②走馬灯_2

『お前、家に帰らないで何をしてるんだ?』

『……俺が何をしようと勝手でしょ。いい加減、そういうの止めようよ』

『…………』

『父さん……いつまで過去を引き摺っているの?』

 夏休み。加神はようやく、実の父親に対して反抗した。

『おれに説教をするつもりか?』

『そんなんだから母さんは出て行ったんじゃないの? もう止めてよ。これ以上俺を巻き込まないでよ』

『……いつの間にか言うようになったな、生絃……。誰に唆された?』

『これは俺の人生だ! 父さんに振り回されるのはもう嫌なんだよ!』

 今まで我慢していた気持ちをぶちまけると、胸のつっかえが取れたように感じた。

 ――生絃。あなたは素敵な子。私はあなたを愛しているわ。だから元気に生きるのよ。

 ――いや、そういうんじゃない。強いて言うなら、友情かな。それだけさ。

『俺は元気に生きたいだけ……ただ、それだけだ!』

 両手に握り拳を作って、加神は喉が痛くなるほどに叫んだ。

 虐待を受けていたときの痛みとは違う、生きている実感のある痛みだった。

『……それで、なんだ? お前も家を出て行くって言うのか?』

 父親は加神を見下ろしながら、にじり寄った。

 まだ小学生の加神には、その姿は到底倒せない壁のように見えた。

 父親は、加神を軽々と持ち上げると、どす黒い感情で、細い首を締め上げてきた。

『結局お前も同じなんだ。そうやっておれの所から居なくなっていく……。どれだけおれをイラつかせるつもりだ? ……おれだって、もう散々なんだよ』

『放し……てっ……』

 小さな抵抗が意味を為すはずもなく、そのまま加神の体は放り投げられた。

『――っつ!』

 じわじわと痛みが、頭の中に侵入してくる感覚があった。

 頬にそっと手を触れると、赤い液体が纏わりついた。 

 ……血だ。

 どうやら、小棚の角に左眼を打ち付けてしまったようだった。 

『……来い。躾をしてやらないとな……』

 左眼が見えているのか確認する余裕もなく、加神はまた、あの箱の中に閉じ込められた。

 光のない箱の空間に居ながら、加神は考えていた。

 ……これが終わったら、首堂の家に行こう。

 そこで今までのことをすべて話すんだ。

 俺の居場所はここじゃない。もうここには帰らないんだ。

 そう固く決心し、暗闇の空間を耐え抜いた。

 ひと眠りして、おそらく朝を迎えたであろう時間帯。

 加神は扉が開かれるのを待ったが、そのときは一向に訪れなかった。

 暗闇の中、体育座りをして扉のある方向を見つめる。

 身体的苦痛も、精神的苦痛も、子供ながらにして、加神は慣れてしまっていた。

 だからこそ、ふと思ってしまうこともあった。

 ――この扉はもう二度と開かれないのではないか?

 叫んだとしても、どうせ今の父親に声が届くことはない。

 助けを求めたことは今までにあったが、何の意味も為さなかった。

 うだるような夏の日の倉庫は、サウナにいるような暑さだった。

 服は汗でびしょ濡れになり、意識が遠のいていくようだった。

『……嘘だ、ろ……。このまま、ここで死ぬのか……?』

 自分が泣いているのかもわからなくなり――。

 永遠とも思える時間が、淡々と過ぎていった。

 時間という名の攻撃は、加神の体を確実に蝕んでいったのだ。


 ――生絃。あなたは素敵な子。私はあなたを愛しているわ。だから元気に生きるのよ。

 ――いや、そういうんじゃない。強いて言うなら、友情かな。それだけさ。

 加神の頭の中では、二人の言葉が反響していた。

 …………元気に生きる。

 そうだ、生きなくちゃ……。

 俺は、生きるんだ……。

 命の残り香のようなものが、心の中で、それだけをずっと呟き続けていた。

 喉は渇き、腹には何も入っていない状態。

 倒れた状態で目を瞑る力も残っていない加神は、小さな呼吸だけを繰り返していた。

 生きなくちゃ……。

 生きなくちゃ…………。

 生き……なくちゃ…………。


 外では一週間の時が経った頃。

 前触れもなく、目の奥に光が差し込んだ。

『――加神! しっかりしろ!』

 ……誰? 声に出したかった加神だが、それは到底叶わなかった。

 その代わりに、胸が微かに動いていることを感じた。

 声の主が、口の中に何かを流し込んできた。

 水だった。

『……うっ、ぶはっ。かはっ!』

『あぁ! 悪い! こういうとき、どうすれば良いかわかんなくて!』

 加神は思わずむせて、水を吐き出してしまった。

 それが顔面に満遍なく掛かり、目に潤いが満たされると、右眼が正常な光を感じた。

 だが、左眼は潰れており、何も見えないまま。

 加神を助け出してくれたのは、唯一の親友、首堂だった。

『お前そのケガ、どうしたんだよ! とにかく病院に行こう! 今日は親父が家に居るんだ。頼めば連れてってくれるはずだ!』

『ありがとう……首堂』

『……ったく、もっと早く来るべきだったな……。全然来ないから心配したんだぜ……』

 この出来事を皮切りに、事態は明るみに晒されることになった。

 首堂の両親の助力により、ようやく警察が介入し。

 病院での入院生活が終わる頃には、加神の今後が決定されるに至った。

 河川敷の階段に座りながら、二人は話した。

『叔父さんが引き取ってくれるんだってさ。優しそうな人だった。少なくとも、今までよりは良い生活ができると思う。卒業まで今の学校に通わせてくれるって。俺を気遣ってるんだろうな。中学からは別々になっちまうけどな』

『そうか……。けどま、それならそれで、たくさん思い出を作ろうぜ。またウチに遊びに来いよ。歓迎するよ』

 首堂は明るく振舞うと、ちらりと加神を一瞥した。

 加神の左眼が、夕陽を冷たい光にして反射していた。

『義眼って言うんだよ。痛みとかはないけど、空っぽにするのも良くないからな。ケガをしてから時間が掛かり過ぎたんだ。まあ、しょうがねぇよ……』

 それはわかりやすい作り笑いだった。

 首堂は肩を寄せて、手の平で優しく叩いた。

『右眼が見えれば儲けモンだろ。それに俺は、こうしてお前の元気な顔が見れて嬉しいよ』

『あぁ、俺もそう思う』

『……なぁ加神、お前って、将来の夢とかあるのか?』

『何だよ急に……。そういう首堂はどうなんだよ。そっちが教えてくれたら、俺も教えてやるぜ』

 急速に花を咲かせた話題に、二人は無邪気に笑っていた。

『俺は宇宙飛行士になる。メカニックになって宇宙に飛び出してやる。みんなが知らない発見をしてやるぜ! 世界に名前を轟かしてやるよ!』

『轟かすって……。背伸びして難しい言葉を使うなって』

『宇宙には無限の可能性があるんだ! 背伸びしても、足りないくらいだろ! ……で、結局加神はどうなんだよ?』

『俺は……俺は、そうだな……。生きていられればそれで良いかな。幸せな人生を送りたい。そんな感じかな』

『お前こそ、カッコ付けたこと言ってんじゃねーよ。もっとこう……デカい夢はないのかよ。〝宇宙に行く〟みたいな、スケールのデカい夢を持とうぜ』

『デカい、なぁ……。じゃあ俺は、〝生きたっていう証を残したい〟かな……』

『なんだそりゃ? なんつーか、ざっくりしてんな』

『そうか? 教科者に残るような偉大なことをしたい……。そんな感じだ。十分スケールはデカいだろ。ていうか、首堂の夢と大差ないだろ』

『いやいや! 俺は宇宙飛行士だから! 俺は世界に名前を轟かすんだぞ!』

『じゃあ俺は警察官を目指すよ。困っている人を救えるような人になる。それでいいだろ』

『いま考えたんじゃないだろうな』

『そんなことはない。俺は本気だ。俺は必ず〝生きた証を残す〟。それまでは死ぬつもりはないね』

『ふぅん……まあ、お前がそこまで言うなら、それでいいや』

『あぁ』

 そう言って加神は、一念発起の思いで夕陽を仰いだ。

 その両眼は、熱く燃えているようだった。

『いいな、その感じ。生きている顔って感じだ』

『今度は何だよ』

『いいや。お前なら、本当に何かやれそうだなって思っただけさ』


 ――生きた証を残す。

 そのために加神は警察官になろうと努力を重ねた。

 毎日勉強して、毎日筋トレして――。子供の戯言かと思われるかもしれないが、加神は本気で、夢を叶えるために努力していた。

 それが、生きられたことに対する、自分なりの回答だと思ったからだ。

 人生の階段が見えたような感覚があった。

 天まで続く果てしない階段だ。

 子供の頃は、それがはっきりと見えていないようだった。

 目の前に存在するのか、存在しないのか、曖昧な感覚だった。


 ブラインドパークで間宮から、CIPや脳力者の存在を説明してもらった夜。

 その階段は鮮明なものになった。

 CIPに入れば、それが本当に達成できるかもしれない。

 警察官になるだけでは成しえないことも、できるようになるかもしれない。

 命を賭けるだけの意味は十分にあった。

 夜空に満月が昇る時間。時計の短針と長針と秒針が重なる時間。

 だからこそ加神は、固く決心したのだ。

 〝生きた証を残すために、CIPになる〟――と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る