三話 オッド アイ「狂ってるんだよ、私は」
オッド アイ①
――走馬灯――
そう、これは走馬灯だ。
人間は死に瀕したとき、そういうものを見ると言う。
楽しかったことも、辛かったことも、多様な思い出が一挙に押し寄せるのだ。
二回目の――全身を焼かれるほどの苦しみ。
いつからだろう。加神の人生がまともではなくなってしまったのは。
小学校三年生までは幸せな家庭だった。
父親はバツイチだったが一軒家を建てるほどの稼ぎがあり、母親は近所付き合いが得意。
家庭内で喧嘩が起こることもなく、問題という言葉とは無縁の家庭だった。
だが、そんな普通の家庭は、あることがきっかけで崩壊した。
四年生になって、両親が離婚したのだ。
何が理由だったのかは、加神には知る由もなかった。
母親が一方的に家を出て行き、父親も事情を知らないようだった。
『生絃。あなたは素敵な子。私はあなたを愛しているわ。だから元気に生きるのよ』
『だったら一緒にいてよ!』
『……それはできないの。お母さんは、やらなくてはいけないことがあるから……』
『それは俺たちよりも大事なことなの……?』
『……ごめんね、生絃。けれどこれだけは信じて。私は心からあなたを愛しているわ』
それからしばらくの間は、父親は加神の面倒を見ることに必死だった。
だが、数カ月が経ち、今までの生活との反動が大きかったのだろう。
父親は精神を病むようになっていった。
仕事はめっきりしないようになり、酒に溺れる毎日が続いた。
家に帰らないこともあり、当時の加神は、父親が何処か良くないところに行っているのだろうと理解していた。
『なんであいつは家を出て行ったんだ! おれに何か足りなかったって言うのか? 何も言わずに、出て行きやがって! クソッ……! ――なんだよ、何見てんだよ』
『……パパ』
『お前もおれを見下してるんだろ……。お前のせいで母さんは出て行ったんだって、そう思ってんだろ……。ほら、言えよ。どうしようもない父親だって! さぁ言えよ!』
『そんなこと、思ってないよ……』
『…………あぁ、おれは一体、何をしてるんだ……。違う、違うんだよ、生絃……』
父親は、加神を優しく抱きしめて涙を流した。
『ごめんよ、生絃。おれだって生絃を愛してる。……わかるだろう?』
父親は爆発したように怒り狂うと、毎回決まって、気味が悪いほどに懺悔していた。
毎日が怒りと愛情と、そして後悔の連続だった。
父親の纏まらない感情の変化に、加神は振り回されてばかりだった。
五年生になって、父親に愛人ができた。
母親よりも年齢は若く、下品な色気を振りまくような女だった。
まるで正反対の人間性を体現するような女で、加神はその女が苦手だった。
愛人は頻繁に加神家を出入りするようになった。
父親の、加神への暴言はなくなったが、それでも生活が改善されることはなかった。
愛人が家事をすることもあり、血縁関係のない部外者が、自分の生活に浸食していく様子が、加神は嫌だった。
事態が急変したのは、ある日の夜のことだった。
加神が風呂上りに脱衣所で着替えているとき、愛人とばったり出くわしたのだ。
『……あら、可愛い息子さんね。生絃くんだっけ? あの人の子供なんだよね?』
『……は、い。そうです……』
『そっかぁ。ねぇ、お父さんってばね、意外とガードが固くてさ、困ってるの。あんなに良い男なのにね。何か理由でもあるのかな?』
『……あの、着替えたいので、一人にしてくれませんか……』
『え……何? 緊張してるの……? ――あっは! あぁ、そっか~……』
丁度父親は外出している時間帯だった。
そして、それから三十分ほどの出来事は、今でも忘れたいと思っている事だった。
帰宅した父親は、自分がいない間に何があったのかを理解すると、激高した。
『ガキのくせに色づいてんじゃねぇぞ! おれの女に手ェ出してんじゃねぇ!』
『俺は……別に……』
『躾が必要だな……。来い、生絃。お前の腐った性根を叩き直してやるよ』
そう言って父親が連れて行ったのは、裏庭にある倉庫だった。
季節的にも、まだ夜は寒い時期だというのに、加神はそこに一晩閉じ込められた。
一切の光のない――真っ暗闇な箱の空間は、幼い精神を壊すには十分だった。
『パパ! ……パパ! 開けてよ! 怖いよ! ……謝るから! ごめんなさい! 全部俺のせいだから! ……だから、ここから出してよ……。お願いだよ……』
壁を叩いても、赦しを請うても、扉が開かれることはなかった。
泣き崩れ、疲れ果てて眠ってしまった頃には、外では夜が明けていた。
ようやく扉を開いてくれた父親は、無機質な瞳を向けるだけだった。
その日を境に、加神の辛い日々が始まった。
何が起因になるのかはわからない。
父親は加神の言動に何かと腹を立てると、すぐに暴力を振るうようになった。
殴る蹴るは当たり前で、加神の存在自体を否定するような言葉も躊躇なく使った。
火傷、切り傷、青痣ができても放置で、その痕を服で隠して、学校に通わされた。
それでも加神は、虐待の事実を誰かに相談することはなかった。
母親がいなくなり、父親が傷付いていることが原因だと思っていたからだ。
自分自身がしっかりしなくてはいけないのに、何もしてやれないことを無力だと思っているほどだった。
そして愛人の方は、父親がいない時間帯は、加神に性的暴行を下すようになった。
父親の暴行の影響で、加神は不安定な状態だ。
そのせいで、愛人のことを自分から求めることも少なくなかった。
あのときの感情を忘れ去りたいと、終わった後で自己嫌悪に陥る。
負の連鎖は連日続いた。
倉庫に閉じ込められるときは、服を着させてもらえず、食事も与えてもらえなかった。
……今は耐えるしかない。
父親がいつか元に戻るときが来るはず。
あのときの幸せな日常が戻ってくるはず。
そう言い聞かせながら、どうにか学校に通い続ける日々だった。
すると、ひょんなことから友人ができた。
首堂昂太郎というクラスメイトで、授業中にペアを組まされたことがきっかけだった。
仲良くなる――というよりは、首堂の距離の詰め方はちょっと異常だった。
『なぁ加神、お前さえ良ければ、俺んちに遊びに来ねーか』
『……え。うん、いいよ……』
もしかしたら、加神の抱える問題を見抜いていたのかもしれない。
その証拠に、首堂は決して、加神の家庭を話題にすることはなかった。
遊びに行くのは大抵、公園か首堂の家だ。
首堂の家にはゲームや漫画といった娯楽がたくさん置いてあり、すべてを遊び尽くすには時間が足りないと思えるほどだった。
対戦ゲームで夢中になっていると、首堂の母親が茶菓子を持って来てくれたり、首堂の父親が一緒に映画館に行こうと誘ってくれたり、昔の家庭を思い出すような、楽しい一時がそこにはあった。
『加神って、馬頭星雲とオリオン大星雲ならどっちが好きなんだ?』
ある日、いつものようにお気に入りの、宇宙を探査するゲームに熱中していると、首堂がそんなことを聞いてきた。
『よくわからないけど……オリオン大星雲? かな』
『おっ! 気が合うな! なぁ、俺たちって親友だよな?』
『う、うん。そうだよ』
『へへっ、だよな! お前と遊んでると凄く楽しいんだ! ……だからさ、いつかお前が勇気を出せるようになったら、どんな悩みでも相談してくれよ』
『……それは、同情してくれてるの?』
『いや、そういうんじゃない。強いて言うなら、友情かな。それだけさ』
『……はは、変わってんな、首堂って』
六年生になってからは、加神はほとんど家に帰らなくなった。
首堂の家で遊び、首堂の家でご飯を食べ、首堂の家から学校に行くこともあった。
首堂の家族は、それを気にしていないようだった。
後になって思えば、風呂を使わせてもらえることもあったことから、体の傷痕には気付いていたのかもしれない。そして、加神の家庭が抱える問題についても。
今となっては真相を確かめることもないが、日に日に明るくなっていく加神に対し、首堂の家族は、その問題を聞き出そうとすることはなかった。
そうやって――首堂の家が、家族が、加神の居場所になっていった。
『お前、家に帰らないで何をしてるんだ?』
『……俺が何をしようと勝手でしょ。いい加減、そういうの止めようよ』
『…………』
『父さん……いつまで過去を引き摺っているの?』
夏休み。加神はようやく、実の父親に対して反抗した。
『おれに説教をするつもりか?』
『そんなんだから母さんは出て行ったんじゃないの? もう止めてよ。これ以上俺を巻き込まないでよ』
『……いつの間にか言うようになったな、生絃……。誰に唆された?』
『これは俺の人生だ! 父さんに振り回されるのはもう嫌なんだよ!』
今まで我慢していた気持ちをぶちまけると、胸のつっかえが取れたように感じた。
――生絃。あなたは素敵な子。私はあなたを愛しているわ。だから元気に生きるのよ。
――いや、そういうんじゃない。強いて言うなら、友情かな。それだけさ。
『俺は普通に生きたいだけ……ただ、それだけだ!』
両手に握り拳を作って、加神は喉が痛くなるほどに叫んだ。
虐待を受けていたときの痛みとは違う、生きている実感のある痛みだった。
『……それで、なんだ? お前も家を出て行くって言うのか?』
父親は加神を見下ろしながら、にじり寄った。
まだ小学生の加神には、その姿は到底倒せない壁のように見えた。
父親は、加神を軽々と持ち上げると、どす黒い感情で、細い首を締め上げてきた。
『結局お前も同じなんだ。そうやっておれの所から居なくなっていく……。どれだけおれをイラつかせるつもりだ? ……おれだって、もう散々なんだよ』
『放し……てっ……』
小さな抵抗が意味を為すはずもなく、そのまま加神の体は放り投げられた。
『――っつ!』
じわじわと痛みが、頭の中に侵入してくる感覚があった。
頬にそっと手を触れると、赤い液体が纏わりついた。
……血だ。
どうやら、小棚の角に左眼を打ち付けてしまったようだった。
『……来い。躾をしてやらないとな……』
左眼が見えているのか確認する余裕もなく、加神はまた、あの箱の中に閉じ込められた。
光のない箱の空間に居ながら、加神は考えていた。
……これが終わったら、首堂の家に行こう。
そこで今までのことをすべて話すんだ。
俺の居場所はここじゃない。もうここには帰らないんだ。
そう固く決心し、暗闇の空間を耐え抜いた。
ひと眠りして、おそらく朝を迎えたであろう時間帯。
加神は扉が開かれるのを待ったが、そのときは一向に訪れなかった。
暗闇の中、体育座りをして扉のある方向を見つめる。
身体的苦痛も、精神的苦痛も、子供ながらにして、加神は慣れてしまっていた。
だからこそ、ふと思ってしまうこともあった。
――この扉はもう二度と開かれないのではないか?
叫んだとしても、どうせ今の父親に声が届くことはない。
助けを求めたことは今までにあったが、何の意味も為さなかった。
うだるような夏の日の倉庫は、サウナにいるような暑さだった。
服は汗でびしょ濡れになり、意識が遠のいていく。
『……嘘だ、ろ……。このまま、ここで死ぬのか……?』
自分が泣いているのかもわからなくなり――。
永遠とも思える時間が、淡々と過ぎていった。
時間という名の攻撃は、加神の体を確実に蝕んでいったのだ。
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