第二幕【フォニー】①
自分のことを壊して欲しいと頼むなんて、一体どんな心境なのだろう? 訳が分からないと思いながらも、
「まあ、どうしても壊れたいと思うなら、いくつか方法をお教えしますよ」
どんな心境なのか分からないが、断ってそのまま別の話をするのも冷た過ぎるかと、パッと浮かんだ方法をいくつか提示してみることにした。
実際にそれで壊れることが出来るかどうか分からないが、出来なくはないだろうという感覚で、無責任な言葉を紡ぐ。
「自分自身を壊したいなら、簡単です」
別に難しいことはない。
上に行くのは容易なことではないが、下に行くのは容易とまではいかなくても──難しいというほどではない。
「己の劣等感を刺激する存在の傍に居続ける。これだけで人は簡単に壊れます」
「まるで見てきたように言うんだな」
「実際見ましたよ、何人も」
焦がれるあまり、灰になるまで己の身を焦がした人間を、何人も見てきた。「直接的な原因なのか、間接的な原因なのか──どちらなのか分からないが、多少コイツが関わっているんだろうな」と、このときの依織は考えていたのだが、その考えは正しい。彼女が直接的な原因になったこともあれば、間接的な原因になったこともある。
「他にも方法があります。今言った方法と真逆の方法ですが、優越感に浸れる相手を傍に置くというのは、あっという間に自分が壊れますよ。そういう人間とずっといたら、よほど強靭な精神を持っていない限り──自滅してしまうでしょう」
「…………」
「後はそうですね──悪辣な人物の近くにいるのも、自分を壊す一つの選択肢だと思います。気に入った相手には優しい奴でもない限り、気に入られたとしても、確実に良い思いはしないでしょうからね」
気に入った相手には優しい奴でもない限りという発言は、大した意味はなく、ただ単により確実に自分のことを壊してくれる存在を提示するために、誰に対しても悪辣な人間が良い程度の軽い気持ちで言い放った。
「物理的に手っ取り早く壊れたいなら、屋上から飛び降りたりするのが一番ですけどね」
そして、この発言も、軽い気持ちから発せられた。
「後は、そうですね……これは罪悪感が正常に機能している人間にしか使えない方法ですが、己の精神安定剤になっているレベルで大事な物を原型が失くなるまで壊す、あるいは、己の精神安定剤になっているレベルで大事な人を殺す。親とか兄弟とかを」
「必要なら殺すのか?」
「他に方法がない状態なら殺しますけど、基本的には殺しませんよ。殺しって、あんまるメリットないじゃないですか。リスクとリターンが釣り合わないというか、アレって他にどうしようもないときに使う手段でしょう?」
よっぽど追い詰められたのならばまだ違うのだろうが、そもそも、彼女は精神的によっぽど追い詰められることはないため、精神的に追い詰められたことが理由で人を殺すことはない。
「試しに僕でも殺してみます?」
壊して欲しい──という言葉の本気度合いを測るために投げ掛けた問いなのだが、彼女の予想と違い、彼は黙り込んだ。
「…………」
「貴方、僕に対して執着しているでしょう? 大事かどうかは分かりませんが、そこまで執着している存在を殺すとなれば、精神に大きなダメージを与えられますし、悪くない案だと思います」
彼の存在をつい先程忘れていた存在なのに、自分に対する執着の度合い──精神に大きなダメージを与えられる存在であることを理解していたのは、彼が分かり易いことを抜きにしても、良くも悪くも観察眼に精神が絡まないことが、要因として大きいだろう。
何故黙り込むのかの「何故」を、
「……もし、それで、俺が、お前を殺そうとしたら、どうするんだよ」
日和った態度を見て、「この人、自分のことを壊したいなんて、本気で思っていないんだな」と──確信した。
「そんなこと──ときが来なければ分かりませんよ。案外どうもしないかもしれませんし、どうにかするかもしれません」
嘘だ。
本当はある。
心が動くことがあれば──感情と心が連動する瞬間なら、殺されても良い。
「抵抗するとか、そういうこともしないのか?」
「さあ、どうなんでしょうね? 死にたくないって気持ちはありますからね、抵抗はするでしょうが、案外僕ってすぐ諦めちゃうんで、無理だと思ったら大人しく殺されるかもしれません」
かもしれない、ではなく、本当に大人しく殺されようとした。
「ところで、貴方には、自分が殺されても良い瞬間ってありますか?」
篝火鞠に殺されそうになったことを思い出し、なんとなく問うてみる。
深い意味はなく、 本当になんとなく問うた。
別に答えて貰わなくても良いと思っていた。
どういう回答が返って来ても、己の心を揺さぶることはない予測していたからだ。実際その通りだった。
彼女は彼に、何も期待していない。
「殺されても良い瞬間……」
「そうですねぇ。貴方がご両親のことが好きですか?」
好きだと分かってて訊ねている。
両親のことが嫌いだったら、きっとこうはなっていないのだろう。
「まあ、それなりには。良い親だと思うし。偶に厳しいときもあるけど」
「では、ご両親の命と貴方の命、どちらの命を優先しますか? どちらかしか助からない場合。ご両親を蹴落として自分だけ生き残るか、自分の命を犠牲にしてご両親を生かすのか」
親のことが嫌いではない、寧ろ好きであると分析しているのに、このような問い掛けをするのだから、妹から人間的に問題がある人物と扱われるのである。
「嫌な言い方をするな」
「分かり易い表現をしただけです」
「言い方を選んだところで、どっちを選んでも気分が良くない話であることに変わりないが、しかしもう少し配慮のある言い方ってものが出来ないのか?」
「だいぶ気を遣ったんですけど……」
彼女にしては気を遣った方なのだが、彼には全く伝わっておらず、「これで気を遣ったのか?」と、目線で訴える。
しかし、彼女には伝わらない。
結果的にそれを無視する形で、「貴方は、嫌なことから逃げたいと思うタイプなんですね」と、言葉を続ける。
「誰だって、そういう傾向はあるだろう」
「仮の話とはいえ、頭に親を蹴落とす自分がいたことが嫌なのでしょう? 誤解しないで欲しいのですが、嫌なことから逃げたいという言葉は──貴方の保身について言及しているんですよ」
彼の
「親に対して罪悪感を抱いたからではなく、親を蹴落とす自分が嫌だったのでしょう? 存在しない自分の気高さが汚れたような気分になったのでしょう?」
引き攣った笑みを浮かべる依織を見て、「自分の醜いところを突き付けられるのが、本当に嫌なんだなぁ」と、思った。既に散々醜いところを見せているのに、今更何を
「お前は、人の心が分からないのか、分かるのか──判然としないな」
「人の心なんて分かりませんよ。考えていることなら、ある程度推測することが出来るだけです」
精一杯捻り出した「へぇ」を、特別気にすることもなく、彼女は全く違う話題を切り出す。
「話が変わるんですけど、好きでもない相手に好意を抱かれても気持ち悪い、好きでもない相手から告白されても気持ち悪いと感じる人っているじゃないですか?」
「いや、本当に、話が変わったな」
「でも、そういう人達って、自分が人を好きになったとき、同じことを言われたらどうなんでしょうね?」
「ブーメランが刺さるな」
「困る程度なら、まだ分かるんですよ。相手が自分のことが好きだけど、自分はそうじゃないって状態な訳ですから。人によっては気を遣うでしょうし、告白されるとなると、返事をしなければならない訳ですから」
世の中、他人の目線が気にならない鈍感な人物は、そこまでいない。
匂宮天音のように、どんな目線を向けられようと、精神に影響しない人間は皆無に等しいのだ。
そのことを三割ぐらいしか自覚していない天音には、そのような感情を真の意味で理解することは出来ないだろう。
「けど、気持ち悪いってどうなんでしょうね? 好意を抱いてきた相手が、気持ち悪いと評されても仕方がないことをしたなら分かるんですよ。男子中学生が、三八歳の女性に恋愛感情を抱かれたりとか──未成年、下手したら親子でもおかしくない歳の差がある訳ですから」
「後は、そうだな、えげつない下ネタを言われるとかな……」
「いい具合に蒸れた足を舐め回したいとか言われたら、普通に気持ち悪いと思いますよね」
幼い頃の記憶がそこそこ残っている天音は、当時五歳のときの記憶が未だに鮮明に残っており、実の母親が言われた台詞を一言一句覚えていた。
下の妹から、「天音お姉ちゃんは大事なことだけは忘れませんけど、大事なこと以外は忘れてますよね」と、言われたことがあるぐらい、記憶力に問題があるのに、何故記憶しているのかと言えば、母親のストーカーが当時五歳の己に敵意を向けていたからだ。
「そんなことを言われたら、思わず殴るかもしれない」
「しかし、相手が、気持ち悪いと呼ばれるような要素がない人ならどうでしょう? 自分のことを取り繕っているときの貴方とかをイメージして貰えれば分かると思うんですけど、困るという感情を抱かれるならまだしも、気持ち悪いと言われる筋合いはないと思うんですよね」
「なんで俺を例えに出すんだよ」
大した理由はない。
目の前にいるから、例えとして使った。
それだけである。
「じゃあ貴方のお父上を思い浮かべて下さい」
「……まあ、気持ち悪いと言われる筋合いは、ないな」
「人から好意を向けられること自体に気持ち悪いと感じるなら、まだ理解することが出来るんですけど、自分が好きな相手から好意を向けられることは良いけど、そうじゃない相手からの好意は気持ち悪いだけというのは、かなり傲慢なことだと思うんですよね」
「……傲慢というのは、確かにその通りだ。けれど、人間は多かれ少なかれ矛盾した気持ちを持つものじゃないか? 自分は嫌だけど、相手にはそれを当てはめないというのは」
「矛盾した感情を抱えていることを自覚して、棚に上げていないなら良いんですけど、中には『自己紹介か?』って感じの棚上げをしている人、いるでしょう?」
「まあいるな」
「これって一部は、貴方に当て嵌まりますよね」
「…………」
彼女と会話を続けても傷付くだけと分かっているのに、会話を続けてしまうのは、こうして彼女の方から積極的に話し掛けてくれることがあまりないからだ。
「貴方が僕にしていること、僕が貴方にしたら、傷付くし、怒りますよね?」
痛いところを、痛々しいところを突かれた依織は、先程以上に居心地の悪い表情を浮かべる。
今すぐにでも逃げ出したそうな彼の顔を見た彼女は、「逃げたいなら逃げたら良いのに」と、口にこそしなかったが、後ろを向いて走るだけの行為が出来ない理由がないのに、それをしない彼を態度に疑問を持つ。
「──今ここで、貴方に対して気持ち悪いと言ったら、果たして僕はどうなるんでしょうか?」
疑問に持ったが、すぐに忘れた。
重要なことではないから、簡単に忘れてしまった。
「………………お前、俺のこと嫌いなのか?」
「いや、別に」
「好きではないだろ?」
「はい」
好きが
そして無関心に近い。
少なくとも、
「お前にはないのか? 自分のことは棚に上げて──ああだのこうだの思った経験がないのか?」
「ありますけど」
彼女が覚えておかないと困ると判断していないことは、すぐに忘れてしまう傾向があるので、本人にそのつもりがなくても、自分のことを棚上げした発言をしていることが多々ある。
「天音には、自分が殺されても良い瞬間って、あるのか?」
「さあ? そのときが来ないと分かりませんよ」
心が動くことがあれば、死んでも良いと考えているが──しかし、感情が心に影響するようになったら、死にたくないと、殺されても良いと思う瞬間などなくなるかもしれません。
そう考えると、存外この発言は嘘ではないのかもしれない──とか、思った。
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