第3話

 生きているうちに、もうおまえとは会えないだろうね。


 そう母が呟いている。


 大袈裟なことを言うなよ。いまどき外国に暮らすことなんか、めずらしいことじゃないんだよ。


 しかし母はさびしそうに笑い、もう一度同じ呟きを繰り返す。その声は、だんだん小さくなる。まるで呟きながら消えていくかのように、母の姿は遠のいていく。


 目を覚ますと、カーテンを閉め忘れた窓が真っ暗になっていた。いつのまにか眠っていたらしい。

 昨夜販売会を終えて家にたどりついたのは、途中車が故障したせいで、真夜中になった。だから今日はコレクターの家を訪ねる予定を変更して、家で過ごした。昼過ぎまで眠り、そして夕方からふたたびソファの上で眠ってしまった。

 首筋にうっすら汗をかいていた。母の夢を見た後は、必ずこうなる。

 立ち上がって部屋の電気をつけ、ついでにテレビのスイッチにも手を延ばした。だが、どのチャンネルに合わせても、興味を持続させることはできなかった。テレビを消し、雑誌をひろげた。それもすぐに飽きた。


 出かけようか。


 そう思ったのは、棚の置時計の針が、九時を回ったときだ。昼食を食べたのが遅かったせいで、ようやく空腹を感じはじめている。スーパーマーケットの脇にあるケバブを売るスタンドで、サンドイッチでも買おうと思った。

 外は霧雨だった。僕はダンガリーのシャツの上にウインドブレーカーを羽織って、フラットを出た。


 石畳の舗道は雨に濡れ、たよりない街灯がいくつもの小さな水たまりを照らしていた。大きな通りに出て、人気のないスーパーマーケットの駐車場を横切り、ケバブの店に着いた。

 円筒形の大きな串に貼り付けられた肉が、ゆっくりと焼かれるのを見ながら、注文したサンドイッチが出来上がるのを待った。客は次々と訪れ、あたたかそうな目をしたトルコ人が、手際よく注文を捌いていく。

 サンドイッチのトッピングを言い終えたとき、店員に調子はどうだと訊かれた。愛想のいい彼らは、いつもなにか言葉をかけてくれ、たわいないおしゃべりをするのだが、今夜はなぜか胸に染みた。僕はふと思い立って、サンドイッチをもう一つ追加した。

 

 追加して二つになったサンドイッチと二人分のコーラを持って、自分のフラットとは反対方向へ道路をすすみ、公園を横切って大通りに出てバスに乗った。歩いてもそれほどの距離ではないが、早く着けば気が変わらずにすむ。バスは空箱が振られるようにすすみ、見慣れた通りを抜けていった。

 

 住宅街を抜けると、そこだけ開発が遅れているらしい古い倉庫が見えてきた。その向こうに、ルイーズが住む家はある。二つ目のサンドイッチを、僕は彼女と食べるつもりだった。

 

 ルイーズとは、地下鉄の駅の近くにあるパブで知り合った。僕はときどきひとりで、そのパブに行く。田舎によくある常連客で占められるパブとはちがって、ひとりカウンターにもたれて飲んでいても違和感のない店だ。 店の名前はアンカー。ルイーズはその店のカウンターの向こう側で、週に三日働いている。

 言葉を交わすようになったのは、二度目に飲みに行ったときだった。さっぱりした性格の明るい女で、美人というほどでもないが笑うと人のいい顔になる。整えていない眉と、その下でよく動く水色の目が素朴な感じがした。あとで聞いてみると、年は四つ上だったが、染めたらしい金髪の長い髪とスレンダーな体型のせいで、ずいぶん若く見えた。

 はじめてルイーズの部屋に泊まったとき、ほかにも泊まりに来る男がいると聞いて驚いたが、二度三度ルイーズのベッドの上で過ごすうち、気にならなくなった。ときどき金を置いてくることも、いつかしら自然なことになった。ルイーズはいつも僕を明るく迎えてくれ、僕も彼女に優しく接した。


 この前はいつだったか。僕はバスを降り、倉庫を囲む高い塀に沿って歩きながら、思った。十日前か、それよりもう少し前か。

 そう思ったとき、僕はルイーズの家の前に来ていた。日本で言うところの小さなプレハブ住宅のような建物で、庭先に花もないせいか、わびしい感じに見える。

 

 小さな木の門扉に手をかけたとき、二階の窓に映る人影に気付いた。どうやら、今夜は先客があるようだ。

 別の男が来ているのか。

 わかっていたことだが、ストンと気持ちが沈んだ。そういう付き合いだと割り切って会ってきたくせに、 どこかにうぬぼれがあったらしい。

 いったん開けた門扉を閉じて、僕は踵を返した。電話してから来てちょうだい。いつもルイーズはそう言っていたが、僕は言い付けを守ったことがなかった。それでも今夜のように、先客があったことはなかったので、聞き流していたのである。


 次にしよう。

 そう思いながら、もと来た道を引き返そうとしたが、足取りは重くなった。フラットに戻って、二人分のサンドイッチを食べる気にはなれない。腕時計を見ると、まだ十一時には間があった。十一時までなら開いているから、今行けば一杯飲むことができるだろう。パブで時間を潰して、ふたたびルイーズの家へ行ってみようと思った。


 そのころには、先客が帰るはずだ。そう思ったのは、いつかルイーズがこぼしたひと言を思い出したからだ。

 泊まっていく人はあんただけよ。

 またうぬぼれかもしれないが、ルイーズの言葉を信じようと思った。



 通りをしばらくうろうろするうちに、パブを見つけた。閉店に近い時間のせいか、店内に客の数はまばらで、八十年代に流行ったディスコミュージックが、店の雰囲気にそぐわないほどの大音響で流れていた。

 ジョッキに注がれたビールを半分ぐらいまで飲み干したとき閉店になり、僕は店を出た。

 まっすぐ向かってはまだ早いかもしれないと、遠回りをすることにした。胸に抱えたサンドイッチはとうに冷え、コーラはぬるくなっている。コーラをラッパ飲みしながら、見知らぬ通りをあてもなく歩き、どうにか三十分をやり過ごしたころ、ふたたびルイーズの家の前に来た。


 建物を仰ぐと、二階の電気は消えていた。予想どおり、先客は帰ったらしい。僕は遠慮なく呼び鈴を鳴らして、ルイーズが出てくるのを待った。

 リー、リーと、いまどきあまり聞かない旧式の呼び鈴が三度響いたが、ルイーズの返事はなかった。ドアを開ける音や、階段を降りる足音も聞こえてこない。ドアノブに手をかけると、ドアはカチリと音を立てて開いた。


「ルイーズ、僕だよ」


 声をあげたが、返事はなかった。玄関から廊下がのび、ピンク色の傘をかぶった白熱灯の簡素なシャンデリアが、された緑色の床のじゅうたんと階段を照らしている。

 僕は居間のドアを開け、ふたたびルイーズを呼んだ。 だが、八畳ほどの居間には、誰もいなかった。テレビからはBBCのニュース番組が流れている。

 

 ペイズリー柄の青いソファの前にあるテーブルの上に、ワイングラスが二個あった。

 客は帰って、ルイーズはひとり二階の寝室で眠りこんでいるのだろう。

 いつも眠りの浅いルイーズが、僕の呼びかけに返事をしないことは奇妙だったが、ほかに何も思いつかなかった。小さな家だ。キッチンにいるなら、バスルームにいるなら、そしてベッドの上で目を覚ましているのなら、返事が返ってこないはずがない。

 

 テーブルの上に持ってきたサンドイッチの袋を置き、 階段をのぼった。

 二階には二部屋あり、ルイーズは東側の大きいほうの部屋にベッドを置いている。  

 寝室のドアに手をかけようとして、何かがおかしいと、はじめて思った。ドアの前に、ルイーズがいつも履いている、室内用のスリッパが片方だけ落ちている。まるで、この場所まで走ってきて、そして脱げてしまったような。

 

 胸騒ぎに似た、いやな緊張感に襲われながら、 ドアを開けた。

 部屋の中は暗かった。だが、廊下からの明かりで、部屋を見渡すことはできた。  

 スリッパのもう片方がベッドの脇に落ち、そしてその向こうに、仰向けにルイーズが倒れていた。僕は息をのんだ。ルイーズの口に、布のようなものが押し込められていたからだ。  

 

 僕はしゃがみこみ、ルイーズに顔を近づけた。

 死んでいるのは、明らかだった。もがいたルイーズが引き寄せたのか、右肩にかぶさるように、脚の折れた小さなサイドテーブルが転がっている。

 テーブルの上にあったはずのスタンドは倒れ、コードが引き抜かれている。ほころびのために、 そこだけカーペットと同じ色のビニールクロスが張られている一角に、ガラスの花瓶が割れ、花びらが散っている。左手には居間、右手にはキッチンに通じるドアが見える。その左手のドアに隙間があり、テレビの音が漏れてくる。


「――ルイーズ、どうして?――」

 

 口をふさいでいる異物を取り除こうとして、僕ははっと我に返った。ルイーズは何者かに殺害されたにちがいない。

 死体に触れてはいけない。警察に通報しなければならない。まるで夢の中を歩くように、ぼくはふらふらと階下へ降りていった。


 携帯電話を手にすると、膝が震えはじめ、喉の奥が締め付けられるように息苦しくなった。999につながり、事務的な女性の声に住所を訊ねられたとき、僕は応えながら嗚咽をとめることができなかった。

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