第2話

 ぽつりぽつりと、視界に建物が現れてきた。古びた教会の高い塔が、木々の向こうに見える。

 どうやら村境にたどりついたらしい。

 肥料や農具をしまう納屋のついた家が目立ちはじめ、道のまわりに沿って柵が設けられ、歩道が石畳になった。目指す集会所は、ハイストリート(町や村の中心で、商店が集まる通り)の先にある。


 おそらくヴィクトリア時代から変わっていないだろう町並みを、僕のローヴァーはゆっくりと抜けていった。

 同じ高さに並んだ古いレンガ造りの家、軒先につるされた花籠。

 派手な看板も自動販売機も、もちろんコンビニエンスストアもない。いつのまにか陰った空から細かい雨が降りはじめ、通りはまるで古い風景画のような静けさだ。

 

 集会所の横手にある通りへ車を止め、荷物を担いで会場に入った。まだオープンまでには一時間あまりあるせいか、出品者の姿はまばらだった。 骨董販売会と書かれた小さな看板も、会場の隅に寄せられたピアノに立て掛けられたままだ。僕が借りた平台の場所は、入口に近い窓際にあった。

 

 ひととおり陳列を終えると、オープンまでひとやすみするために、会場に造られた臨時のカフェに向かった。ここでは、入口のすぐ脇に小さなテーブルが用意され、数人が集まっていた。ポットと数個のマグカップ。コーヒーはない。

 

 紅茶を入れたマグカップにぬるい牛乳をたっぷり注ぎ、僕もテーブルのそばに立った。

 まわりに見覚えのある顔はなかった。何百とスタンドが並ぶ大きな販売会なら、顔見知りの同業者に会うこともある。 だが、出品者が三〇に満たない今日のような販売会では、知った顔を見つけることはまずなかった。特に今日は、地元のコレクターが多いらしく、聞こえてくる言葉にも強い訛りがある。

 東洋人の出品者をめずらしがっているのか、ときおり驚いたような目を向けてくる者もいる。ここはロンドンではないとあらためて思う。

 

吹き抜けの会場の高い窓から、 柔らかな日が差し込んできた。入口には、まばらだが客も集まりはじめている。

 僕はマグカップを片手に、平台を眺めて歩くことにした。どの平台の上にも、様々な品が所狭しと並べられていた。高額な品は見当たらないが、趣きにあふれた顔ばかりだ。一つの平台に歩み寄って、置かれた絵皿を手に取った。 絵皿には、拗ねたような顔をした猫が昼寝をしている様子が描かれている。せいぜい一ポンドか二ポンドのガラクタでしかない。だが、気になってしまうなにかがある。その隣の、古い置時計にも興味が湧いた。ぜんまい式の、いかにも重たそうな時計。針を変えれば、まだ動くんじゃないか。そう思ったとき、平台の向こうで蹲っていた背中が振り返った。

 ハローと愛想良く笑顔を向けてきたのは、 痩せた、中年の女性だった。


「手に取ってみて。ヨークシャーで買い付けてきた時計よ」

 ソバカスのある皮膚に包まれた青い目が、抜け目なく動く。そして彼女はあらと、親しげな声をあげた。

「レディングの野外販売会に出てたでしょ? 覚えてない? あたし、あなたの近くの台で売ってたんだけど」

 その町の販売会なら半月前に行った。僕はああ、思い出しましたよと笑顔をつくった。

「あのときはたくさん売れたけど、今日はどうかしらね」

 彼女の声には、同業者の親しみがあふれていた。そして彼女は、くだんの時計を指先で撫でると、

「お友達もいっしょね?」

 僕はきっとキツネにでもつままれたような顔をしていたのだろう。彼女は戸惑ったふうに、目を見開いた。


「ここに知り合いはいませんが」

「そう? この間のときずっといっしょにいたように思ったから」

 彼女の目は、冗談を言っている人のそれではなかった。もちろん、からかっているつもりもないらしい。

  昨夜マイクに言われたことを思い出した。 僕が誰かといっしょにフラットへ戻ったと言ったマイク。真夜中の駐車場を流れ去った、車のライトの帯。

 

 そろそろオープンだからというのを言い訳にして、僕は彼女の台を立ち去った。

 どうやら、奇妙な偶然が重なったらしい。

 自分の平台に戻り、客を眺めながら、僕の出した結論はそれだった。たまたま僕の近くで行動したある女性を、マイクも彼女も、僕の知り合いだと勘違いした。ほかの理由はは思いつかなかった。まさか二人が揃って幽霊を見たわけでもないだろうし、故意に僕を尾行している女性がいるとは思えない。僕は忘れることにした。二人が見たというのが女性であることに胸をときめかせるほど、僕はロマンティストじゃない。

 そしてそれから数十分ののちに、僕はほんとうに見知らぬ女のことは忘れてしまった。思いがけなく客がたてこんで、商品の説明や交渉以外のことは考えられなかったからだ。だが、見知らぬ女の影は、僕から離れたわけではなかった。午後の三時を過ぎ、客足に勢いがなくなったころ、僕はふたたびその女について、訊ねられたのである。


「今日も連れて来たのかい?」

 そう言って、僕の肩を叩いたのは、主催団体のスタッフのひとりである、ディビットという名の男だった。会うたびに口を利く相手ではなかったが、ここではいつもの話し相手がいないせいか、笑顔は親近感にあふれていた。

 品物の補充をするために段ボール箱に顔をうずめていた僕は、驚いて振り返った。


「さっき会場を出て行くのを見たよ。一足先に帰ったのかい? それとも、近くで終わるのを待ってるーー」

 僕はディビットの言葉をさえぎった。

「誰もここへ連れてきてないけど」

 依然ディビットの顔から、微笑は消えなかった。

「だって、彼女、あんたの知り合いだろ? このところ、よく販売会にいっしょに来てたじゃないか」

「――またか」

 僕は呟いてから、立ち上がった。

 どうやら、誰かが僕のまわりをうろうろしているのは、事実のようだった。

 にわかにただよってきた煙の匂いに気付いたように、見知らぬ女の存在がはじめて現実感をともなった。


「知らない女なんだよ。どんな女だったか聞かせてくれないかな」

「どんなって。そうだな、背の高い痩せた女だよ。年は二十代になったばかりか、もしくは十代の終わりだろうな。赤毛で、まあまあの美人だな」

 やっぱり知らない女だ。僕は確信を持った。

「初めてその子を見たのはいつか、覚えてるかな?」

 ディビットは、視線を泳がせてから、溜息をついた。

「といっても、どうだったかな」

「アランデルのときは?」

 僕は最近販売会の行われた地名を、いくつか挙げることにした。

「あのときは、いたよ。まるであんたの影みたいにうろうろしてたから、よく覚えてる」

「ニューカースルは?」

 デイビットはしばらく考えてから、首を振った。

「いなかったと思うよ。――うん、見てないな」

 さっき話した女性は、その子をレディングで見たと言った。そしてディビットは、アランデルで見、ニューカースルでは見なかったという。


 ということは、八月に入ってからだ。僕は記憶をたどって、そう思った。ニューカースルに行ったのは、七月の始めだった。レディングとアランデルには、八月の始めに出かけている。七月、ニューカースルに出てから、僕はほかの販売会には出なかった。風邪をこじらせてしまったのだ。

 

 目的はなんだろう。


 何も思いつかなかった。誰かに恨みを買ったおぼえもなし、若い女性にひそかに後をつけられるほど、自分が魅力的だとも思えない。考えに沈む僕を、ディビットの明るい声が現実に引き戻した。

「そう深刻になることもないじゃないか。あんたのファンかもしれないぜ」

 そしてディビットは人なつっこい表情で、ウインクしてから、

「よかったな。あんたもいつも一人じゃさびしいだろう」

 そう言ったディビットを、誰かが呼び、ディビットは、じゃあなと、ぼくの肩を叩いて去っていった。


 僕は去って行くディビットの後姿をぼんやり見つめ、それから目が覚めたように、作業の続きを開始した。平台の空いたスペースを埋める品を、段ボールの箱の中から出しては並べた。

 六個目を並べたとき、僕は気持ちが目の前の品から離れていることを認めて、平台の脇に置いた丸椅子に坐った。

 ディビットが去り際に言ったことが、胸の中に残ったままだった。


――あんたもいつも一人じゃさびしいだろう。


 おそらく出品者仲間の誰もが、僕の孤独に気付いていたにちがいない。

 どこの会場でも、ぼくはひとりの友人も持たなかった。顔見知りに会っても短い挨拶を交わすだけで、情報を交換し合うことも、客の入りが少なかったとき、慰めあうこともなかった。

 そんな僕だったから、僕の近くに同じ人物がいることを、彼らはめずらしく眺め、だが、声をかけようとは思わなかったのだろう。

 

 いつのまにか、会場に客の姿は数えるほどになっていた。僕は丸椅子に坐ったまま物思いにふけった。平台の上の、ずっと売れないまま残っている数点の品を、古い友人を見るように眺め続けた。


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