美人さん

 まだエドで働いていた頃に折った右手の人差指と中指。


 くしゃっといったところを鋼線で固定、骨が固まり鋼線を抜いてすぐにこっちにやってきた。


 一ヶ月ほどが経ち、少しずつ動いてきているものの、まだ人差し指では鉛筆を持つことができない。


 もちろん病院でのリハビリにも週に二、三度は通っていた。


 担当の人にマッサージをしてもらうと手が柔らかくなって、心もなんだがふんわりした。


 いい気分でトラムの停留所へ向かって歩き始める。


と、向こうから患者さんの乗った車椅子を押しながらやってきたのはマイカだった。


 ここはマイカの職場でもあった。


 すれ違いざま、「おう」とだけの彼女。


 私も「おう」とだけ返す。


「……それは、汚い言葉使いだ。美人さんが使ってはいけない」


 背後で患者さんのささやくのが聞こえた。


「美人さんだなんて、ヴァルマさんも言うようになってきましたよね」


「いや。本当のことを述べたまでだ」


「彼女は私の〝同胞〟なのです。ですからついー……」


 二人の会話はやがて潮騒しおさいと喧騒の中に消えた。


 そうそう、美人さんと言えば、あの人を思い出す。


 ゆるふわパーマのボブに細身で……そこまでは私と変わらないけど、あとはすっかり私とは真逆の女性だった――



 それは、私が2度目のオーシャンサイドにやってくる、マグレブでのことだ。

『……移住だ。

 何やかやあったが、エドの仕事やアパートはもちろん、

 チチブの実家の私物もすべて処分してきた。

 そういう覚悟の上のものだ…… 』

  手帳に、ぷるぷると震えた文字で今の気持ちを綴った。

「いや、逃げただけか」

  そう小さく声が出た。

 小さかったけれど、ガランとした車内には大きく響いた気がしてそっと周囲を伺う。

 列島部に渡る手前の最後の町、バドラートでほとんどの人が下車。グリーン車だからなのか、客は残り僅かなようだ。

 もう近くにはいないだろうと中腰に身を乗り出して確かめてみる。

 この車両には私と――そこにいる気配は全然なかったのだが―― すぐ前の席にもう一人、 女性が残るだけだった。

 多分エドより前、 首都のリエージュから乗っていて、 座席をリクライニングさせたり、体を動かしたりすることなく、 まるで座禅を組むお坊さんのように静かにそこにいたのだ。

 いやまさか死んでいないよね、 とも思ったが肩の僅かに上下するのを見て、ああ寝ているんだ、 と安心して席に座った。

 なんでだか、彼女のように寝てみようと考えた。

 それは30秒と持たず、私は席を最大限までリクライニングさせた 。

 あっという間に眠りに落ちた。

 

 列車が減速を始めても前の座席の人は起きなかった。

 肩がゆっくり動いているのを確かめてから、そっと前へ回ってみた。トイレや売店で移動した際、 何度かチラ見をしていたが、まじまじと見るのはこれが最初だ。

 美人さんだった。

 肌は絵の具の白みたいに白い。私よりかなり背丈はありそうだけど、細い。 体は多分ガリガリ。

 こんな作り物みたいな人がいるんだなぁ、と見とれて微笑してしまった。

 上下くすんだ色のデニムに古びたバスケットシューズじゃなきゃ、本当にマネキン人形だ。

「もう着きますよ 」

 と声をかけてから、しまった、と思った。今までならこんなことは絶対にしない。

 彼女は薄らと目を開けた。 髪と同じ 栗色の瞳 だった。瞳だけがキッと私の方に向いたので ドキッとした。そして

「 もうええ」

 と再び目を閉じてしまった。

「……はい」

 やっぱやめとけばよかった。何、もうええ、って。 頬がすごく熱くなった。

 私は自分の席に戻り荷物をまとめることにした。


 列車はかなりの勾配を下り、やがて着地しタイヤでの走行、最終的には建物の中に入って停まった。

 立った時に前の席を見たが、 女性の姿は消えていた。いつの間に出てっいちゃったんだろうか。全く気がつかなかった。

 そういえば小さなバッグの1つでさえ持っていなかった気がする。

 私はと言うと結構大荷物。車内持ち込みだけでバッグが3つ。更に貨物室に預け入れをしていたトランクが2つ。

 すべてが揃ってカートに乗せたところで「よっしゃー」と背伸びをした。

 と、列車の前方、改札の向こうに何かを感じた。逆光に目を細めはしたが、確かにあの女性が軽く手を振り去っていくのが見えた。

 私にだとは思えなかったけれど、こっちも手を振り返していた。

「いい滑り出しだ」

 映画のようなセリフが出た。


 ――なんとなく、すぐまた会う気がしていたけど、もう一ヶ月以上経つんだな。


 けど会ってなんだというのだろう?


 向こうからかまってきてくれるような期待でもしてるの?


 そんな自分が嫌なんじゃなかった?

 

 だいたい私はあれこれとイベントやハプニングなんて苦手な性格でしょ?


 そう、だから、この南国でのんびりほのぼのと過ごしたかっただけ!


 いや、こんなのもみんな嘘で……


「いんや。どれもこれもがお前なんや」


 びっくりした。


 停留所でトラムを待つ私の隣に、あの美人さんが立っていた。


 前みたときとおんなじデニム上下に、今日はサンダルだった。


 なんでもよいけど何よりびっくりしたのは、私がぼんやり考えていたことへの回答。


「なんでわたしの考えてたことが解かったの?」


「気付いてへんやろー? 独り言」


長身で私を見下ろして話すからか、西部訛りからか、やはり嘲た笑顔からか……


なんなの、この高圧的態度!


「独り言? わたしが?」


「せや」


 いやいやいや! 絶対言ってないって!


 あの時の、予感地味たあれって実はこれだったのか!


 そう! ヤバい人!!


「ヤバい? 俺が?」


「ほらー!」


 私は彼女の目をじっとみたまま後ずさりして間合いを拡げた。


「俺は熊か?」


 それにしても私の周りには一人称〝俺〟の女が多い気がする。


 ああ、でもマイカって〝俺〟って感じで話すけど、〝わたし〟って言う。

 

 決してそんなのが多いわけじゃないわ……なんてどうでもいいことを考えた。


「女? オッサン掴まえて女はないで」


「は?」


「俺はシノブ・トキノタビト。男や男。年齢は……いくつやったかなぁ?」


「は?」


「ほなな、カオル」


 シノブと名乗った美人のオッサンはトラムに乗って去った。


 最後は私の名前まで言いやがった!


 これはもう、マジでヤバい!


「あーしまった。あのトラムじゃなきゃ面接間に合わなかったのにー……」


 ああ、でもやっぱ独り言言ってるのかも……

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