第5話
翌日の午後になって、ようやく家へ戻ることが許された。鑑識の結果が出、僕を容疑者として拘留する決め手が出てこなかったからだ。
鑑識の結果、新たな事実が刑事たちにもたらされたようだった。花瓶の花びらが散っていたビニールクロスに、男物の靴の跡があったのだ。靴跡は花瓶に入っていた水でできたものと考えられる。
ということは、ルイーズに異変が起き、花瓶が割れたときにその場所にいた人物のものということになる。靴跡のタイプは、庭の手入れのときに履く、長靴の靴底にあるものらしい。もちろん、昨夜も今も、僕はそんなものを履いてはいない。この事実を刑事たちは認めざる得なかった。
といって、容疑が完全に晴れたわけではなかった。僕は許可が下りるまで、イギリス国外へ出ることを禁止された。そしておそらく容疑が晴れるまで、どこへ行くにも刑事の尾行がつくにちがいない。
泥のように疲れた体を引きずってフラットに着いたのは、午後三時を過ぎたころだった。
昨夜激しかった雨はやみ、深まる秋を予感させるたよりない薄日が、見慣れた建物を照らしていた。フラットの前の駐車場にできた水たまりに、風で運ばれたオークの枯葉が散り、風景はわびしさを増していた。 オークの巨木は、フラットと隣の建物の境に立つ。
僕は木を仰ぎ、ふいに言いようのない衝動にかられ、足元に落ちていた小石を投げた。石は太い幹に当たり、ストンと落ちた。
日本へ帰りたいか?
フラットの階段をのぼりながら、僕は自問した。警察署を出たときも、バスに揺られながらも、この問いは何度もぼくの胸を去来した。そのたび、僕は素知らぬふりをした。だが、投げやっても投げやっても、もうひとり自分の声が訊いてきた。こんなことは、はじめてだった。日本を出てから不愉快な目にはたくさん出くわしたが、帰ろうと思ったことはなかった。それが今日は、どうしても、もうひとりの自分の声を消すことができない。
――もう、誰も責めやしないよ。
もうひとつの声は、そう言っている。四年が経ったのだ。もうは母はいないが、東京には父や姉がいる。彼らは僕の帰りを待っている。
でも、帰るわけにはいかないのだ。いや、帰る勇気がないといったほうが当たっている。
四年前、僕は一人の親しい女友達を失った。まだ十四歳という若さの、きらきらした目をした少女だった。
アルバイトで勤めた学習塾の生徒だった彼女は、僕に好意を持っていた。だが、それが彼女が死を選ぶほど深刻な感情だとはわからなかった。ひと夏で辞めた英語講師の仕事が終わってからも、彼女とは友達付き合いを続けた。彼女に誘われるまま、勉強を見てやったり、映画に連れて行かれたり。
かわいい妹のような存在だった。ただ、それだけのことだった。だから、当時付合
っていた慶子の話もした。
彼女が自殺を図ったとき、まさか、原因が自分にあるとは夢にも思わなかった。泣きじゃくる彼女の母親から責められて、初めて僕は彼女の心の闇に初めて気づいたーー。
彼女の葬儀が終わってから、逃げるようにイギリスにやって来た。
僕は人と深く関わるのを避けた。そして英語学校へ通いながら、ふらりと入った骨董の販売会で、小さな陶器の置物を買ってから、この世界にのめり込むようになったー―。
薄暗い廊下を足早に抜け、怒ったようにズボンのポケットから部屋の鍵を出した。とにかく早くベッドに入ることだ。たっぷりと眠れば、あたらしい気持ちが生まれてくるんじゃないか。
すると、背後で、僕を呼ぶ声がした。
「ミスター・カワサキ」
怒気を含んだ、マイクの声である。うんざりして振り返ると、マイクはいつもと同じように、自分の部屋のドアを半分開けて、顔を覗かせていた。
「オークの木に石を投げるのを、見たぞ」
僕はチッと舌打ちした。普段なら、僕は人にたいしてこんな態度はぜったいに取らない。だが、今日は疲労と絶望が気持ちを投げやりにしていた。返事もせず部屋の中へ入ろうとしたとき、あるひらめきが浮んだ。
僕は踵を返して廊下を戻り、渋面のマイクの前に立った。
「この前の晩、僕の知り合いを見たと言いましたね。あれからは、どうです? 今日は見ましたか?」
マイクは首を振った。
「わしはあんたの監視役じゃない。ただ、このフラットの住人が快適に暮らせるように」
まだ話の途中だったが、礼を言うと、僕は勢いよく自分の部屋へ戻った。ひらめきが、僕を元気にした。嘘のように体の疲れが取れ、眠気も感じなくなった。
容疑が晴れるかもしれない。マイクやディビットが見た女は、昨夜も僕のまわりをうろついていたかもしれない。
小躍りしたいような気分で、僕は熱いシャワーを浴びるために服を脱いだ。あまり勢いのない湯を首筋に当てながら、ルイーズの家から警察署へ向かうとき見た、痩せた赤毛の女を思い返した。
もし彼女が、ぼくのまわりをうろついていた女なら、僕がルイーズを殺さなかったことも見ているはずだ。
なんとしてでも、彼女を見つけ出そう。そして証人になってもらうのだ。
そこまで考えて、僕は暗澹となった。彼女の正体を知らないのだ。どうやって見つけ出すのだ?
着替えをすませ濃いコーヒーを入れると、僕はソファに坐った。膨らんだ期待はしぼみ、鮮やかだったひらめきの色は褪せはじめた。
――もし、彼女が二度と現れなかったら?
昨夜の刑事たちの、執拗な尋問が思い返された。今後捜査がすすみ、容疑者として法的に拘留されれば、昨夜のように一晩ではすまされないだろう。いや、二度と戻れないことも考えられる。
彼女さえ見つかれば。
だが、何の方法もなかった。ただふたたび彼女が現れてくれることを願いながら、手をこまねいて待つしかない。そう思ったとき、ディビットの言葉がよみがえった。
彼女を見たのは八月に入ってからだという。
僕は記憶をたどった。八月になる前に、何か特別なことをしなかっただろうか。誰かの注意を引くようなこと。誰かの恨みをかうようなことーー。
懸命に記憶をたどっても、思い出せることはわずかだった。そのうえ、思い出せたことはどれも、些細な事柄ばかりだった。以前から探していた本を見つけたこと、お気に入りの公園の、僕が勝手に指定席と決めているベンチが、舗道の工事のせいでなくなったこと、掃除機を買い換えたこと、長年使ってきた鞄に穴が開いたこと。
さして事件もない、いつもの夏だったと思う。ほとんど毎日のように販売会へ出かけた。 夏は野外で開かれる大きな販売会が多い。 普段より忙しく過ごしたはずだ。
そう、変わったことといえば、同業者の紹介で、ウエスト・サセックスへ、ある婦人の遺品の整理に出かけたことぐらいか。
見知らぬ女は、僕が出かけた販売会に顔を出している。ということは、僕というよりも、僕が持っている品のほうに興味があるのではないか?
立ち上がって、隅に積んだ段ボール箱の前でしゃがんだ。箱の中には、遺品整理の際に買った品が入っている。といっても、高価なものはなかった。値打ちのあるものは、すぐに販売会に出し、さばいてしまった。残っているのは、この箱だけだ。
壊れた腕時計やぼろぼろのテディ・ベア、セピア色の古い写真が貼られた表紙の取れたアルバム、すりきれた靴と服。
たしか亡くなったのは、ミセス・バーリントンといったのではなかったか。立ち会った弁護士が、彼女には身内がおらず、このまま身内が見つからなければ、残された家は売られて寄付されるだろうということだった。
ガムテープを剥がして中を見てみると、埃っぽい臭いとともに、記憶どおりの品が転がっていた。どう贔屓目に見ても、他人のあとをつけてまで興味を持つものとは思えない。だが、この箱以外に考えられなかった。
これが彼女の目的だとすれば、どうすれば、彼女をおびき出すことができるだろう。販売会に出かけ、平台の上に陳列するか。それともーー。
僕は冷蔵庫に貼り付けてあるカレンダーを見た。水曜日だ。そして腕の時計も見た。四時半すぎ。まだオークション(競り市)の受付に合う。
もし彼女が、常にこちらを監視しているとすれば、今夜のオークションに僕が行くことを彼女は知っているはずだ。
脱いだばかりのウインドブレーカーを着込んで、僕はミセス・バーリントンの遺品の入った箱を持ち上げた。
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