しばらくは音のない世界だった。今まで自分が練習してきた日々の映像が流れ、真は昔の自分を回想していた。小学生の頃の野球を始めたばかりの様子、中学になり頭角を現し始め、高校にスカウトされる。世代別の日本代表にも選ばれ、野球界でその地位はすでに確立されたものでもあった。

 あと一歩のところで夢が破れた。高校三年の最後の夏の大会。順調に勝ち進み、全国大会の切符をつかめるかと思われた矢先の出来事。妙な虚しさと大きな後悔であふれていた。

 (最後まで、160キロ…出なかったな)

 それは彼の目標でもあった。他にも果たすべき目標はたくさんあった。プロになるために何が必要か、そのためにどうすべきか。分析し、常にプロフェッショナルな考えを持つ彼のメンタリティーは、高校生らしからぬ大人びたものもあったかもしれない。

 (…!)

 空想が終わり、目が覚めたのは突然のことだった。辺りを振り返ると、そこは森に囲まれている。何度も何度も同じ場所を見渡すが、景色の変わらぬ緑の木々ばかりだった。

 (ここは?えっと、俺は何でここに?)

 服装はユニフォームのままだ。スパイクを履き、バッティングをするためのグローブも手にはめて、足には土汚れがある。真が野球場にいた何よりの証拠だ。その証拠があるのにも関わらず、自身が置かれている状況に困惑せざるを得なくなっている。

 (ヘルメット…はない、か。どこを見回しても森、森、森、森ばかり。何なんだ、一体)

 クールが特徴の彼であったが、今回ばかりはそうも言ってられない。頭にデッドボールを受けて倒れたかと思えば、目を覚ますと全く違う場所にいたのだから。だがしかし、そんな状況でも彼には冷静な気持ちがまだあった。

 (このままここにいても状況は変わらないだろう。ひとまず歩いて、周りに集落があるか…とりあえず、そこを目指すか)

 ゆっくり立ち上がり、歩みを進め始める。時折鳥のさえずりや虫の鳴き声が聞こえたが、それ以外に特に変わった様子はない。見ているだけで飽き飽きするような情景が続く。

 (暑くはないけど、景色が変わらないと結構しんどいな)

 数十分歩き変わらない状況に飽き飽きしていたまことは変わらない状況に飽き飽きしていた真は、近くの木にもたれかかり休憩しようとした、その時だった。

 (…?あれは?)

 人の声、おそらく数十人はいるだろうとされる。近くに小さな村の集落があるかもしれない。そう考え、真は急ぎ足で進み始めた。だがそれも束の間、自身の足を止めてすぐに物影に隠れることになる。息を殺し、ゆっくりと視線をやったその先には、いかつい見た目をした男たちと、それに怯える若い女が二人いた。

 (あいつら、もしかして盗賊?でも何で、何でこんな場所にいるんだ?)

 何はともあれ、男たちが女二人を襲っているという状況は理解ができた。剣やハンマーなどたくさんの武器を所持している男たちと、盾と剣のみで応戦しようとする褐色肌の女。戦士のような見た目をしている。そしてその女の後ろに身を隠すようにして怯え、泣いているもう一人の町娘風の女がいた。

 「オラオラねーちゃん達、おとなしく俺たちと一緒に来いよ」

 「やめてください!さもないと、この剣であなたたちを、倒します!」

 震えながら声を上げるも、そのか細い女の声は相手に響くことはない。

 「早くしないと、君たちの大事な命を、俺様たちの手で奪っちまうぞ?それでも良いのか!?」

 「早く答えを出しやがれ!!」

 助けるべきか、それとも見て見ぬふりをして逃げるべきか。初めての状況に、真は判断の迷いが生じていた。急なシチュエーションにまだ慣れておらず、かと思えば目の前で悪者に今にも襲われようとしている女がいるのに、逃げていいものなのか。スポーツを経験していた彼にしてみれば、人に優しくすることもスポーツマンシップの一つとして学んでいたことでもあるからだ。だからこそ助けるべきなのかということを、時間をかけて迷っていたのだ。

 (俺は、俺は…)

 「ヒャッハー!!死ねぇぇぇぇぇぇ!!!」

 けたたましい声とともに、男は女に向けて大剣を振りかざす。小さな盾で防御しようとするも、女の不利は明らかだった。見ただけならば、その大剣盾を貫き、女の体を真っ二つにできそうなものだった。このままでは、また、同じような後悔を経験することになる。心に引っかかるような、もどかしい経験を二度とすることは、真の本望ではなかった。

 「ガフッ…!」

 大剣を振りかざした男は、けたたましい声から獣臭い鳴き声へと変貌を遂げた。話す声というよりも、どちらかというとただの音に近く、白目をむき泡を吹いて、そのまま言葉を発することなく気絶した。

 「お、おいお前!大丈夫―――…」

 男の仲間が声をかけようとするも、最後まで言葉を発することなく、同じ倒れ方をした。何が起こったのかは、一瞬誰にもわからなかった。だが、それはすぐに判明することになる。

 「石?なぜ石がこんなところに?」

 「おい、誰かいるのか!出てこい!!」

 そうやって素直に高校野球の元球児が出てくるはずもなく、綺麗なフォームと素晴らしいリリースで次々と男たちの体に命中させていく。生い茂る木を巧みに使い、石の軌道などをうまく変化させていき、真はあっという間に男たちを全滅させてしまった。

 「えっと、今何が起きたの?」

 剣と盾を持った冒険者らしき女は、目の前で起きた一連の流れにうまく考えがまとまらない。ひとまず後ろにいたもう一人の女の身をあんじて、介抱をしていた。

 「…!誰!?」

 茂みの中から音がした。咄嗟に女は、武器を構えて戦闘態勢に入る。

 「あー、えーっと、すみません。驚かせるつもりはなかったんですけど」

 見たことのない服装。見たことのない靴。容姿も何もかも、の人間とは違う。青年がかけてくれた言葉は優しくも、女の警戒心は拭えなかった。

 「まさか、あんたがこいつらを?」

 「まあ、はい。そのー、何ていうか、怪我大丈夫っすか?」

 真の振る舞いに、女は武器を収めた。警戒を解いたのだ。そこからなんやかんやあり、悪者たちをロープで縛りつけることになり、真はそれを手伝った。

 「武器は、多分これで全部っすよね」

 「えぇ、そうよ。その…色々ありがとう」

 「いや、まあ全然。どうしようか迷った結果、ああするしかなかったんで。俺のできることはそれしかなかったから」

 含みを持たせた真の言葉に多少の違和感を覚えつつも、女は納得した。

 「そういえば自己紹介がまだだったわね。アタシの名前は、ルミー。それで、この後ろにいるビビりな妹がベウ」

 「そ、その…ありがとう、ございました」

 「大丈夫っす。怪我がなくて良かった」

 聞けば二人は姉妹であり、森の中で木の実を採取しようとしていたらしい。そんな中、悪漢に行く手を阻まれてしまい、そこをたまたま見かけた真が助けに入ったという流れのようだった。

 「それで、ルミーさんは何の仕事をしているんですか?剣なんか持って」

 「何って、冒険者に決まってるでしょ?アタシは冒険者ギルドに用があったから、その道すがら妹と一緒にこの森に来たの。ちなみに妹はギルドの職員だから、ついでに色々手続きもしようかなって」

 疑問符と疑問符がいくつにも重なり合い、まことの眉間にしわが寄った。若干ベウが怖がるも、ルミーがそれを制御する。

 「え?うん?は?え?はい?いや、あのここって、どこなんですか?」

 「どこって、コーエンの森よ。この先にアーシャ王国がある。って、あんた何も知らないの?」

 薄々感づいてはいた。真が今まで過ごしてきた雰囲気とは違うような環境。今まで日本に住んでいて森に入ったことがないわけではなかったが、明らかに何かが違っていた。外国とか違う惑星とか、そういった次元の話ではない。武器を持ち言葉は荒々しく、服装も見たことがないわけではないが、どこか空想の世界を匂わせるようなそんなものだった。未だにちゃんと考えがまとまっているわけではなかったが、少なくとも今彼がいる場所が日本でないことは明らかだった。

 (もしかして、ここは異世界?いや、でもそんなことが現実に起こるものなのか?)

 幼い頃から野球以外にもスポーツや武道をたくさん経験してきた彼でも、最近のサブカルチャージ上には少しは精通しており、時事もある程度理解はしていた。だからこそ、自分の知識をもとにそういった答えを導き出した。だがにわかに信じがたく、まさか自分がそういった経験をするとは思いもよらなかったからこそ、しばらく黙る時間が続いた。

 「ちょっと!急に黙らないでよ。どうしたのよ」

 「あ、すんません。ちょっと考え事をしちゃって」

 「ふん、まあいいわ。じゃあ、アタシたちはこれで。行こ、ベウ」

 ルミーの言葉を否定するかのように、ベウはルミーの服の裾を強く引っ張った。

 「ちょっと、なによ?ベウ、どうかした?」

 「その、えっと…私、この人にお礼がしたい」

 ここからちょっとした姉妹喧嘩が始まった。

 「は?なんでよ、早く帰らないと私もやりたいことがあるのに!」

 「で、でも!助けてもらったんだから、ちゃんと恩返しをしないと!お父さんもお母さんも言ってたじゃない、人から受けた恩は忘れず返すべきだって」

 「じゃあ私のやりたいこととかを先延ばしにしてもいいってことなの!?」

 先ほどまで黙る時間が多かったベウが、饒舌に姉と喧嘩をしている。次第に語気は強くなっていき論点はずれていった。少ししてもなかなか収束する気配はない。だがしかし、真にしてみればそれがとても面白く、思わず笑ってしまっていた。

 「ちょっと、アンタ何笑ってんのよ!」

 「いや、その、何て言うべきかな、久々に面白いなと感じたからつい笑ってしまったっていうかさ。気を悪くしたのなら、すんませんした」

 野球部としての癖なのか、帽子はないが、ついつい帽子を取り挨拶をするかのような素振りを見せる真。野球というものが異世界にあるのかどうなのかは疑問が残るところだが、そんな真の姿はどこか面白く変な動作を見せた彼を見て、姉妹は笑った。大いに笑った。

 「で、こいつらどうします?けいさ…いや、その、警備の人とかに預けたりとか」

 「はあ…まあ良いよ、このままで。この気絶具合だと、どうせ数時間は眠ったままだろうし。ここら辺一帯は数時間に一度、森の警備をしてる人が来るから、そいつらに任せてそのままにしておけば良いさ」

 最初はどうなることかと思えた状況が一変し、和やかなムードに変わる。不安や焦り、そして戸惑いがあった真だったが、数年ぶりに大きな声を出して笑っていた。野球が嫌いなわけではなかったが、野球真剣にのめり込みすぎてしまったデメリットが、どこか彼をクールにさせたのかもしれない。

 異世界に来たという事実をすぐに受け止めて慣れるには、まだ少しだけ時間がかかるだろう。だが、閉ざされかけた彼の未来に、少し光が灯った、そんな瞬間だった。

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