに入ったところでどうにもならないよ。賽は投げられたんだ。お前も映像を見たんなら、わかるだろ」
「メッセージは聞いたけど、直視はしていない」
加神は、とあるサングラスを着けていた。
午前の調査中、ネイピアビルディングに寄った際に拝借していたものだ。
「それは不動が作った……。チッ、中途半端な脳力だよな」
幟から奪ったアンリミッターを小馬鹿にするように、右眼だけ瞬きする。
……気に入らない。
加神には、あの首堂が、こんなことをする理由がわからなかった。
「首堂。きっかけはなんだ? お前も、トライオリジンを信じてるのか?」
「お前も見たのか、あの光景を。だったらわかるだろ。俺たち脳力者が存在しているせいで、世界は終焉を迎える。これで犠牲者を最小限にできるって言うんなら、俺は悪魔にでもなってやるよ」
「未来が決まっているとは限らないだろ……!」
「違うな。俺は未来予知がどうとか、それだけを理由にしているわけじゃない。大事なのは〝現状〟だ。壊れた天秤を元に戻すんだよ。俺はずっと、それだけが気掛かりだった」
「それで大勢が死んでもいいって言うのか! 俺もお前も、みんな死ぬんだぞ!」
「どんなときでも、歴史が動くときには犠牲が付き纏う。それで最悪を回避できるなら、喜んで死んでやるよ」
首堂は毅然とした態度を貫き通す。
鞠那シティの作られた平和は、脳力者のせいだ。
それを元に戻すこと。それが首堂なりの正義。
……そういうことなのかもしれない。
「加神、俺と交渉でもしたいのかよ。だったらまずはこっちを見てくれよ。親友の眼を見て話すこともできないのか?」
親友……たしかにそうだ。加神にとって首堂は大切な恩人だ。
「……そうしたら、洗脳を止めてくれるのか?」
そこで首堂は、逡巡するように沈黙すると、初めて弱弱しい言葉を吐いた。
「……約束はできない」
「わかった」
加神は、サングラスを屋上の外へと放り投げた。
そして牢とした両眼で、首堂の両眼を見つめた。
「……はは、馬鹿かよ。人の話、聞いてんのかよ。なんで……そんな、堂々としていられんだよ……」
「首堂の言う通りだと思っただけだ。俺たちは親友だ。だから、俺と一緒にやり直そう」
「……悪いな、加神。……俺はもう、引き返せないんだよ」
首堂は絞り出すように掠れた声を出すと、右眼を煌々と輝かせた。
それを直視してしまった加神は、その場から一歩も動けなくなる。
「〝しばらくそこに居てくれ〟……」
首堂はそうとだけ言い残し、通路の先に姿を消してしまう。
扉を電子ロックする音が静かに鳴る。
加神は、屋上から出られなくなってしまったのだ。
――一分も経たずに、【使役】の効果は失くなった。
首堂からしてみれば、多少の時間稼ぎができれば十分だったのだろう。
どの道、屋上から出る道は封鎖されたのだから。
加神はヘナリと座り込み、自分の考えを纏めた。
……首堂は、世界には脳力者は必要ないと断言していた。
そう言えば、今朝、間宮と似たような話題になったこともあった。
脳力者は必要かどうか……か。
……たしかに、必要ないのかもしれない。
脳力なんてものがあったせいで、多くの犠牲が生まれたのだ。
そうして負のサイクルが続いてしまった。
脳力者は必要ない。その考えは一理あるような気もする。
だが、それを理由に〝現状〟を一網打尽にするのは、やり方が乱暴な気もする。
……だったら、やっぱり〝未来〟だな。
まずは未来を確かめること。
天秤を戻すのは、それからでも遅くはないはずだ。
「首堂がそれを目指すって言うなら……俺が目指すものはこれしかねぇ!」
加神は気を奮い立たせると、疲労困憊の体に鞭を打った。
今頃、首堂はスカイランドタワーを離れるために、地上を目指しているはずだ。
だがまだ方法はある。まだ首堂は捕まえられる。
加神は屋上の端まで移動し、淵のギリギリに立って眼下を見下ろした。
鞠那シティが――凸凹な建物が林立する街が、広がっている。
風は体温だけでなく、命までも攫おうとしているかのようだ。
……近道する。方法はそれしかない。
「大丈夫……俺の脳力は【再生】だ。だったら、俺にしかできないやり方で、お前を止めてやるよ……!」
加神は心拍数を整えるために深呼吸を繰り返しながら、一歩ずつ引き絞った。
みんなを守るために、俺の命を使ってやる……!
固い決心を胸に誓うと、加神は弾かれたように足を踏み込み――。
「うらあぁああああ!!!!」
鞠那シティの上空へ――身を投げた。
風を切る速度で落ちていく。
青と白の螺旋が奇妙な模様を描いて流れていく。
中途半端に生き残って、痛い目に遭うのは御免だった。
であれば、一切の痛みも感じずに、確実に死んだ方が楽なはず。
加神は、近づいてくる地面を前にして、覚悟を決めた。
そして、綺麗な赤い模様が、地上に花を咲かせた。
――鞠那スカイタウン・四階――
間宮は、エレベーターの乗客の避難誘導を済ませ、点検用の階段から、地上四階に戻ってきたところだった。
各々が喜びを分かち合う中、一組の親子が頭を下げてくる。
「ありがとうございます! あなたは何者なんですか?」
「ねぇねぇ、おねーちゃんってスーパーヒーローなのぉ?」
好奇心を抑えきれないのか、階段を下る最中ずっと話しかけていた少年が、純真無垢な顔を向けてくる。
間宮はバツが悪くなって、こめかみを指で掻いてしまう。まだ何者にも染まっていない子供を相手にすると、どう返答すれば良いのか困ってしまうのだ。
「私はそんな大層な人間じゃないよ……」
「ううん! おねーちゃんすっごくカッコよかったよ!」
「とにかく! 本当に助かりました!」
母親が少年を後ろに下げながら、再度深くお辞儀をする。
……正直言うと、悪い気はしない。
間宮は頬を緩めた。
係員が乗客の案内を始めたところで、間宮の端末機が着信する。
電話口の相手は、酷い泣き声で、何を言っているのか聞き取りづらかった。
『ま、マーリン……大変なことに、なっぢゃっだよぉおお……』
「ひなた? 何かあったの?」
『ひっぐ……いづ、いづるがぁ……いづるがぁ……し、ししし……』
「何? 落ち着いて喋ってよ。加神に何かあったの?」
『いづるがぁ! 死んじゃっだぁああああ……!』
号泣。
電話口でも、ひなたの頬を流れる大粒の涙が、ありありと想像できた。
事情を知らないとは言え、さすがに引くほどの有様に、間宮はうんざりしてしまった。
「何処で死んでるの?」
ひとまずそこから聞いてみる。
大方カメラでもハッキングして、周囲の様子を確認していたのだろう。
『タウンの外にある広場……。えっぐ……ねぇ、CIPの医療技術なら助かるよね……。臓器がビチャビチャに飛び出してるけど……うん、何とか、元に戻してさぁ……』
「その必要はないと思うけど……」
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