第4話

 いつのまにか集まってきた野次馬たちで通りは騒然となり、ルイーズの家は舞台が解体されるかのような騒ぎになった。手袋をはめた男たちがありとあらゆる場所に踏み込みーーバスルームやキッチンの奥の納戸、階段の下にある物置までーー徹底的に調べあげようとしている。

 名前と国籍、生年月日を述べ、簡単な事情聴取を終えると、僕は若い警官に付き添われて家の外に出、門扉の脇に立ち刑事の指示を待った。さらに詳しい話をするために、警察署に行くよう要請されたのだった。


 雨が強くなっていた。寒くありませんかと、横に立つ警官が言った。

 僕は首を振った。実際寒くはなかった。唇がかすかに震えているのは、恐怖のためだ。現実に人が殺されたという事実に、慣れることができなかった。

 

 車が家の前に回され、警察署へ向かうことになった。家の前にはりめぐらされた立ち入り禁止のテープをくぐり抜け、警官に続いて舗道を歩いた。そのとき、はじめて、僕は家のまわりに集まっている野次馬たちに目を向けた。夜も更けて、野次馬の数は減っていたが、まだ数人の物好きたちが、好奇心いっぱいの視線をこちらに向けている。

 

 車に乗り込もうとしたとき、舗道に植えられた街路樹の陰に、一人たたずんでいる若い女の姿に気付いた。

 道路に停められた数台の車のライトが、女の顔をはっきりと浮かび上がらせた。蝋のように白い肌の、赤毛の女だ。

 白っぽいシャツにジーンズ。雨に濡れながらたたずんでいる姿は、迷子になったウサギのように頼りない。

 昨日販売会でディビットの言ったことが、蘇った。僕のまわりをうろうろしているらしい女のことだ。

 

 まさか、こんなところまで。

 そう思ったとき、僕は忘れ物を思い出した。ルイーズといっしょに食べようと思って買ったサンドイッチだ。だが、事件現場に置いてきてしまったものを、持ち帰れるはずがない。それに、今となっては、もう無用のものだった。あれはルイーズと食べようと思って、買ったのだ。

 

 走り出した車の窓越しに、僕は最後の一瞥をくれるように、ルイーズの家を振り返った。



 エレファント&カースルの駅前を通り過ぎ、セント・ジョージロードに入ると、雨は激しく降りはじめた。すでに真夜中近く、通りは暗い水底のように見えた。

 警察署では、付き添いの警官といっしょにしばらくの間ホールで待たされた。内部は、蛍光灯の光で、時間を忘れたような明るさだった。そして無味乾燥なつくりは、日本の警察と同じようなものだった。ベージュ色のリノリウムの床やスチール製のカウンター。天井は高いが、窓はグレーのブラインドで閉ざされている。

 真夜中にふさわしくない大声や、ドアを開け閉めする物音が聞こえてきた。だが、隣に坐る警官の様子は変わらなかった。おそらく、今夜も、いつもと同じ夜なのだろう。どこかで誰かが殺され、どこかで誰かが逃げている。


 事情聴取を受けるための部屋に入ってからすぐ、付き添いの警官と入れ替わりに、ルイーズの家で話をした刑事が二人やってきた。ひとりは年配で、片方はぼくと同じくらいの年齢か。年配のほうはいかつい体の男で、若いほうは長身で痩せ、シティ(ビジネス街)にいるビジネスマンのような雰囲気を醸し出している。

 

 部屋を横切りながら、年配のほうが、ぼくにねぎらいの言葉をかけた。その体型とは対照的に、目が小動物のように優しい。手にした紙の束を整えながらスチール製の机の前に坐る横顔を見て、スコッテッシュ(スコットランド生まれの人)ではないかと思った。

 相手に好感を抱くと、スコティシュだと思う癖が、ぼくにはある。はじめて旅行でロンドンを訪れたとき、グラスゴーから来たという男と安ホテルで知り合いになり、親切にされた覚えがあるからだ。


 同じことを訊いて恐縮だがと前置きしてから、年配のほうの刑事が、手元に視線を落としたまま、僕の名前と年齢、住所に国籍と職業を訊いた。ぼくはルイーズの家で言ったと同じことを繰り返した。

「名前はケンジ・カワサキ、年齢は二十八歳、住所は27 Wincott St.Lambethです。 国籍は日本、外国人向けの英語学校の学生です。といっても、ほとんどといっていいほど、顔を出していませんけど」

 今現在、本当に籍があるか怪しいものだった。学費を納めたのは最初の半年だけで、今では催促の通知さえ送ってこない。


「では、あなたはロンドンで何をしているんですか」

 ロンドンには、世界各国から、さまざまな理由で人々が押し寄せている。僕のような人間はめずらしくないはずだ。どちらにせよ、暮らしについて本当のことを言うつもりはなかった。学生としてこの国に滞在している場合、就業は許されない。

「骨董を集めています」

 刑事は驚いた顔になった。

「ほう、骨董ですか。この国は、骨董の市場が深く広い。ちょっとした小遣い稼ぎになるでしょう?」

 僕は曖昧に頷いた。僕の年齢や風貌から、商売の腕を信じてくれる人間は少ない。   

 イギリス全土で、骨董市は毎日数限りなく開かれている。その市で、日に二00ポンドを稼げば、一月じゅうぶん暮らしていけるのだ。その商才が、僕にはある。


「ビザが切れそうになると、ドーバーから船でフランスへ渡り、しばらく向こうで探すこともあります。短期間でも国外へ出れば問題にはなりませんからね」

 すべてを納得したかのように、刑事は顎をひいて、僕を見た。


「――さて、ルイーズさんのことですが」


 刑事は書類に視線を落とした。

「亡くなったルイーズさんとはお友達だったそうですが、どれくらいのお付き合いになりますか」

「そうですね、一年ぐらいです」

「恋人だったわけですか」

 そして刑事は、

「彼女は体を売って生活していたようだ。近所の聞き込みから、その事実がわかりました」

 そう言って、僕の目をじっと見つめた。

 昨夜ルイーズの家に入る前に、窓に映った影を思い出した。あの影も、ルイーズの客だったのだろう。

 刑事が続けた。


「あなたは昨夜、――十一時前に彼女の家へ行き、また戻ったんでしたね」

「そうです」

「窓から、彼女のほかに誰かいるのが見えたからだと?」

「ええ。ルイーズは一人ではないようでした」

 すると立っていた若いほうの刑事が、はじめて口を開いた。

「彼女の家に誰かが来ていることに気付いてーー」

 僕は彼を振り返った。

「あなたはパブで時間を潰したと言いましたね。誰か、その店にあなたがいたことを覚えている人はいそうですか?」

 なぜそんなことを訊かれるのか、わからなかった。

「どうでしょうーー」

 言葉を続けようとして、僕ははっと目が覚めたように、若いほうの刑事を見、そしてもう片方の刑事を振り返った。

 

 沈黙が流れた。

 僕は二人の刑事の目を交互に見つめ、二人の意図していることを理解した。

「僕がパブで時間を潰したことを、疑っているんですか」

 それを疑われているとすれば、二人は何を言わんとしているのか。僕は思わず立ち上がりそうになった。若いほうの刑事が、僕の肩を掴んだ。

「この三年間の間に、ルイーズさんのほかに、親しい女友達はいましたか」

 どういう意味で訊ねられているのかわからなかったが、僕は彼を見つめたまま、言った。

「いませんよ」

「あなたの年齢ではめずらしいですね」

 僕は答えなかった。

「親しい友人はどうです? ロンドンには、日系人がたくさん暮らしているはずだ」

「日本人同士だからといって、親しくなれるわけでもないんですよ」

 ふむと、若いほうの刑事は頷き、それから部屋の隅の空いた椅子を持ちあげると、僕の目の前に置き、腰を下ろした。


「あなたはルイーズさんにのめりこんでいたんじゃ、ありませんか」

 僕と彼は、見詰め合うことになった。

「――どういうことでしょう」

「彼女にとっては、あなたはただの客でしかなかったかもしれない。だが、あなたのほうでは違った。彼女に別の男がいるのを目の当たりにして、嫉妬に狂ったーー」

「ちょっと待ってください」

 僕は立ち上がった。握り締めた両拳は震え、怒りで言葉が詰まった。だが、目の前の刑事の表情は静かだった。


「――ここはあなたにとって、外国だ。恋人も親しい友人もいない外国生活はさびしいものだったはずだ。そんなあなたにとって、ルイーズさんは非常に大切な人だったーー。あなたは彼女がほかの男といるのを見て、裏切られた気がしたーー」


 なぜここへ連れてこられたのかが、今はっきりと理解できた。


 疑われていたのだ。僕は殺人の容疑者とみなされているのだ。


――ボク、ハ。つい日本語が飛び出しそうになったが、それを制するように、若いほうの刑事が続けた。

「これまでの調べでは、彼女が殺されたのは、昨夜の八時から十二時の間。解剖の結果が出るまで、これ以上詳しいことはわからないが、ほぼこのとおりでしょう。死因は、鼻腔部閉塞による窒息死。彼女は口の中にシルクの敷物――、おそらくサイドボードの上に敷かれていたものでしょう、それを詰め込まれ、ベッドの上のブランケットかなにかで鼻腔を塞がれて殺されたようです。この殺し方は、普通あまり成功しません。だが、もし被害者がアルコールや睡眠薬によって抵抗不可能であれば、簡単に目的を達することができます」

 ルイーズの家の居間にあった、ワイングラスが蘇った。刑事の推測どおり、ルイーズの体には酒が入ってい、無抵抗に近い状態だったのだろう。もともとルイーズは、酒が強いほうではなかった。


「さあ、ミスター・カワサキ」

 声をあげたのは、年配のほうの刑事だった。僕は二人を交互に見つめ、唇を噛み締めた。

 自分にふりかかった容疑を、晴らさなくてはならない。ぼくはすがるように知人の顔を思い浮かべた。いくつもの顔が、浮んでは、消えた。 日本人が三万人暮らすといわれるロンドンだが、頼れる顔は見当たらなかった。


「もう一度、はじめから順を追って話していただきたい」

 そう言った刑事の小動物のように優しい目を見据えたまま、ぼくは祈るように呟いた。

 誰かーー、誰でもいい。昨夜の僕を見ていてくれたらーー。


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