迷子のウサギ

popurinn

第1話

 午後十一時発の電車でバーミンガムを発ってロンドンに戻ると、すでに日付は変わっていた。

 まだ九月のはじめだというのに、ホームに吹く風は、頬を切るような冷たさだった。

 足早に構内を抜け、車を置いた駅前の駐車場へ向かった。足元の石畳が薄く濡れている。電車の窓を濡らしていた細かい雨が、ようやくやんだようだ。

 駐車場には、数台の車しかなかった。目指すローヴァーのフロントガラスに、街灯のオレンジ色の光が映っている。


 ひやりと冷たいドアを開けて中に入り、エンジンをかけた。一度でかからないのはわかっているから、はじめから三度目に期待する。思ったとおり、三度目でようやく動き出した。中古で買ってから半年。すでに一〇万キロを走っているこの車は、いつもご機嫌を取るのに苦労させられる。安堵に似た気持ちでアクセルを踏み、ゆっくりと駐車場を出た。

 大英博物館を右に見て、コベントガーデンの脇を通り、ウォータールー橋へ。

 街は水底のように静かだった。昼間愉しげな観光客たちが行き交う歩道に人影はなく、こんもりと茂る街路樹が青い陰をつくっている。


 テムズ川を越えたところで、思い出したように空腹を感じた。今朝早くロンドンを発ち、午前中からバーミンガム周辺にあるコレクターの家を回った。気持ちの張りがあったせいで食事のことなど忘れていたが、ここにきて、急に胃が普段の調子を取り戻したらしい。

 たたんでしまった店が数軒続く寂れた通りを行き過ぎ、コンクリートの壁が寒々しい高層の建物の脇を通って、見慣れた街角に着いた。辺りには、美しい街路樹も、整然としたレンガの建物もない。通りの角にあるパブがなかったら、ここがロンドンであることなど誰も信じないだろう。


 がらんとしたスーパーマーケットの建物の裏に回り、フラットの前にある駐車場でエンジンを切った。

 建物を見上げると、六階の一部屋と二階の一部屋をのぞいてどの窓も真っ暗だった。老人が多く住む、このフラットの夜は早い。

 僕はまるで泥棒にでもなった気分で、こっそりと階段を上り、二階のいちばん奥にあるドアへたどり着いた。


 部屋の中は冷えていた。暖房を付け、ベッドに腰掛けてスニーカーを脱ぐ。靴を脱ぐと、やっと自分の家に帰ってきたと思う。その途端ふたたび強く空腹を感じた。  

 冷蔵庫の中には、ろくなものがなかった。干からびたチーズの欠片とパンだけ。

パンを口に咥えたまま玄関に戻り、一日背負い続けた大きなリュックサックの口を開けた。埃の臭いとともに、今日買い付けした品々が顔を出した。ひとつひとつを手に取って眺める。サン(大衆新聞紙)にくるまれたものもあれば、青いビロードの布に包まれたものもある。


 見た目や値段に関係なく、どれがどう化けるかわからないのが、骨董のおもしろさだ。

 僕はひとつひとつの品の、今後の運命を想像した。

 釣り好きなら喉から手が出るほど欲しがるにちがいない、石の上にトラウトの絵が描かれたペーパーウェイト。

 コレクターなら見逃すことができない、馬蹄型のドアノブ。ぼくは客のニーズに合わせて様々な品を買い求める。値段も価値も多岐にわたる。

 ひととおり眺め終えると、馬蹄型のドアノブだけを手に取って、ソファに戻った。  といっても、部屋の中は買い付けた品々が入った段ボール箱が散乱し、ソファにたどり着くにも、いくつもの山を避けなければならない。

 骨董にまみれた部屋。いや、ガラクタに埋もれた部屋というべきか。


 棚からスコッチウィスキーを取り出してグラスに注いだ。今日は僕のボウモアを選んだ。ちょっと癖のある味だが、こんな夜にはぴったりだと思う。冷えた体に、液体がゆっくりと染み渡っていく。

 ちびりちびりとやりながら、 馬蹄型のドアノブの取っ手を掌で撫でた。温まってきた部屋の中で、掌に伝わる鉄の冷たい感触が心地いい。 どれだけ眺めてもいても飽きないけれど、気持ちを切り替えて立ち上がった。これ以上酔わないうちに、やらなければならないことがある。


 明日から三日間、田舎の小さな村で催される骨董販売会に出品する予定だった。

 会場は村のはずれにある集会所だ。畳一畳分ほどの机を借りて、一八ポンド。出品者には、村の素人のコレクターもいるような、アットホームな販売会だ。

 売り上げはさほど期待できないが、どこに上客が潜んでいるかは、行ってみなければわからない。熱心な顧客をひとり掴めば、掘り出し物を見つけたとき、販売会に出品する手間が省ける。


 部屋の隅に積んである段ボール箱を開けて、明日の出品にそぐう品物を選ぶ作業にとりかかった。

 このぶんだと、あと二、三十分は眠れそうもないな。置物の一つを布で磨きながら思ったとき、電話が鳴った。携帯電話はたしか上着のポケットの中だ。上着を脱ぎ捨てた玄関に戻ったが、電話の音は別の場所から聞こえてくる。どうやらキッチンで落としたようだ。


 三年前、今夜と同じように、夜中に電話が鳴った。

 日本からの、入退院を繰り返していた母が亡くなったという知らせだった。予想はしていたものの、葬式の日時を告げる義兄に返事をするのが辛かったことが、忘れられない。

 悪い知らせはもうたくさんだ。冷蔵庫の脇の棚にあった携帯電話を耳に当てながら強くそう思ったとき、聞き覚えのある男の声が響いてきた。


「カワサキ、カ?」


 聞き覚えのある声ではあったが、誰であるかはわからなかった。そうだと応えると、相手は同じ階に住むマイクだと名乗ってから、早口でまくしたてた。

 僕の友人が、規定外の場所に車を駐車したという。駐車したのは、フラットの脇にある通路の入口らしい。

「今すぐあんたの友人に、車を移動させるよう言ったほうがいい。そうしないと今夜こそ警官を呼ぶぞ」

 相手はそう言ってから、息を大きく吐いた。その溜息を聞いて、耳に響く声と記憶にあるマイクという名の人物の風貌が重なった。


 マイクは同じ階に妻と二人で住む老人で、まるでこのフラットの管理人のように、常々住人たちの動向に気を配っている男だ。この部屋の電話番号を知っているのは、僕が越してきたばかりのとき、何か問題が起きたときのためにと訊かれたからだった。

 

 おそらくこの老人は、僕の後から駐車場へ入ってきた車を、僕の知り合いの車と勘違いしているのだろう。

 僕はゆっくりと丁寧に言った。

「お話はわかりましたが、その人は、僕の知りあいじゃありませんよ」

 するとマイクは、フンと小さく鼻を鳴らし、

「知り合いじゃないわけがないだろう? この間も今夜も、あんたといっしょに帰ってきたじゃないか。わしは廊下からちゃんと見ていたんだ。いつか注意するべきだ。そう思ったからね」

 彼の部屋は、私の部屋とちょうど反対側の端にあった。玄関のドアを開ければ、廊下全体を見渡すことができる。

 

 この老人は、妄想を抱いているのだろうか。


 怒りと戸惑いが薄れ、僕はそんなふうに思った。だが、日頃の態度を思い返しても、妄想を抱いているとは思えなかった。ほかの住人と話をしているところや、郵便配達人と挨拶を交わしているところを見かけた覚えがあるが、しっかりした口調と態度は、ある一部の若者より歯切れよく明快だった。

 念のために、マイクが見たという人物の風貌を訊いてみることにした。するとマイクはふざけたことを言うなと言わんばかりに、

「顔がはっきり見えたわけじゃないんだ。美人かどうかを訊かれても、答えるわけにはいかないよ」

「女性なんですか」

「ちがうのかい? 髪が長くてスカートを履いているのは女性だと、わしの年代は疑わないんだが」

 そして老人の声が瞬間遠のいたと思うと、窓越しにエンジンをかける音が響いてきた。


「そう。動かさなくちゃ駄目だ。まったく」


 受話器を置き、急いで窓のカーテンを開けた。この部屋からも、半分だけなら駐車場が見える。

 闇の中を、車のライトの帯が流れた。 誰かの車が駐車場を出て行ったようだった。



 頼りない朝日が昇り、濃い霧が残る細い田舎道を進んでいるころには、真夜中の電話のことはすっかり忘れてしまっていた。


 結局準備はあれから一時間あまりかかり、ベッドに入ったのは、四時近くなってからだった。

 そして今朝は、六時にはフラットを出た。眠ったのはほんの数時間で、神経は運転に集中することだけで精一杯だった。


 僕が向かっているのは、ドーバー海峡に面したハーウィッチという名の、小さな村だった。骨董販売会は、イギリス国内のいたるところで、ほとんど毎日開かれている。ハーウィッチも、地味ながら品のいい販売会が定期的に開かれる村だった。


 森が開けて、明るい丘の上を走る一本道になった。

 僕は張り詰めていた緊張とともに、スピードを緩めた。もう村までは目と鼻の先である。


 ハンドルにもたれるようにして前かがみになり、前方の丘を眺めた。

 羊が草を食んでいる。その向こうには、ゆったりと歩く牛の姿も見える。その向こうには、小さな教会も見える。

 窓を半分だけ開けた。湿気を含んだ生あたたかい風が入ってくる。ズボンのポケットから煙草を取り出して、火を点けた。息を吐くと、いいようのない安らぎが全身に満ちてくる。


――あなたのせいじゃないのよ。


 そう言った慶子の声の声がふと蘇った。

それは鎮痛な、それでもこちらを責める意思がはっきりとしたものだった。そして、その声は、目の前のこの風景となんとそぐわないことか。


――だから、帰ってきて。


 だが、僕は、今日もこうして、普段は人が見向きもしない、古びて汚れた品物を積んで、知らない土地を目指している。

 中学校のとき、社会科の授業で習ったことのある町に行くこともあれば、地図で探すのが困難な小さな村に行くこともある。どこの町も村も、生い立ちやこれまでの暮らしとは、縁もゆかりもなく、そしてたった一人の知り合いさえいない場所だ。

 そこで僕は小さな台の上にガラクタを並べる。自分とは異なる肌の色をした人々に声をかけ、異なる色をした瞳を見つめて、交渉をする。誰も僕のことを知らないし、知ろうともしない。

 

 先週の金曜日に、僕は二十八歳になった。だが、依然なんの答も見つけられないまま、知らない土地をさまよい歩いている。

 行く先を誰に告げることもなく、空腹を感じると目についた店で食事をし、眠るためだけに自分のベッドに戻るという生活を繰り返している。明日や明後日、せいぜい一週間後のことなら予定がたつが、その先はどこで何をしているのかわからない、そんな暮らしを続けて三年になる。



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